書籍目録

『日本人の原図及び天文観測に基づいての日本帝国図』

シーボルト / (伊能忠敬)/ (高橋景保)

『日本人の原図及び天文観測に基づいての日本帝国図』

初版 1840年 [ライデン刊]

Siebold, Philipp Franz Balthasar von.

KARTE VOM JAPANISCHEN REICHE nach Originalkarten und astronomischen Beobachtungen der Japaner. DIE INSELN KIU ISU, SIKOK UND NIPPON. Dem Kaiserl. Russ. Admiral von Krusenstern, aus Hochachtund und Dankbarkeit geweidinet von 1840. VON SIEBOLD.

[Leiden], 1840. <AB2024104>

Reserved

First edition.

63.7 cmx 80.0 cm, Divided in 6 sheets, Linen-backed (as issued).
地図が6分割された上でリネンによる裏打ちが施されている状態で、刊行当時からの仕様と推定される。[Walter: 131(English ed.) / 114 (Jap. ed.)]

Information

明治以前における西洋製日本図の金字塔となったシーボルトによる日本図の最高傑作

「本図の範囲は北は北海道の南の一部から、南は九州の南端の島嶼宝七島までを画いており、別に主図の外に右下に1828年(文政11年)シーボルト作成の長崎湾地図を入れ、これに海深を記している。本図は918 X 679 ミリの大きさの彫刻石版による彩色地図であって、その製版印刷の点において当時の地図としては、ドイツ一流の優秀なるものである。著者蔵のもの(現国立歴史民俗博物館所蔵:引用者)は右の大きさを二つ折にしただけのものであって、地図として独立刊行のものである。本図はわが伊能忠敬作日本図等に基づいて作られたもので従前のヨーロッパ製の日本図にくらべてはるかに正確であること、さらに忠敬作の日本図が江戸時代にはわが国では公刊されず、かえってわが国によるも前にこれにもとづく地図がヨーロッパで刊行されていることには興味がある。」
(秋岡武次郎『日本地図史』河出書房、1955年、167ページ)


 本図は、シーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796 - 1866)が、1840年に刊行した日本地図で、それまでに刊行されたあらゆる日本地図を刷新する最新かつ最も正確な日本地図として、後年に至るまで多方面に渡って大きな影響を与えた非常に重要な日本地図です。江戸幕府による当時の最高機密であった伊能図(特別小図)をベースに製作されており、日本では長らく公開されることのなかった伊能図を日本に先駆けてヨーロッパでいち早く刊行した地図として知られているほか、竹島、松島、鬱陵島の地図上における表現と認識に大きな混乱をもたらすことになった地図としても知られています。

 本図以前に刊行された西洋製日本図としては、エストニア出身のロシア海軍提督で、1804年からのロシアによる初の世界周航、ならびにレザーノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764-1807)の第二回遣日使節を率い、シーボルトとも親交のあったクルーゼンシュテルン(Ivan Fedorovich Kruzenshtern, 1770-1846)による「日本帝国図」(Carte de l’ Empire du Japon…1835)がもっとも正確なものとして知られており、この図をもとにして多くの廉価版の日本図が製作されていました。クルーゼンシュテルンの「日本帝国図」は、それまでのヨーロッパ各地における日本の地理研究や地名研究によって生み出された知見を集結させたもので、それまでにない極めて優れた日本図でした。その一方で、クルーゼンシュテルンによる日本図はすべてが測量に基づいて描かれていたわけではなく、また彼自身が日本の内陸情報を得る機会にあまり恵まれなかったこともあり、不正確、不明瞭な点も少なくありませんでした。シーボルト日本滞在時にはクルーゼンシュテルン「日本帝国図」1835年版はまだ刊行されていませんでしたが、既存の西洋製日本図に不十分な点が多いことは強く意識しており、彼の日本調査の一環としてシーボルトが日本滞在中に数多くの地図を収集し持ち帰ろうとしたこと、そして、そうした活動がいわゆる「シーボルト事件」の要因に挙げられることになり、収集した地図類が幕府によって没収されるという憂き目にあったことは非常によく知られています。

