書籍目録

『ルーマニアで刊行されたニコラエ・ミレスクの著作と研究・関連書コレクション』

ミレスクほか

『ルーマニアで刊行されたニコラエ・ミレスクの著作と研究・関連書コレクション』

全12作品 1894年〜1998年  ブカレスト他刊

Milescu, Nicolae and others.

The collection of his works and studies on him in Romania.

Bucharest and other places, Various publishers, 1894-1998. <AB2024111>

In Preparation

12 vols.

各巻の明細と書誌情報は下記解説を参照。,

Information

ロシアの外交使節として17世紀後半に北京を訪れ、日本についても記録を残したミレスクに関するルーマニアで刊行された文献コレクション

 ここに集められているルーマニア語の著作群は、いずれもモルダヴィア公国(ルーマニア)出身のニコラエ・ミレスク(Nicolae Milescu, 1636 - 1708, ロシア名はスパファリ)が、1674年にロマノフ王朝のロシア皇帝外交使節団長として清朝の北京に派遣された際の知見をまとめた著作に関する作品です。ミレスクはロシアが清に対して公式に派遣した最初期の使節団の責任者として、その旅程や各地の様子、北京の宮廷内事情などについて詳細な記録を残しており、またもう一つの彼の使命であった清の周辺諸地域、諸国についての情報収集の成果の一つとして、日本についての最初期の情報をロシアにもたらしたことでも知られています。ミレスクの報告書は19世紀末に至るまで刊行されることはありませんでしたが、ここに集められている著作群は、19世紀後半から20世紀にかけて刊行されたミレスクに関する様々な研究や、著作の翻刻などからなるもので、彼の母国であるルーマニアにおけるミレスク研究の基礎資料となるものです。

 ミレスクは、モルダヴィア公国(現在のルーマニア、モルドバ共和国、ウクライナ)で外交官としてベルリンやストックホルムに派遣され、フランスではルイ14世を訪ねるなど精力的に活躍していましたが、同地を支配していたオスマン帝国に謀反を図ったとされて失脚してしまいます。その後、ロマノフ王朝のモスクワ太公アレクセイ(ピョートル大帝の父)が、ミレクスの外交交渉力や多言語能力、その豊かな学識などを高く評価して自国に招聘し、ミレスクは1671年以降同地で新たな活躍の場を得ることになりました。ミレスクは外交官として活躍する一方で、数多くの著作を残しており、ロマノフ王朝の理論的に権威づけるために王権神授説に基づく著作を刊行し、ロマノフ王朝こそが神聖ローマ帝国の正当な後継者であるといった主張を展開したりもしています。

 ミレスクは1675年に清への外交使節の責任者に任命されて北京へと派遣され、100人以上から成る大所帯の派遣団を率いて同地に赴きました。17世紀半ばごろからロシアはシベリア東方への進出を勢力的に行っており、遂にはアムール川を下って黒龍江近辺にまで到達するようになるなど、次第に清の勢力圏へと近づきつつあり、民族的にも政治的にも重層的で不安定だった両国の境界領域をめぐって衝突が繰り返されるようになっていました。そんな中、1667年頃にバイカル湖東方のザバイカル地域の有力者でそれまで清に服属していたガンチムールという人物が、清から離反してロシアへの貢納を行うようになったため、それに対して強い危機感と反発を覚えた清の康熙帝が、彼とその貢納民の引渡しをロシアに要求する勅書を出し、清とロシアとの間で幾度かのやり取りが行われました。こうした事態を受けてロシア側は、ガンチムールに起因する問題は当面棚上げしつつ、清からの勅書に対する返答という大義名分を最大限に活用して、外交使節団を北京へと派遣して、この機会に清との通商関係の樹立を図ることを目指すことを思いつきました。そして、そのための使節団の責任者として抜擢されたのが、まさにミレスクその人です。

 1675年に全権大使として使節団を率いてモスクワを出発したミレスクは、モンゴル経由ではなく、あえてシベリアを北東に進んで直接北京へと向かう行路をとって、道中の自然や社会状況、産物、行路など様々な情報を収集、記録、測量もしながら旅を続け、1677年に北京に到着しました。ミレスクは康熙帝から送られた勅書は言語の上の問題からロシアでその内容を解読できなかったとしてガンチムールに関する問題を議論することを避けつつ、友好と通商関係の樹立を望む旨を清に伝えました。これに対して、清側はロシアが康熙帝からの勅書が読めなかったと言うのは虚偽であると認識しつつも、ロシアを「朝貢国」とすることは自国の権威を高め、国内統治に資する点も大きいとして、具体的な言質や書面での回答を与えることは避けつつも、比較的好意的な態度で応じようとしました。しかしながら、ミレスクは2国間の交誼は対等に結ばれるべきものであって、ロシアは清に対して朝貢を願っているわけではないと反発して、清の求める跪拝なども拒否したため、最終的に交渉は決裂し、清からはほぼ何らの回答も得られないままミレスクは北京を後にすることになりました。

