書籍目録

『日本滞在記』

アッセンデルフト・デ・コーニング

『日本滞在記』

1856年 アムステルダム刊

Assendelft de Coningh, C. T. van.

MIJN VERBLIJF IN JAPAN.

Amsterdam, Gebroeders Kraay, 1856. <AB2024106>

Reserved

8vo (14.0 cm x 22.3 cm), pp.[I(Half Title.), II], Illustrated Title., pp.[III], IV-VI, pp.[1], 2-180, Contemporary three quarter leather on marble boards, bottom of spine roughly repaired.
タイトルページに旧蔵機関による押印、書き込みあり。 [NCID: BA01800549]

Information

著者自身の率直な眼差しから、いきいきと描かれた最末期の日蘭貿易と出島の様子

 本書はオランダ貿易会社(Nederlandsche Handel Maatschappij)の社員、船長として1845年、1851年の2度に渡って来日したアッセンデルフト・デ・コーニング(C. T. van Assendelft de Coningh, 1821 - 1890)が、2度目の来日(1851年)時の体験を綴った作品で、1856年にアムステルダムで刊行されました。ペリー来航直前の時期にあたる1851年の長崎に3ヶ月ほど滞在したデ・コーニングの綴った本書は、当時の日蘭貿易のことだけでなく出島に出入りする幕府の役人や、彼が接触し得た市井の人々の様子や文化などが、実にいきいきとした筆致で描かれており、読み物としても大変優れた作品として今なお色褪せない魅力を有している作品です。

 デ・コーニングが1856年に刊行した本書はまだ邦訳がなされておらず、著者についてもこれまであまり多くのことが伝えられていませんでしたが、『幕末横浜オランダ方人見聞録』(東郷えりか訳、河出書房新社、2018年)が刊行されたことで、デ・コーニングに関する多くの情報を日本語で読むことができるようになりました。この作品は、彼の三度目の来日時(1859年〜61年)の経験や開国直後の横浜の様子を、ずっと後年になって綴った回想録『海と陸での冒険』(Ontmoetingen ter zee en te Land. 2 vols. Haarlem: W.C.De Graaff, [1879])の日本に関する箇所の邦訳作品で、オランダ語原著からの翻訳ではなく、英語訳(Chaiklin, Martha(tr.). A pioneer in Yokohama: A Dutchman’s adventures in the New Treaty port. Indianapolis: Hackett, 2012)からの重訳ですが、英訳者による優れた序文と邦訳者自身の丹念な調査によって、デ・コーニングの生涯とその作品について多くのことがわかるようになりました。同書によりますと、デ・コーニングは王立オランダ海軍学校(Koninklijk Instituut voor de Marine)の入学試験合格後、父の知人であったオランダ貿易会社(Nederlandsche Handel Maatschappij)の当時の社長の勧めにより、15歳で同社で勤務することになり、以来30年に渡って優れた航海士、貿易商人として活躍しました。1845年には同社の船員として来日し、この時は一介の操舵手の立場であったため長崎上陸を果たすことはできませんでしたが、船長として2度目の来日を果たした1851年には3ヶ月ほど長崎で滞在しており、本書では主にこの2度目の来日時のことが綴られています。なお、デ・コーニングは2度目の来日を終えた後の1852年にオランダ貿易会社から独立して、みずからの商社、海運業者を設立して1859年に3度目の来日を果たしており、1861年に日本を去るまで3年近く開港直後の横浜で貿易業務に従事した際の体験談が先に挙げた1879年に刊行された『海と陸での冒険』第2巻に綴られています。

 デ・コーニングがオランダ貿易会社の船長として来日した1851年は、ペリー来日を直前に控えた時期で、従来の日蘭貿易が最終局面を迎えつつある時期にあたっていました。オランダ東インド会社の解散とナポレオン戦争中にオランダが一時的にフランスに占領されるという大きな動乱期を経て、オランダによる対東インド貿易の立て直しと促進を図るために設立されたオランダ貿易会社は、民間企業の体裁を取っていたものの、実際にはオランダ王室が強力な後ろ盾となり、現地事情の総合的な調査や研究をも含む貿易促進を遂行するための国策会社といってよいもので、低迷する日蘭貿易の立て直しも当時の同社に課せられた大きな任務の一つとなっていました。本書には、そのような時期にオランダ貿易会社が長崎に派遣した貿易船の船長として、2度目の来日と念願の長崎上陸を果たしたデ・コーニングが、長崎到着時から滞在時、そして離日するまでのおよそ3ヶ月余りの出来事や、彼なりの日蘭貿易の実情の分析や考察などが綴られています。