「18世紀末から19世紀初めにかけて、日本北方への関心が内外ともに高まり、その地理的知識が進展しつつあった。18世紀後半のJ.クックによる太平洋の探検航海などを経て、地球上の陸地の形態がしだいに明らかになっていくなかで、未だ知られざる地として残されていた日本北方が、ヨーロッパ諸国からは、ラ=ペルーズ、ブロートン、クルーゼンシュテルン、ゴロウニンらによって、日本からは最上徳内、近藤重蔵、間宮林蔵らによって、相次いで探検調査され、この時代に至ってようやくその姿を現しつつあったのである。
 一方、これらの動向と連動して、ロシアの南下政策にそなえて江戸幕府は蝦夷地経営に乗り出し、伊能忠敬に蝦夷地測量をみとめる。これが嚆矢となって全国測量が開始され、文政4(1821)年には『大日本沿海輿地全図』と、その測量結果などを記録した『大日本沿海実測録』が幕府に提出されるに至る。
 このように、シーボルトが来日した文政6(1823)年とは、日本北方に関する地理的知識が更新され、初めての実測日本図も完成した直後であった。日本調査を任務の一つとしていたシーボルトにとって、日本の国土の正確な位置と形態を確定することは、最重要事項の一つであったに違いない。そのため、それらの信頼できる最新の地理情報を精力的に収集しようとした。その結果、国家機密の日本図を国外に持ち出そうとして、シーボルト事件が発生することになる。」
(青山宏夫「シーボルトが手に入れた日本図と日本の地理情報」国立歴史民俗博物館『シーボルト・コレクションから考える』2018年所収、56ページ)

 それにもかかわらず実際にはシーボルトは膨大な地図資料を持ち帰ることに成功していました。シーボルトが持ち帰った地図資料はその多くが現存しており、フィッセルやブロンホフといったシーボルト以前のオランダ商館関係者らが持ち帰った地図資料群などとともに貴重なコレクションを形成しており、現在も精力的な研究が行われています(上掲書、ならびに小野寺淳ほか編『シーボルトが日本で集めた地図』古今書院、2017年などを参照)。こうしたことからも分かるように、シーボルトは彼が取り組んだ多方面にわたる日本研究の中でも、特に日本の地理と地図製作に関する研究に力を注ぎ、それまで西洋において不明瞭であった日本の地理情報を明らかにし、最新の地図を提供することを目指しました。シーボルトはクルーゼンシュテルンとも書簡でのやり取りを頻繁に行い、彼の日本図の優れた点や研究成果、知見を最大限継承しつつ、残された課題を克服すべく、自身が日本滞在中に収集した情報、特に高橋景保や間宮林蔵、最上徳内といった当時の日本における最新の地理学者、地図製作者との交流から得た、それまで日本国内においてさえ決して公開されることのなかった機密地理情報を最大限に活用して、新たな日本図を製作することを目指しました。その際に最も重視されたのが、伊能忠敬が手がけ、高橋景保が独自の注記を施したいわゆる「カナ書き伊能図特別小図」の写し(原本は幕府によって没収)でした。

「幕府の天文学者であった高橋景保(1785-1829年)は長崎のオランダ商館の医師であったシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold, 1796-1877年)に、当時のヨーロッパが持つ最新地理情報と引き換えに伊能図を渡しました。1826年のことです。これが露見してシーボルト事件となって、高橋景保は逮捕されて獄死します。しかしシーボルトは伊能図の写しと考えられるものをヨーロッパに持って帰り、1840年に「日本人作成による原図および天文観測による日本国地図」(本図のこと;引用者)を刊行します。意外なことにこれが伊能図の刊行としては最初になります。」
(小林茂ほか編『鎖国時代 海を渡った日本図』大阪大学出版会、2019年、78ページ)

「シーボルトは、カナ書き伊能特別小図の写しをもとに日本図を刊行した。それは、たしかに伊能日本図の影響をうけて成立したにちがいない。しかし、シーボルトが写したカナ書き伊能特別小図とは、伊能日本図をベースとしつつも、そこに長久保赤水の改正日本輿地路程全図などの地理情報を適宜加えて、高橋景保によって編集された日本図である。その結果、本来は伊能日本図には含まれない、独自の内容をもつものとなっていた。(中略)
 高橋景保の編集図であるカナ書き伊能特別小図をベースマップとし、そこに記載される地理情報を高橋景保が編纂した『地勢提要』に依拠しているとすれば、シーボルト日本図の作成において、伊能忠敬にもおとらず、高橋景保の関与は大きいといわざるをえない。それは、たとえ国禁を犯してまでの行為であったとしても、地図を受け渡しただけの単なる仲介者にとどまるものではない。伊能日本図やその測量記録だけでは十分ではない地理情報を、高橋はむしろ主体的に補い、シーボルトはそれを実際に利用した。シーボルトが手に入れた日本の地理情報とは、地理学者高橋景保の所産でもあったのである。」
(青山前掲論文、65-65ページより)