 このように外交的には大きな成果を上げることができなかったミレスクですが、先に見たように北京へと至る道中において様々な調査や測量を行いながら旅を続け、また北京滞在中は、日本や台湾、東南アジア諸国など清の近隣地域に関する情報を勢力的に収集しており、こうした調査活動の成果は、帰国後に『シベリア経由での中国国境への旅路』と『中国誌』という2つの報告書にまとめられ、この2つの報告書はロシアにおける最初の本格的な中国や東アジアに関する情報を伝える独自の作品となりました。また、『中国誌』では、最後の1章が日本についての記述に当てられており、この記述はロシアにおける本格的な日本研究の嚆矢となりました。

「17世紀の中ごろにロシア人は、古来サハリンやクリル諸島を訪れて、現地の住民の一部と成っていた東北アジアの住民たちからサハリンとクリルのことを知った。ロシア人が日本に関する最初の情報を得たのもそのころのことである。『宇宙誌1670年』第70章(「日本、もしくは日本島について」)には、不正確な点もあるが、日本の地理的位置、気候、動植物界、統治制度、生業、宗教、日本人の感情、習慣、日本人とスペイン人、ポルトガル人、オランダ人との関係などについての資料が載っている。例えば同書には、「日本人はきわめて聡明……記憶力優秀……気象ははげしい」、「大阪は繁栄した壮麗な都市である」、ポルトガル人、スペイン人は通商のために渡日し、ヤソ会員は日本に神学校を創設し、本を出版しているなどと書かれている。
 『宇宙誌』その他の文献は、1675年2月25日に外交上の使命を帯びて北京へ派遣されたニコライ・ガヴリロヴィチ・スパファリイに与える指令作成のため外務省によって利用された。彼はまた東シベリア、アムール地域、中国の情勢報告および、ロシア政府が通商関係樹立を志していたインドと日本に関する情報収集も依嘱されていた。この指令につけられた補足は、日本についての簡単な描写がなされている最初の公式文書であった。ちなみにこれには、「日本(イヤポーニア)」は大きな島で、中国東方700ヴェルスターにあり、金銀その他の財宝に富む。日本の習慣、文字は中国のそれに類似しているが、日本人は「凶猛で」、ヤソ会員を多数処刑した、と書かれている。
 1678年1月5日、スパファリイはモスクワにもどり、旅行日誌と、中国、アムール、タタール海峡沿岸それにサハリンの情況報告の2つの文書を外務省に提出した。このなか、2番目の文書、とくにその「光輝ある偉大な日本島および同島で得られるもの」と題する章では、日本に関して、『宇宙誌』よりもいっそう信頼するに足りる情報がもたらされていた。スパファリイは、アムール河口では中国と日本へ渡海する船を建造できると指摘している。「ロシアの村を中国と分つ大河アムールについての話」の章では、アムールは大洋に注ぎ、その河口に相対して、ギリヤーク(ニフヒ)の住む大きな島が横たわっていると書かれている。スパファリイはギリヤークの準拠、衣服、生業を記述している。」
(E・ファインベルグ / 小川政邦(訳)『ロシアと日本:その交流の歴史』新時代社、1973年、25, 26ページより)

 非常に残念なことにミレスクによるこの2つの画期的な報告書は当時は刊行されて公開されることはなく、教会スラブ語やギリシャ語などで書かれた様々な写本が製作されて一定の流布はなされたものの、約200年も後の1882年に至るまで刊行されることはありませんでした。しかしながらミレスクの2つの報告書は19世紀末にロシア語で刊行され、さらに20世紀に入ってルーマニア語でも刊行されると大きな反響を呼び、特に近代国家として独立を果たしたばかりのルーマニアにとってミレスクは自国を代表する偉人として注目を集め、ミレスクに関する研究や再評価が積極的に行われるなど、ロシア(ソ連)と同様、あるいはそれ以上に精力的な研究がなされ続けてきました。今日のルーマニアにおいても、ミレスクと2つの著作は人々の間で親しまれているようで、首都ブカレストなどでは彼の名を冠した通りも見られます(店主にミレスクのことを教えてくださったのもブカレストで街歩きガイドをされている現地の方です)。

