書籍目録

『日本の首府と日本人』

ヴィシェスラフツォフ(著) / カーステンセン(編訳)/(ムラヴィヨフ)

『日本の首府と日本人』

(デンマーク語)初版 1863年 コペンハーゲン刊

Vysheslavtsov, Aleksei Vladimiroich / Carstensen, W(illiam).

Japans Hovedstad og Japaneserne.

Kjøbenhavn, Wøldikes Forlagsboghandel, 1863. <AB2024112>

¥55,000

First edition in Danish.

8vo (12.7 cm x18.5 cm), Front., pp.[1(Title.)-5], 6-91, Contemporary three-quarter leather on cloth boards.

Information

1859(安政5)年、東シベリア総督ムラヴィヨフ率いるロシア艦隊の海軍医ヴィシェスラフツォフが見た幕末の日本 共に来日した親友カーステンセンが日本関係部分だけを訳出、編集して刊行したデンマーク語版

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「1859年(安政6年)、安政条約の批准と樺太境界問題を解決するために品川沖に到来したロシア東シベリア総督ニコライ・ムラヴィヨフは、威嚇の目的があったのだろう、堂々たるアムール艦隊を率いていた。そのうちの一艦プラストゥン号上に、美術と学芸を愛好する軍医が乗船していた。
 本書は、横浜開港直後の幕末騒擾期、攘夷の激しかった江戸の模様を記録したロシア海軍医、アレクセイ・ウラジミーロヴィチ・ヴィシェスラフツォフ(Aleksei Vladimirovich Vysheslavtsov)の手になる大著『ペンと鉛筆で書かれた世界周航記、1857ー60年』(聖ペテルブルグ、1862年刊)中の、日本に関する一章、「江戸より」(原著284ー369頁)の全訳である。」
 「日本とデンマークとの交流史に関するデンマーク側の史料を狩猟していた段階で、『日本の首府と日本人』(1863年、コペンハーゲン刊)なる小冊子にめぐりあった。日本の首府とはいっても、ここでは江戸をさしているのはいうまでもない。それには「あるロシアの旅行者より」と副題がついていて、「なんだ、翻訳か」と思いつつ「まえがき」を読んでみると原著の作者をヴィシェスラフツォフといい、デンマーク語版への訳者ウィリアム・カーステンセンのアムール艦隊勤務時代における親友で、函館駐在ロシア領事ゴシケヴィチと知己であった、などと書いてある。ヴィシェスラフツォフとは聞いたこともない名前なので調べて見たがなかなか見つからず、『国立国会図書館所蔵日本関係欧文図書目録、昭和23年ー50年』(1977年)のページを繰ってみると、Vysheslavtsev(ママ)の著者として、前記のデンマーク語版『日本の首府と日本人』が掲げられているではないか。」

「安政6年(1859)夏、樺太境界問題解決のために、ムラヴィヨフ率いるアムール艦隊が江戸に押し寄せてきた。その一艦に乗り組んでいた軍医ヴィシェスラフツォフはユーモアもある鋭い観察者、美術の方面にも造詣が深かったようで、攘夷の嵐を投石によって痛みとして身に受けながら、折からの物価高騰で商品経済が混乱し、日本人の間にいやが上にも高まっていた外国人に対する反感を、ロシア人特有の楽天主義と高圧的態度で押し切って、江戸の街を闊歩して回った。
 使節の来訪中に横浜で起こったロシア軍士官ら3名の殺傷事件は、まさに起こるべくして起こった事件で、決して偶然のいたずらではなかった。幕府の役人が語って聞かせた情勢分析も、函館駐在ロシア領事ゴシケヴィチが通訳をつとめて簡明かつ的を射た解説を加えたおかげであろうが、実に要領を得ていて、幕府倒壊という結果を知っているわれわれ現代人に耳に、妙に新鮮な響きをもって伝わってくる。
 海軍医ヴィシェスラフツォフは、火葬場に興味を抱いたり、通りでも歯医者(歯抜き屋)の実演を観察したりして、医者らしいところを見せていたかと思うと、当時は行楽地になっていた王子で見かけたひとりの武士が、享楽主義者の権化のように振舞うのを目のあたりにして、羨望の念を露わにしたりもした。自らも美的生活者らしかったヴィシェスラフツォフは、自然を愛する日本人の感覚を賛美し、この理想的な日本人に自己同一化の夢を託していたのかもしれない。ともかく、自分なりに日本文化のフォルムを発見していたようである。
 デンマーク語版の訳者カーステンセンが名づけたように、この印象記は、日本の首府江戸とそこに生活する江戸人の描写である。例外的に函館の祭の記述などもあるが、それも江戸との比較で見られている。原著の出版が1862年でデンマーク語訳版が翌63年、オールコックの『大君の都が出版されたのも1863年のことだった。つまり、どちらも『大君の都』より早く江戸を紹介していたわけである。」
(ヴィシェスラツォフ / 長島要一訳『ロシア艦隊幕末来訪記』新人物往来社、1990年、訳者まえがき、あとがきより)