 シーボルトは本図を手がける以前に、伊能図を提供した高橋景保自身が手がけた「日本辺界略図」という周辺諸国を含めて日本全体を描くことで、その地理関係を表そうとした地図を翻刻して製作しており、これはシーボルトの主著『NIPPON』の第1回配本(1832年)において刊行されました。また、長久保赤水の『日本輿地路程全図』の翻刻図も製作していて、これは第4回配本(1835年)において刊行されるとともに、単独図としても出版されています。本図はこうしたシーボルトによる日本図刊行に続いて刊行されたもので、彼が製作した日本地図の中で最も代表的なものと目されているものです。本図が刊行されたのは第9回配本においてと言われており、製作な配本時期は明らかになっていませんが、本図に1840年と明記されていることからも分かるように、1840年の刊行と推測されています。書物の収録図としては非常に大きな地図と言えるもので、折りたたんで持ち運べるように6分割されてリネンで裏打ちされている本図の造りからも分かるように、おそらく単独の地図作品としても刊行されたものと思われます。本図はシーボルトが苦心して作り上げた極めて精度が高く、また情報量も豊富な日本図として非常に高い評価を受け、その後の西洋における日本図製作に多大な影響を及ぼし、ペリーが日本来航時に最も頼りとした地図にもなりました。

「シーボルトの原拠とした日本の地図は高橋景保がかれに与えんとした伊能忠敬作の日本図であってこれはサンソンフラムスティード投影法 Sanson-Flamsteed Projection と同一の投影法に基づいて引画された経緯線上に日本図を画いたものであるが、もちろんシーボルトはこれとは別のメルカトル投影法 Mercator Projection に基づいて日本図を描画しているものである。
 本図は比較的正確な沿岸線とともに、山、川、岬、島、浜、港等の名を記している。山、川、岬、島等は日本語のまま Fusiyama(富士ヤマの意)、Oho igawa(大井川)、Omaë saki(御前崎)、Oho sima(大島)等と書いているが、(中略)日本語とドイツ語とを対訳し、それぞれの地名がどんな地形であるかわかるようにしている。ここで富士山をとくに富士ヤマといっているのはヨーロッパ人によくいわれた呼び方である。また多くの都邑を記しているが、これは符号によって幕府直轄地、国々第一都会、城下町、町、村等を区別している。この地名の中には府中(甲府のこと)、府中(静岡)、吉田(豊橋)、都(京都)、府内(大分)等当時の称呼の見られる点も興味あることである。」
「シーボルト日本図には日本の沿岸および海峡等にこれらヨーロッパ人命名の諸地名をあげているだけでなく、これらに相当する日本人自身の地名を克明に研究比較の上合せ記していることが彼の地図作製の労作の一つである。」
「要するにシーボルトは伊能実測の各地点の経緯度を基礎とし、伊能日本図および新しいヨーロッパ製の地図によって経緯線を画き、沿岸の微細部、内部の河川、湖沼等の地理的事項については正保図系統の古図をも用いたとするのが妥当な考え方である。(中略)従前の諸欧人並びにラペルーズ、ブロートン、クルーゼンステルン、アロースミス、その以後の者の諸日本図を比較するに欧人作日本図は大体シーボルト日本図に至って完成されたといえる。その図形、記載内容は従前の図にくらべて正確精密でそれらの圧巻であった。これはシーボルトが多年日本の研究に熱心で多数の日本の原図を善用したことによるもので、日本を実測しないヨーロッパ人のみの材料ではかかる図はなし遂げられなかったのである。」
(秋岡前掲書、170,171 / 184ページより)