 このように、ロシアと清、そして日本とを初めて本格的に結びつける存在となったという点で非常に大きな歴史的功績を残したと言えるミレスクですが、日本における認知度は極めて低いのではないでしょうか。ミレスクについては、吉田金一氏による「ロシア大使スパファリの中国遣使について」(『史学雑誌』第89巻所収、1980年)という非常に優れた論文(店主も大いに参照しています)や、中村喜和(編)『ロシアと日本:共同研究』(一橋大学社会学部、1990-1992年)などがありますが、それ以外のまとまった研究や著作などはほとんどなく、国内研究機関における彼の著作の所蔵も非常に限られてしまっているような状況です。彼の作品が19世紀末に至るまで公刊されなかったことや、公刊されたのがロシア語やルーマニア語であったこと、さらには冷戦下において研究交流が困難であったことなどがその要因として考えられますが、特に『中国誌』の最終章における日本についての考察がロシアにおける本格的な独自の日本研究の嚆矢となったことなどに鑑みると、日本でもより多くの研究や紹介があって然るべきではないかと思われます。

 ここに集められている著作群は、膨大なミレスク研究のごく一端を示すものでしかありませんが、19世紀末から20世紀半ばにかけてルーマニアで刊行された研究所が中心となっています。ミレスクのテキストについては、現代ルーマニア語に翻訳されたテキストに加えて、現存している教会スラブ語とギリシャ語で書かれた諸写本と、ロシア語、ルーマニア語への翻訳テキストに関する書誌情報、研究史に関する解説や注釈が豊富に付されており、ミレスクのテキスト研究を行う上でも非常に有意義な内容となっているように見受けられます。こうした各種研究書、ミレスクの著作の翻訳に加えて、さらにはルーマニアにおけるミレスク人気を反映した(あるいは促進させた)ミレスクを題材にした読み物なども含まれており、ミレスクとその著作について研究するための基本的な文献がある程度まとまっていると言えるものです。もちろん、いずれもルーマニア語で書かれている作品のため、ロシア語でも刊行されている膨大な研究資料や翻刻などを合わせて参照する必要はありますが、研究の手掛かりとしては十分有用な作品群ではないかと思われます。

1)『ニコラエ・ミレスク:とあるルーマニア人作家の略歴』(古今ルーマニア人著者(叢書))ルーマニア文科省認可学校版
1894年、ブカレスト刊
SPATARUL N. MILESCU: CRONICA PE SCOURT ROMÂNI. (AUTORIÎ ROMÂNÎ. VECHI ȘI CONTIMPORANI) EDIȚIUNE ȘCOLARĂ APROBATA DE MINISTERUL INSTRUCTIUNII PUBLICE.
 Bucharest: Editura Librăriei Socecu & Comp., 1894.
  10.0 cm x 15.2 cm.
  pp.[1(Title.)-5], 6-107.
  Original card boards.
  全体にわたって複数の書き込みが多数あり。

2)シミオネスク
『中国におけるニコラエ・ミレスク』(全世界からの有用知識叢書24)
1926年、ブカレスト刊 
Simionescu, I.
NICULAI MILESCU IN CHINA. (CUNOSTINTE FOLOSITOARE DIN LUMEA LARGA. Seria C. No.24)
 Bucharest: Editura “Cartea Romaneasca”, 1926.
  12.5 cm x 19.3 cm
  pp.[1(Title.)-3], 4-32.
  Modern paper wrappers.

3)ジュレスク
『ニコラエ・ミレスク:彼の著作(研究)への貢献』(ルーマニア・アカデミー歴史学叢書第3期第7巻第7号)
1927年、ブカレスト刊 
Giurescu, Constantin C.
NICOLAE MILESCU SPĂTARUL. CONTRIBUȚIUNI LA OPERA SA LITERARĂ. (ACADEMIA ROMĂNĂ MEMORILE SECȚIUNII ISTORICE SEIA III TOMUL VII MEM.7)
 Bucharest: Cultura Naționala, 1927.
  17.2 cm x 27.6 cm.
  pp.[1], 2-53, pp.I-VI(plates.).
  Original paper wrappers.