「デ・コーニングは生涯において3度、日本へ旅をした。最初は船員として、次は船長として、最後は貿易商人としてである。1845年にランドベルク船長のもと、エルスハウト号に乗って最初に日本を訪れたときには、デ・コーニングは操舵手に過ぎなかった。日本人は、騒々しい水夫たちに辟易し、外界との接触を制限したがっていたので、下船できるのは来航する船の船長のみと定めていた。そのため、デ・コーニングは船上に留まらざるを得なかった。彼はのちに、よりよい条件でこの美しい国へ戻ってこられることを期待しながら、湾周辺の豊かな岸辺を眺めて満足するしかなかった、と(本書に;引用者注)記した。
 デ・コーニングは1851年に次に来日したときには船長になっていたので、合計で3ヶ月ほど出島に滞在できた。当時まだ30歳という若さでのこの出世ぶりは、船乗りとしての彼の生まれもった才能を反映している。また彼の一族がいかに広い人脈をもっていたかの証左でもあっただろう。この度は文筆家となる野心を掻き立てるだけの充分なネタを彼に与え、彼の最初の作品である『日本滞在記』(本書のこと;引用者)と本書(前掲1879年本のこと:同)の第1章の材料を提供した。彼の持ち船ヨアン号は、おもに砂糖と蘇芳(赤い染料として使用された)を積荷として運んできた。袋に積み込むのは銅と樟脳が中心だった。この2度目の航海が終わってまもなく、日本は劇的な変化の時代を迎えた。」
(前掲邦訳書、英訳者による序論、17、18ページより)

 本書は全8章で構成されていて、各章題は設けられていませんが、目次においてその小見出しが記されていて、概ね下記のような内容となっています。

第1章(pp.1-16)
スラバヤから日本への航海、長崎湾の様子と湾内への侵入時日本の役人とのやりとりなどの出来事、出島前への船の到着。

第2章(pp.17-29)
「乙名」(Ottona)はじめ日本の役人のこと、上陸時の様子、出島における著者の住居のこと、上陸時の厳密な敵続きと管理、キリスト教に関する書物が厳禁されていることなど。

第3章(pp.30-48)
出島について、島内におけるオランダ語通訳(通詞)養成学校のことや、出島に居住するオランダ人のライフスタイル、身の回りを世話してくれる人々のことなど

第4章(pp.49-69)
出島の外への貴重な散歩の機会、山椒魚、長崎の寺院や、印刷出版販売業者のこと、公衆浴場や日本の食事、大名行列のことなど

第5章(pp.70-93)
日本の通詞との饗宴、「アムステルダムのリキュール」(を皆で飲んだこと)、日本の人々との会話、彼らの服装や特徴、日本の学者と医師たち、商人、産業と芸術など

第6章(pp.94-127)
抜荷(私 / 蜜貿易)のこと、銅と樟脳の重量と価格、日本の財務制度や法律、役人が世襲であることなど

第7章(pp.128-149)
日本における上流階級の人々の見せる穏やかさと威厳、下級階層の人々がみせる明るさと賑やかさ、自己犠牲の精神、日本の歴史の一例、中国の人々と日本の人々との比較、日蘭関係について

第8章(pp.150-180)
オランダ商館長の江戸参府、べニョースキーの警告、私たちに対する日本の人々の善意、日本の人々の間に見られる礼儀と決まり事など、出島からの出発について

 おおよそ上記のような内容で構成されている本書ですが、もちろん日蘭貿易事情のことなど学術的な価値を有する記述も多数含まれているものの、その魅力はむしろ著者デ・コーニングの率直な眼差しにもとづいた、当時の日本の人々や出島で暮らす自身の同僚たちの描写にあるのではないかと思われます。読書家であったと伝えられるデ・コーニングは豊かな教養の持ち主であったと思われますが、そうした教養を背景に有しつつも、自身の経験や人々との出会いを通じて自らが考えたこと、感じたことを率直に表現することが本書では重視されていて、非常に臨場感のある一種のフィールド・ノートのようなスタイルで記されていることに大きな特徴があります。

「デ・コーニングの著作はみずからの体験を中心にしたものだが、彼がとりわけ聞き上手でもあったことが作品からわかる。そのため、彼は自分の行動や感情について述べるだけでなく、他の人びとの物語も語っている。通詞がなぜジンを必要としていたかを、彼から知ることができるし、[北アフリカ北西の]バルバリア海岸でのヤン・スパウターのおじの冒険譚も聞ける。その結果、外交官や士官が語る通常の「トップダウン」の歴史ではなく、水夫や従者の「ボトムアップ」の歴史をわれわれは垣間見ることができる。
 19世紀の紀行文は一般に、帝国主義には批判的な形でかかわっている。(中略)しかし、デ・コーニングの最も辛辣な見解は、自国政府に向けられており、その一方で彼は日本人を−ローニン(日本語の浪人)を除いて−「文明的」だとしていた。この時代の著作物にはよく見られる人種差別や反ユダヤ主義には、彼にはほとんど感じられない。」
(前掲訳書、英訳者序文、26、27ページより)

 実際、デ・コーニングの著作は、歴代のオランダ商館関係者による日本論とは異なって、よい意味で非常に生活感があり、著者自身の感情の動きや考え方を通じて、当時の出島を取り巻く状況や人々の生活や日々の暮らしがどのようなものであったのかを追体験できるような作品となっているように見受けられます。

 ただ、そのようなデ・コーニングその人の豊穣な個性が発揮された作品ということもあってか、本書の出版部数はそれほど多くなかったようで、現在では古書市場でも見かけることがあまりない作品となってしまっています。また、優れた読み物であることが評価されていることもあって、比較的高額な書物となってしまっています。本書は、刊行当時からほとんど手を入れていないと思われる状態を保持した1冊で旧蔵機関による押印が見られるものの、とてもユニークな絵入りのタイトルページも現存している貴重な1冊であると言えるでしょう。