 冒頭引用文で指摘されているように、本図は本州、四国、九州、そして北海道の南端の一部を図面に収めた地図で、2つの分図として長崎港周辺と本州北端と北海道南端を描いた図が収められています。この2つの分図は、前者についてはシーボルトやオランダ商館関係者らによる実測情報が豊富であったことから、水路情報なども含めた正確な地図を提供することができたこと、後者については西洋のみならず日本においても長らく不明瞭であった、本州最北端と北海道最南端の地理関係と海岸線を正確に描いた地図がもとめられていたこと、がそれぞれの背景事情にあるものと思われます。また、長崎周辺図に限らず、本図には黒潮について言及があったり、宮古島の対景図が描かれているなど、海図的な側面も備えていることも特徴の一つと言えます。あらゆる点で非常に豊富な地理情報が満載されていることに加え、日欧のさまざまな日本図や地理研究を総合的に検証した上で描かれている海岸線などは、それまでの西洋製日本図を刷新する正確さ、情報の豊富さを誇っています。また、それだけの膨大な情報や繊細な輪郭線を適切に、そして美しく表現できるだけの大変高度な印刷技術と素材が駆使されて製作されている点も、印刷地図史料として重要な点でしょう。

 また、本図は朝鮮半島近海「ダジュレー島 / 松島」を、その北西に「アルゴノート島 / 竹島」を最初に描いた地図としても有名です。シーボルトがその発見関係者の名にちなんでダジュレー島とアルゴノート島と呼んでいる島は、実際には同一の島(現在の鬱陵島)なのですが、それぞれの観測者が相異なる位置情報を報告したために、当時のヨーロッパではあたかも異なる2つの島がこの近海に存在するものと誤って認識されていたことがその背景にあります。シーボルトはこの2つの島を、日本で竹島(現在の鬱陵島)、松島(現在の竹島)と呼ばれている2つの島のことであると比定して、上記のような日本名を併記してこの地図に記しています。ですが、実際にはアルゴノート島が描かれている場所に島は存在せず、ダジュレー島が描かれている場所にのみ鬱陵島が存在しています。当時の日本は鬱陵島のことを松島と呼び、それより南東にある島を竹島と呼んでいたのですが、本図刊行時点の西洋では後者の存在は確認されていませんでした。そのため、シーボルトは実在しない位置に描かれたアルゴノート島を「竹島(Takashima)」、ダジュレー島(鬱陵島)を「松島(Matsushima)」と比定して地図の上に描きました。その後、1849年にフランスの捕鯨船が日本が松島と呼んでいた島(現在の竹島)を「発見」し、これをリャンクルール島と名づけました。これまで述べてきたようにシーボルトによる本図は後続の西洋製日本図に多大な影響力を有したため、それ以降の西洋製地図には、シーボルトが地図上に描いた「アルゴノート島(竹島)」と「ダジュレー島(松島)」を継承して、そこからさらにリャンクルール島を新たに付け加え、この海域に3つの島が描かれるようになります。以後この誤りはしばらくそのまま西洋諸国で継承、流布されることになり、当該海域の地理認識の混乱に寄与することにもなってしまいました。本図に影響を受けた西洋製日本図が幕末から明治初期に日本に流入することによって、明治政府の認識にも混乱を引き起こすことになりますが、次第に地図に描かれていた「アルゴノート島 / 竹島」は、その実在が疑わしいとして破線で描かれるようになり、最終的には全く描かれなくなっていきます。こうしたことを背景に、日本がそれまで「竹島」と呼んでいた島(現在の鬱陵島)が、西洋製地図上での呼称に倣ってそれ以降は「松島」と呼ばれるようになり、それまで「松島」と呼んでいた島(西洋名リャンクール島)が「りゃんこ島」を経て「竹島」と呼ばれるようになったことはよく知られています(この点については秋岡前掲書第5節「松島と竹島の混淆」ほか、多くの先行研究を参照)。