4)イオルガ
『ニコラエ・ミレスクの未発表作品』(ルーマニア・アカデミー研究と調査叢書第3巻)
1927年、ブカレスト刊
Iorga, N.
OEUVRES INÉDITES DE NICOLAS MILESCU. (ACADÉMIE ROUMAINE ÉTUDES ET RECHERCHES III)
 Bucharest: Ateliers Graphiques 《CULTURA NAȚIONALĂ》, 1927.
  17.2 cm x 27.6 cm.
  Title., pp.[1], 2-126.
  Original paper wrappers.

5)モショイウ
『ニコラエ・ミレスク:中国を旅した人』
1936年、オラデア刊
Moşoiu, Tiberiu.
NECULAI MILESCU SPĂTARUL: CĂLĂTOR ÎN CHINA.
 Oradea: Editura Revistei “FAMILIA”, 1936.
  12.0 cm x 18.1 cm.
  pp.[1(Half Title.) 2], Front., pp.[3(Title.)-5], 6-248.
  Modern cloth.

6)ブレアヌ
『ニコラエ・ミレスクの生涯』
1942年、ブカレスト刊
Boureanu, Radu.
VIAȚA SPĂTARULUI MILESCU.
 Bucharest:Editura Contemporană, 1942.
  13.5 cm x 19.0 cm
  pp.[1-3(Half Title.)-5(Title.), 6], 7-237.
  Original pictorial paper wrappers.
  本文の一部に書き込み、表紙の紙端に傷みあり。

7)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳)
『中国誌』
刊行年不明(1960年代頃か)、ブカレスト刊

Milescu, Nicolaie, Spătarul / Bărbulescu, Corneliu (ed.& tr.).
DESCRIEREA CHINEI.
 Bucharest: Editura de Stat Pentru Literatură Și Artă, [n.d.]
  13.0 cm x 20.0 cm
  pp.[I-III(Title.), IV], V-XXX, [XXXI], pp.[1], 2-285, [286], Plates: [8]
  Original pictorial paper wrappers.

8)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳)
『中国旅行記』(ルーマニア古典叢書)
1956年?、ブカレスト刊
Milescu, Nicolaie, Spătarul / Bărbulescu, Corneliu (ed.& tr.).
JURNAL DE CATLATORIE IN CHINA.(CLASICII ROMîNI).
 Bucharest: Editura de Stat Pentru Literatură Și Artă, [1956?]
  14.5 cm x 20.0 cm.
  pp.[1-3(Title.), 4], 5-458, [459], 1 leaf(Table of contents), (some folded) Plates: [5], 1 folded map.
  Original pictorial paper wrappers.
  [NCID: BB00804472]

9)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳)
『中国旅行記』(民衆文庫第156巻)
1962年、ブカレスト刊
Milescu, Nicolaie, Spătarul / Bărbulescu, Corneliu (ed.& tr.).
Jurnal de călătorie în China. (BIBLIOTECA PENTRU TOTI:156)
 Bucharest: Editura Pentru Literatura, 1962.
  10.8 cm x 16.4 cm
  pp.[I(Title.), II], III-XXXV, [XXXVI], pp.[1, 2], 3-450, [451].
  Original paper wrappers.

10)アルマス
『ニコラエ・ミレスク(物語)』
1954年、ブカレスト刊
Almaș, Dumitru.
NECULAI MILESCU SPĂTARUL.
 Bucharest: Editura Tineretului, 1954.
  12.8 cm x 19.5 cm
  pp.[1-3(Title.)-6], 7-590, [591], 2 leaves(Table of contents), 1 colored folded map.
  Original pictorial cloth.

11)P. パナイテスク / シルヴィア・パナイテスク(訳) / ゴロヴェイ(編注)
『ニコラエ・ミレスク』ルーマニア語訳版
1987年、ヤシ刊
Panaitescu, P.P. / Panaitescu, Silvia P. (tr.) . Gorovei, Ștefan(ed.).
Nicolae Milescu Spătarul (1636-1708).
 Iasi: Editura Junimea, 1987.
  12.7 cm x 19.6 cm
  pp.[I(Half Title.)-III(Title.), IV], V-XL, [XLI], 1-107, 1 leaf(Table of contents).
  Original paper wrappers.

12)ベルガッティ
『ニコラエ・ミレスク:その生涯、旅行、著作』
1998年、ブカレスト刊
Vergatti, Radu Ștefan.
NICOLAE SPĂTARUL MILESCU: viața, călătoriile, opera.
 Bucharest: Paideia, 1998.
  14.3 cm x 20.2 cm.
  pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-6], 7-298, [299], 1 plate leaf.
  Original pictorial paper wrappers.


