書籍目録

『太平洋郵船の中国・日本新航路要覧』

[キャッシュ]

『太平洋郵船の中国・日本新航路要覧』

著者から社主マクレーンへの献辞本 1867年 サンフランシスコ刊

[Cash, Thos M.] / (McLane, Allan).

A SKETCH OF THE NEW ROUTE TO CHINA AND JAPAN BY THE PACIFIC MAIL STEAMSHIP CO.’S THROUGH LINE OF STEAMSHIPS BETWEEN New York, YOKOHAMA AND Hong Kong, VIA THE ISTHMUS OF PANAMA AND SAN FRANCISCO.

San Francisco, Turnbull & Smith(, book and job printers), 1867. <AB2020340>

¥121,000

Author’s dedication copy to Allan McLane, the president of the Pacific Mail Steamship company at that time.

11.0 cm x 18.5 cm, 2 leaves(blank), pp.[1(Title.)-3], 4-104, 2 leaves(note), 2 leaves(blank), Original full leather.
表紙が本体から外れている状態

Information

世界初の太平洋横断定期航路便新設を記念して刊行された航路と寄港地の案内書

 本書は、アメリカ政府の支援を受けて1867年に世界で最初に太平洋横断定期航路を開いた太平洋郵船(Pacific Mail)社が、航路開設を記念して作成したと思われる書物で、一般の観光客が太平洋を横断して日本や、中国を訪問することが初めて可能になった際に作成された最初のガイドブックとも言える一冊です。しかも本書は、著者と思しき人物から当時の太平洋郵船社主であったマクレーン(Allain McLane)への直筆献辞が記された特別な一冊で、「世界旅行」時代の幕開けと、アメリカが「明白なる使命」に導かれて西漸を続けてついに太平洋へと至り、本格的な海外進出を開始することになったで出来事を象徴する作品と言えるでしょう。

 本書の内容は、ヨーロッパ大陸、ないしはイギリスから大西洋を横断してニューヨークへと至り、ニューヨークを出発してからパナマ地峡(当時は海峡が開設されていないため、アメリカ東海岸から西海岸へ至るためには一旦アスピンウォール鉄道に乗り換える必要があった)を経てサンフランシスコに至り、そこから横浜、上海へと続く航路を紹介したもので、寄港各地地についての簡単な観光ガイドも兼ねています。本書序文によると、ヨーロッパからニューヨークまでは11日間、ニューヨークからサンフランシスコまでおおよそ20日間を要し、そこから横浜までは17日、さらに横浜から香港までは6日を要するとして、ヨーロッパから香港に至る旅程はトータルで約1ヶ月半(54日)であるとしています。太平洋郵船は、この新航路の安定した定期周航と上質なサービスのためにあらゆる努力を惜しまない旨を述べ、旅行者のみならずビジネスパーソンにとってもこの航路は大きな可能性を開くものであることが強調されています。

 本書はその航路に沿った下記のような構成となっています。

第1章:ヨーロッパからニューヨークまで(pp.9-17)
第2章:ニューヨークからパナマ地峡を横断する鉄道に乗り換えるアスピンウォールまで(pp.18-28)
第3章:アスピンウォールについて(pp.29-37)
第4章:(パナマ)地峡の横断(pp.38-53)
第5章:パナマについて(pp.54-71)
第6章:パナマからサンフランシスコまで(pp.72-84)
第7章:サンフランシスコについて(pp.85-90)
第8章:サンフランシスコから、日本、中国まで(pp.91-101)
第9章:終わりに(pp.102-104)
注釈

 従来のインド洋経由で東アジアへと至るのではなく、アメリカ大陸を経て太平洋を渡って日本と中国へと至る世界初の定期航路便であっただけに、寄港先やその航路の解説に重きが置かれていることがわかる構成です。特に太平洋を横断する最初の定期汽船航路である点を強く意識して、就航する船体はアメリカにおいて過去最大級の大きさと堅牢さを兼ね備えていること、なおかつ乗客がゆったりと時間を過ごすことができる快適な設備と多くの貨物を収納できるだけのスペース、そして優れた蒸気機関とトラブルにも迅速に対応しうる高い技術力を持った船員がその運行に従事することなどが、第8章冒頭で強調されています。また、サンフランシスコの出航時間はお昼12時なので、出発日も朝食をゆったりとるだけのゆとりを持つことができる、などといった非常に具体的なスケジュールや、太平洋上での航路における注意点(Pacificという名称にも関わらず非常によく揺れるし、荒れる)など乗客向けの注意点などが細かに記されており、世界最初の太平洋航路がどのように運営されていたのかを知ることができる貴重な記述と思われます。

 本書によると、万事問題がなければサンフランシスコを出航してから17日後には横浜に到着することになり、船上から非常に美しい横浜港を眺めつつ、多くの居留民の熱烈な歓迎と出迎えを受けることになるであろうとされていて、続いて横浜で下船、あるいは上海行き航路への乗り換えを希望する乗客の手続きなどが解説されています。横浜についての情報は極めて乏しいものではありますが、若干ながらも簡単な紹介がなされており、英文での横浜案内としては早い時期のもの、特に汽船会社によるものとしては最初のものと言えるだけに、注目すべき記事と言えるでしょう。

 本書の結論では、この新航路が従来の航路よりも安価でより早く、美景に富んだ旅路を提供するものであることが改めて強調され、極めて近い将来にアメリカ大陸横断鉄道網の充実がなされることに鑑みれば、現在は寡占状態とも言える状況にある(イギリスの)ペニシュラ&オリエンタル汽船による既存航路を凌駕する、ヨーロッパからアメリカ大陸を経てインドへと至る新しく完全な交通網が完成することになるであろう旨が誇らしげに述べられています。