 このように、本図は、明治期以前の西洋製日本図の発展史における最高到達点と見做しうる記念すべき地図ですが、それにもかかわらず製作された部数は決して多くないようで、現在では入手が極めて難しい地図となっています。その理由の一つとして、先に言及したように繊細な表現を可能にするために用いられている高度な印刷技術と用紙といった、印刷にかかる膨大なコストがあったのではないかと推測されます。シーボルトの主著である『NIPPON』は、画期的な日本研究でありながら、その極めて高品質な出来栄えを実現するために要した膨大なコストの問題もあって、20年以上の長期間にわたる断片的な刊行となり、ついに未完のままシーボルトが没したことで有名ですが、本図の出来栄えを見る限り、その印刷には膨大なコストを必要としたであろうことは容易に推測できます。本図は単独の日本図として、またシーボルトによる日本地図帳の一部として、そして主著『NIPPON』の一部としてなど、何度かにわたって刊行(再版)されたようなのですが、前掲秋岡書では、本図の書誌情報を次のようにまとめています。

①1840年刊日本図 初版(本図)
②1841年刊日本図 第2版(地図中の刊行表記を1841年としたもの、店主未見)
③1841年日本近域地図帳(Atlas von Land-und Seekarten vom japanische Reiche und dessen Neben und Schutzländern. 『NIPPON』にも収められた他の地図史料もまとめて地図帳としたもの、店主未見)
④1853年日本近域地図帳(③の再版)

 秋岡によると、本図は少なくとも上記のような形で4つの異なる形で刊行されたことになり、さらに『NIPPON』の収録図として配本されたことも考えると、5つの異なる形で刊行されたことになります。また、すべての地図が着色されているわけではないようで、未着色のまま売り出されたものもあるようです。店主は②以降のものについては全て未見のため、その異同など正確なことは分かりませんが、いずれにせよ、①から④のいずれの形で刊行されたものであったとしても、シーボルト『日本図』は、現存数が決してそれほど多くなく、また古書市場などに出現することも極めて稀なことは間違いありません。本図の極めて完成度の高い出来栄えに鑑みると、後年になってこの地図が廃棄された数はそれほど多くないであろうと推測できることから、5つの異なる形で刊行されたにもかかわらず、本図はそもそも当初の製作数全体が非常に少なかったのではないかと考えられます。

 前述したように、本図は図面全体を6分割した上で裏面にリネンで裏打ちをほどしたもので、折りたたんで持ち運ぶことを容易にすると同時に、損傷を防止するような仕立てとなっています。シーボルト自身が自用本として手書きのメモを残していることで知られる1枚は、その分割数は異なりますが本図と同様に分割して裏打ちを施した仕立てとなっています(国立歴史博物館監修『よみがえれ!シーボルトの日本博物館』青幻社、2016年、41ページ参照)が、刊行当時からそのような形で販売していたのか、あるいは購入者が任意に仕立てたものなのかは不明です。いずれにせよ、大きな欠損や褪色などもほとんど見られず、極めて良好な状態を維持しているこの1枚は、シーボルト「日本図」の大変貴重な現存図と言うことができるでしょう。


「この地図が最大の権威ある影響を及ぼしたのは、彼が伊能忠敬、最上徳内、間宮林蔵などの当時の一流日本地図製作者の多くから得た資料である。その中には、九州西方の小さな一群の島である奄美大島の詳細な海岸線の概観図も含まれる。長崎港もまた右下の挿入図に示されているが、シーボルトが1828年出島で製作したもので、かれの本にも出ている。地図は、日本の情報源を使用しただけでなく、1804-1805年に日本西部を包括的に調査し、その日本の大判地図を1827年に出した、ロシア海軍提督クルーゼンシュテルンに依ったことも記している。フォン・シーボルトの地図はその後、日本の地図の基礎となり、大きな影響力を持った。これは西洋と日本の地図製作者の文化交流による魅力的な産物で、19世紀半ばに発表されたとりわけ優れて正確な日本地図である。」
(放送大学附属図書館HP「デジタル貴重書室:西洋古版日本地図一覧」No,152解説記事より。https://lib.ouj.ac.jp/gallery/virtual/kochizu/index_08.html)

「シーボルト事件を通じて辛くも入手した「カナ書き伊能特別小図」の写しを基に、シーボルトが作成した日本図。表題の下に「敬意と感謝をもって、ロシア帝国海軍フォン・クルーゼンシュテルン提督に捧ぐ」と記され、最新の日本地図として西欧で受け入れられていたクルーゼンシュテルンの日本図を超えたというシーボルトの自負がうかがえる。」
(国立歴史博物館編『企画展示 学びの歴史像ーわたりあう近代ー』2021年、25ページより)