書籍目録

『万国一覧図』

古屋野意春

『万国一覧図』

手描き、手彩色、屏風仕立て 1809 年頃作? 倉敷?

<AB2024101>

Price upon request

172.0 cm x 172.0 cm,

Information

「文化時代のわが一般人の世界地理に関する心を表現した」唯一無二の手描き世界図

 本図は、二局の屏風に仕立てられた、縦横170センチを超える非常に大型の手描き世界図で、1809年(文化6年)に倉敷の儒家、医師であった古屋野意春が製作、刊行した『万国一覧図』を元にして描かれた、あるいは刊本に先行して古屋野自身によって製作された稿本の可能性もある非常に興味深い世界図です。

 『万国一覧図』を製作、刊行した古屋野意春は、19世紀初頭の著名な儒家、医師で倉敷の私塾において自身の門下生にさまざまな学問を講じていました。彼が1809から1810年(文化6年から7年)にかけて刊行した『万国一覧図』とその解説編である『万国一覧図説』は、彼の門下生の教育の手助けとするために刊行されたものです。古屋野による『万国一覧図』は、同時代の日本におけるさまざまな世界図の中にあって極めて特異な位置を占める作品で、18世紀末から19世紀初めにかけてロシアの南下に触発されて盛んに製作されるようになり始めた西洋製世界図を手本とした同時代の世界図とは全く異なり、日本における伝統的な世界像の主流であった中国、インド、日本の「三国」を世界の中心に据えた、いわゆる「三国世界観」をもとにして製作されています。この点において、古屋野意春の「万国一覧図」は、日本における世界図作製史に中でも、ある種の歴史に逆行したとも言える極めて独自の地位を占めており、世界図製作の「発展史観」から明らかに逸脱した特異な存在となっています。本図は、この極めて特異な存在である古屋野意春の『万国一覧図』が大型の屏風に手描きされているという唯一無二の作品で、その製作背景や来歴なども含めて極めて興味深い世界図です。

 古屋野意春による『万国一覧図』が刊行された1809年というのは、ちょうど日本における世界図製作と刊行が活発になり始めた頃で、18世紀後半からの蘭学の興隆を背景として、それまでのイエズス会士マテオ・リッチによる世界図『坤輿全図』を元にした従来の世界図とは異なる、オランダ製世界図をモデルにした新しい世界地図が製作されるようになった時期にあたります。1792年(寛政4年)には、司馬江漢による『地球全図』が刊行され、これは東西両半球を別個に描いた「双円図」と呼ばれるタイプの世界図としては、日本で最初の画期的な世界図で、17世紀後半のオランダの世界図(ブラウ世界図)をモデルとしていました。これに続いて、1796年(寛政8年)には、大阪の蘭学者である橋本宗吉によって『喎蘭新訳地球全図』が、1802年(享和2年)には薩摩の石塚崔高によって『円球万国地海全図』が刊行されており、両者はいずれも「双円図」型の極めて大型の世界図となっています。

 またこの時期は、1792年のラクスマンの根室来航、1806年のレザノフの長崎来航とロシア船の来航が相次いだ時期で、ロシアに対する海防策提唱の一環としてさまざまな提言や地理探索、地理学研究が行われるようになっていました。蝦夷地や琉球、小笠原などの日本周辺地域の地理や情勢を詳述した林志平による『三国通覧図説』(1786年、天明6年)や、最上徳内による蝦夷地調査(1785年、天明5年 / 1798年、寛政10年)、間宮林蔵によるによる樺太調査(1808年、文化5年)、山村才助による新井白石の世界地理解説書『采覧異言』の全面改訂である『訂正増訳采覧異言』の刊行(1802年、共和2年)などはこうした動きを代表するものです。

 こうした当時の日本における急速な世界地理研究の進展は、1810年(文化7年)に高橋景保による『新訂万国全図』に結実することになります。この極めて大型の世界図は、官撰世界図として当時の日本における世界地理学に関する最高峰の知見を結実させたもので、最新の「双円図」を採用しながらも、日本が中心となるように東西両半球の位置を入れ替えるなど、数多くの独自の工夫が凝らされた江戸時代の日本で製作された世界図の最高傑作と言えるもので、当時の西洋製世界図と比べても遜色ないほどの極めて完成度の高い世界図となりました。

 古屋野意春の『万国一覧図』は、このように日本における世界地理の知見と地図製作技術が急速に高まりつつあった時期に刊行されたものであるということを十分に意識する必要があります。こうした時流にありながら、古屋野意春はその流れにあえて抵抗するかのように、従来の日本における伝統的な世界観である「三国世界観」に基づく独自の世界図を製作しており、この独自性は大いに注目されます。古屋野は地図中に記されたテキストにおいて、「彼国の銅板地球全図なるものを得てこれを模写増損して、各々地球の図を著し世に行わる。その詳密精妙何にかこれに加る事を得ん。然れども童蒙小子却ってその詳密精妙なるに眼を奪われ、望洋として求る所を知ること無きに至る」と述べており、当時隆盛を極めつつあった精密な世界図が、かえって初学者や子供の学習においては妨げになることを批判しています。その上で、自身は西洋の地理学に関する知見は乏しいことを認めつつも、日本古来の書物や漢学、仏教学、儒学に関する膨大な書物名を列挙しながら、これらを駆使して世界地理に関する知識をまとめ上げ、また西洋の学問にも目配せをしながら比較検討し、自身の見識に基づいて本図を製作したと述べています。このテキストを読む限りでは、古屋野意春は当時の世界地理学と世界地図製作の発展を十分に意識しつつも、あえてそれに与せず、日本での従来の教養の中心であった儒学、漢学、仏教学の文献を博捜することで全く異なる世界図を意識的に製作したことが伺えます。こうした古屋野の姿勢は、近代的な地理学の発展史という点から見れば、旧来の世界観に囚われた時代遅れのものとして、単に否定的にしか評価が与えられないものかもしれませんが、現代の視点からは当時最新でより正確に思える世界図は、当時のほとんどの日本の人々にとっては全く馴染みがなく、現実的なものではなく、むしろ古屋野の『万国一覧図』のような世界観こそが当時の多くの人々にとって許容しうる世界観であったことを示していると言う点で、当時このような世界図が製作されていたことの意味を理解することは極めて重要であると言えます。その意味において、古屋野意春の『万国一覧図』こそが、当時の一般の人々にとっての「最新の世界図」であったとさえ言えるでしょう。