 本書は、おそらく大量に印刷して頒布したり販売することを目的とした出版物ではなく、航路開設を記念して近しい関係者に贈呈した記念品と思われ、豪華な革装丁と三方の小口に金箔押しが施されています。残念ながら表紙が本体から外れてしまっている状態ではありますが、世界初の太平洋航路開設当時の様子を伝える書物として、記念すべき書物ということができるでしょう。


「横浜が開港されるまでは、ヨーロッパからの定期航路は中国までであった。
 開港後、まず1864年にイギリスのペニンシュラー&オリエンタル汽船(P&O)が、1865年にフランスのメサジュリ・マリティム(フランス郵船)が、上海・横浜間の定期航路を開く。1867年にはアメリカのパシフィック・メイル(PM)が太平洋横断航路(サンフランシスコ・横浜・香港)を開設する。
 これによって、ヨーロッパ・アジア間航路と太平洋横断航路が、ここ横浜でつながり、世界一周の輪が連結された。横浜はヨーロッパ・アジア間航路を乗り継ぎ、香港や上海などからやってきた人が最後に立ち寄るアジアの街であり、逆に太平洋を越えて、北米航路からやってくる人が始めて目にするアジアの顔であった。
 1869年には、アメリカの大陸横断鉄道とスエズ運河が開通し、世界一周はさらに時間短縮された。近代日本の黎明期は、世界の交通網が革命的な発展を遂げた時代でもあり、横浜は急速にアジア太平洋地域の諸都市とのリンクを広げていった。」
(伊藤泉美「資料よもやま話 館蔵絵葉書に見るアジア太平洋地域の諸都市」『開港のひろば』第110号、横浜開港資料館、2010年所収より http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/110/05-2.html)

「アメリカの太平洋郵船(PMSS)は香港を拠点に太平洋での活躍を意図して1848年(嘉永元年)にニューヨークで創立された汽船会社であるが、18678年アメリカ政府から補助を受けてサンフランシスコ−横浜−香港の定期航路を開設し、別に横浜−神戸−長崎−上海間の支線を経営した。
 太平洋航路の第一船 Colorado号が横浜に入稿したのは1867年1月24日(慶応2年12月19日)であった。Young Japan の著者J. R. Blackは、太平洋郵船が横浜航路の解説を企画し熱望されていた事情を述べ、Accordingly, on the 24th January 1867, the first of these, the Colorado, arrived in Yokohama. といっている。
 この Colorado 号は1864年建造の木造外輪の蒸気船であった。他の就航船は Great Republic, America, China, Japan などであった。いずれも4,000トンクラスのの木造外輪船であった。(中略)
 福沢諭吉はコロラドの第一船で小野友五郎らと共に2度目の渡米をしている。帰ってから彼は『西洋旅案内』を出版しているが、その中で彼は西洋の人々がこれまで交易をするために印度洋を通って来たが、これからは貨物は印度洋まわりで送っても、身体は太平洋まわりでくるだろうと述べ、「さすればこれまで外国人を見て西洋人と唱へたれども、今は東の方より来るゆへ東洋人といふも理なきにあらず、げに昔日とことかわりたる世の有様なり」といっている」
(西岡淑雄「太平洋郵船と英学史」『英学史研究』第25号、日本英学史学会、1992年所収、87ページより)

「近代ツーリズムの曙
 欧米では、19世紀は、旅行と旅行記の世紀といってもよいほどの特徴をもった時代であった。イギリスでは、一昔前の名門貴族たちのグランド・ツアーとは違って、より大勢の人々が物見遊山にヨーロッパ大陸へ渡るようになり、1840年までにはおそらく年間10万人もの数にのぼっていたという。また、温泉地や海浜に出かける国内旅行もすでに全盛期から盛んとなっていた。
 近代ツーリズムあるいは旅行代理店の象徴ともいうべきトマス・クック(トマス・クック社の創設者)が初めてイギリス国内の団体旅行を組織したのが、1841年のことであった。このとしはほかにも象徴的な出来事が相次いだ年だった。イギリスの全国鉄道時刻表『ブラッドショー』の定期刊行が始まり、キューナード汽船(当時は別名)によって大西洋横断航路が開設され、アメリカン・エクスプレス社が発足した。それに先立つ5年前の1836年には、赤い表紙で有名なマレーの旅行ハンドブックの最初の巻(ヨーロッパ大陸旅行案内)がロンドンで出版されている。この赤本シリーズはその後約80年間にわたって刊行され、ドイツのべデカーとならんで旅行ガイドブックの代名詞的存在となった。

世界漫遊家の登場
 19世紀の半ばはまたアジア諸国が開国を迫られ、欧米列強の世界支配の体制のなかに組み込まれていった時代でもあった。アメリカが日本の開国を望んだ要因のひとつは、太平洋横断の汽船の寄港地(石炭・水の補給)を必要としたことにあった。そして1860年代に入ると、交通網の整備は世界的規模で急速に進み、交通革命ともいうべき状況を呈したのである。1867年には汽船による太平洋横断の定期航路が開設され、1869年にはアメリカ大陸横断鉄道が完成し、同年末にはスエズ運河が開通した。こうして1870年代には、世界旅行は飛躍的に便利になり、冒険家や特別の人ばかりでなく、一般の人も格段に容易に世界を旅行できるようになったのである。フランスでは早くも1860年に、そのなもずばり”世界周遊”というタイトルの旅行専門誌『ル・ツール・ドゥ・モンド』が創刊されている。」
(横浜開港資料館(編)『世界漫遊家たちのニッポン:日記と旅行記とガイドブック』1996年、17、18ページより)

Allan McLane, Esq. Presd Pac M.S.S. Co with Compliments of Thos M. Cash.