「私はすぐさま、自分が独自の世界に暮らす月の世界の住人を相手にしていることを理解した。当時、[東]インド諸島の下級職員にはさほど多くのものが要求されてはいなかった。したがって、この時代の初等学校による最善の教育を身につけた若者が、ポケットに数通の推薦状を入れてインド諸島へ旅をすれば、その片隅に間違いなく居場所を見つけられただろう。そのような若者がジャワで数ヶ月を過ごしたのち、日本駐在の補佐官にごく若い年齢で任命されて、デシマの世界に入ることはよくあった。ここは自分をさらに成長させ、実践的な経験を積み、人間の知識を高めるような場所ではない。あらゆるものから隔離されているので、一年に一度、船が積んでくるわずかな手紙や伝言がなければ、若者はすぐに自分の島の先で起きているあらゆることへの関心を失い、しまいには通信手段が全く失われることで、外にある世界全体を忘れてしまうだろう。若者にとって外界は、想像のなかにのみ存在する到達できない惑星のようなものだった。したがって、若者にしてみれば、数分で歩いて回れる自分の世界をつくりだすほうが望ましかったのだ。そこなら同僚や家政婦だけでなく、通詞や買弁のことも知っているばかりか、目付すら顔見知りだった。目付は、若者たちの存在が日本の帝国をなんらかの脅威に晒すとでも言うように、ときおり彼らの宿舎のなかを監視していた。一度、補佐官たちにも機知、もしくはいたずら心があるのを知ったことがある。
 人は特定の分野の知識に傾注すれば、秀でるチャンスがある。したがって、補佐官たちはデシマのミニチュアの世界と自分たちの状況にはこれほど通じているのだから、私のヨーロッパでの話や概念で彼らを退屈させる代わりに、この土地に関する彼らの専門知識を利用するほうが、得策だと私は考えた。補佐官たちは部外者と話をすることには不慣れであったため、よそ者の来訪によって彼らの会話がはずむことはなく、むしろ溺れたあと陸に引きあげられて、放心状態の人間のような印象を私に与えた。それでも、ごく簡単な処置を施すことで、たとえばタバコの煙を吹かしたり、スプーン数杯分のブランデーのお湯割を投与したりすることで、彼らの生命力はすぐに目覚めた。嬉しいことに、自分の領域となると、彼らは非常に話し好きの若者になることがわかり、私は買弁たちのささやかな手口や、通詞たちの物ねだりや、暮らし方や食材に関する話を熱心に聞いた。要するに、彼らと交友することで、私は彼らと不遇をともにしてきた仲間であるかのように、デシマに関するほとんどのことを、その喜びも悲しみもすべて、数時間のうちに知るようになったのだ。
 その後、4か月の間私はデシマで過ごしたのだが、その日々は人生のなかで最も不幸とかけ離れた時期として、すぐさま思い出すことができる。」
(前掲邦訳書、66、68ページより)

刊行当時のものと思われる装丁で、背下部に(あまり上手でない)補修あとが見られるが、概ね良好と言える状態。
見返し部分に製本業者のラベルが貼られている。
特徴的な絵入りのタイトルページ。旧蔵者による押印や書き込みが見られる。
序文冒頭箇所。
目次①
目次②
第1章(pp.1-16) スラバヤから日本への航海、長崎湾の様子と湾内への侵入時日本の役人とのやりとりなどの出来事、出島前への船の到着。
第2章(pp.17-29) 「乙名」(Ottona)はじめ日本の役人のこと、上陸時の様子、出島における著者の住居のこと、上陸時の厳密な敵続きと管理、キリスト教に関する書物が厳禁されることなど。
第3章(pp.30-48) 出島について、島内におけるオランダ語通訳要請学校のことや、出島に居住するオランダ人のライフスタイル、身の回りを世話してくれる人々のことなど
第4章(pp.49-69) 出島の外への貴重な散歩の機会、山椒魚、長崎の寺院や会職人、印刷出版販売業者のこと、公衆浴場や日本の食事、大名行列のことなど
第5章(pp.70-93) 日本の通詞との饗宴、「アムステルダムのリキュール」(を皆で飲んだこと)、日本の人々との会話、彼らの服装や特徴、日本の学者と医師たち、商人、産業と芸術など
第6章(pp.94-127) 抜荷(私 / 蜜貿易)のこと、銅と樟脳の重量と価格、日本の財務制度や法律、役人が世襲であることなど
第7章(pp.128-149) 日本における上流階級の人々の見せる穏やかさと威厳、下級階層の人々がみせる明るさと賑やかさ、自己犠牲の精神、日本の歴史の一例、中国の人々と日本の人々との比較、日蘭関係について
第8章(pp.150-180) オランダ商館長の江戸参府、べニョースキーの警告、私たちに対する日本の人々の善意、日本の人々の間に見られる礼儀と決まり事などと、出島からの出発について
本文末尾。