「(前略)18世紀のロシアの人々がこうした情報の価値に見向きもしなかったわけではない。むしろその逆で、未知の世界の情報を求める情熱にはなみなみならぬものがあった。
 例えば、1674年、ロマノフ王朝はニコリ・スパファリー(1636〜1708)を使節として北京に送っている。スパファリーは、17世紀のイエズス会士マルティの・マルティニ(1614〜1661)の著作を、恐らく北京でイエズス会士から入手し、翻訳しつつ独自の視点をとり交ぜて、『アジアと呼ばれる世界の最初の部分についての記述』という著作を織り上げた。この中には日本に関する記述も含まれており、ロシアにおける最初の日本情報源の一つとされる。しかしながら同書が出版されたのは1882年であり、実に200年もの間、原稿の状態で眠っていたことになる。ただし本書には出版されていない時期にあたる17世紀末から19世紀初頭までの時期に書かれた数十種類の写本が現存することが確認されている。ある写本にある章が別の写本には含まれていないなど、内容にも微妙な違いが見られるという。手書きで写すため、筆者する人間の関心を反映しているのだろう。アジアの情報は貴重だったため、彼らは新しい情報を得るために少しの手がかりでもあれば大部の著作を書き写す労力を決して惜しまなかったのである。」
(畔柳千明「ロマノフ王朝時代の日本情報と日本学」東洋文庫・生田美智子(監修) / 牧野元紀(編)『ロマノフ王朝時代の日露交流』勉誠出版、2020年所収、301, 302ページより)

「ロシアが最初に日本のことを知ったのは1655年から67年にかけて作成された『コスモグラフィア』による。これはオランダのメルカトールの『アトラス』(1637年)の翻訳である。「日本あるいは日本島について」と題した70章に、日本は、東は新イスパニア、北はスキアナとタタール、西は中国、南は海と島に接する金・真珠・宝石の豊富な島として描かれている。ロシアは日本に関心をもち中国に派遣する使節のスパファリに日本情報の収集を命じた。彼の報告書には黄金郷伝説に加えて、切支丹弾圧情報と日本島は「アムール河口に近い」という位置情報が加わっていた。
 日本をめぐる伝説としては、黄金伝説とともに「白水鏡伝説(弾圧をうけていた古儀式派教徒に伝わる理想郷)があった。これらの民間伝説も毛皮獲得や領土拡大とともに、日本探究の原動力となった。伝説の生命力は強く、ロシア東進の原動力になったコサックはもともと帝政の支配を逃れて辺境に定着した自由の民であった。アムール河口から日本へ達する道が遮断されて程なくして、コサックのアトラソフはカムチャッカにいる日本人を発見する。」
(生田美智子「ロマノフ王朝時代の日露交流」前掲書所収、40,41ページより)

1)『ニコラエ・ミレスク:とあるルーマニア人作家の略歴』(古今ルーマニア人著者(叢書))ルーマニア文科省認可学校版 1894年、ブカレスト刊
2)シミオネスク 『中国におけるニコラエ・ミレスク』(全世界からの有用知識叢書24) 1926年、ブカレスト刊
3)ジュレスク 『ニコラエ・ミレスク:彼の著作(研究)への貢献』(ルーマニア・アカデミー歴史学叢書第3期第7巻第7号) 1927年、ブカレスト刊
4)イオルガ 『ニコラエ・ミレスクの未発表作品』(ルーマニア・アカデミー研究と調査叢書第3巻) 1927年、ブカレスト刊
5)モショイウ 『ニコラエ・ミレスク:中国を旅した人』 1936年、オラデア刊
6)ブレアヌ 『ニコラエ・ミレスクの生涯』 1942年、ブカレスト刊
7)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳) 『中国誌』 刊行年不明(1960年代頃か)、ブカレスト刊
8)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳) 『中国旅行記』(ルーマニア古典叢書) 1956年?、ブカレスト刊
9)ニコラエ・ミレスク / バルブレスク(編訳) 『中国旅行記』(民衆文庫第156巻) 1962年、ブカレスト刊
10)アルマス 『ニコラエ・ミレスク(物語)』 1954年、ブカレスト刊
11)P. パナイテスク / シルヴィア・パナイテスク(訳) / ゴロヴェイ(編注) 『ニコラエ・ミレスク』ルーマニア語訳版 1987年、ヤシ刊
12)ベルガッティ 『ニコラエ・ミレスク:その生涯、旅行、著作』 1998年、ブカレスト刊