「世界に関する正確な情報や知識は日本人のすべての階層に広まったわけではなく、客観的な世界像の大衆への浸透は乏しかった。鎖国体制下の江戸時代をとおして、日本人の世界地理に関する正確な情報や知識は少数の知識人や幕府高官たちにしか伝えられず、日本人の世界認識には知識階級と一般民衆のあいだに大きな落差があったのである。」
(川村博忠『近世日本の世界像』ぺりかん社、2003年、253ページより)

 この世界図は当時最新の「双円図」ではなく、方形の図中に描かれていますが、緯線、経線に該当するものはなく、左右に緯度のようなものが描かれているだけで、マテオ・リッチ系の「方形図」とも異なる図となっています。「三国世界観」に基づいて相対的に大きく描かれた日本、中国、インドを中心にしてその東西に圧縮されたような輪郭でヨーロッパ、アフリカ、そして南北アメリカが描かれており、南方下部には「メカラニカ」と呼ばれた南方大陸が描かれています。「三国」外のヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカは、現実の輪郭や地名などからはかなりかけ離れたものとなっていますが、その存在自体が否定されているのではなく、図中に絵が描き込まれているという点で、従来の「三国世界観」に基づいた世界図を踏襲しつつも、大幅に改訂したものであると言えます。この図の製作にあたって古屋野が典拠とした資料は先に見たように極めて多岐にわたっており、特定のモデルとなったような単一の地図や地理学書があったわけではなく、古今東西の世界地理に関するさまざまな知見が独自に組み合わされていることに大きな特徴があります。一見、地理学的な正確性という点では極めて不十分なように思われますが、「サガレン島を樺太と別個に描いた所など当時の新しい世界図を本図の作者も見ているのかと思わせる所も無いではな」く「世界図として、当時行われたものの中、他に類例を見ない特別のものである」(鮎澤信太郎 / 開国100周年記念文化事業会(編)『鎖国時代日本人の海外知識』原書房、1978年、216ページ)とされています。

 本図が一層興味深いのは、古屋野意春が刊行版として出版した『万国一覧図』と比べて極めて大きく、また異なる縦横比率で、手描きされた上で屏風に仕立てられているという点です。古屋野意春は刊行版『万国一覧図』を出版する以前に、自身による手描きの手稿版を複数種類刊行していたことが知られており、当初は自身の教育用にこうした手描き図を用いていたものの、その需要の高まりを受けて刊行版の出版に至ったのではないかと推測されています(この点については、Kaida, Toshikazu. World Maps: Published in Tokugawa Japan: An Illustrated Catalog. Tokyo, 2022. pp.52-59を参照。同書では本図についても紹介されている)。しかしながら現存が確認されている手稿図は、刊行版とほぼ同じ大きさ(86 cm x 90 cm)であるのに対して、本図は172cm x 172cm という大きさで、倍近くの大きさであることや、縦横の比率も異なっているという点において、そうした手稿図とも大きく異なっています。

 また、現存が確認されている手稿図は、刊行版とは地名や解説に少なくない相違点が見られることがわかっていますが、店主の見る限り、本図と刊行版との間には細かな相違は見られるものの、それほど多くの相違点があるようには見受けられません。その一方で、その大きさと縦横比の相違によって、輪郭の描かれ方には両者の間には当然の大きな相違が確認できます。本図が刊行版を底本にして製作されたものであるのか、あるいは現存する他の手稿図と同様に、古屋野自身による刊行版の完成途上に製作されたものであるのかという、前後関係については、現時点では確定が困難ですが、いずれであっても、古屋野意春『万国一覧図』の中でも極めて異例の大きさで描かれている本図は他の類例に見られるない唯一無二の作例であることは間違いありません。本図は非常に立派な屏風に仕立てられていることから、あるいは高位者への何らかの贈答に製作されたということも考えられますが、その製作作背景も含めて多くの解明すべき謎が残されており、どのような理由で誰のために本図が製作されたのかを解明することは、江戸後期の日本における世界図製作史の多様性を理解する上でも極めて重要で魅力的な研究課題であると思われます。

 なお、本図は裏張りの補修紙に大正期の公衆衛生に関する記録が用いられており、なぜこのような高価な造りの作品に対してこのような用紙で補修がなされたのかについても謎が残っています。本図は2020年前後にロンドンのオークションにおいて突如として現れたものでそれまではヨーロッパ、ないしは北米のいずれかの地において長きにわたって保管されていたものと思われます。本図裏面の大正期の裏紙が、本図が国外に輸出される際に貼り付けられた際のものであるとすれば、およそ100年にわたって本図は国外にあったと考えられますが、なぜ国外に持ち出されることになったのか、それ以前の所有者が誰であったのかなどの来歴に関する事項も極めて興味深い謎と言えます。

「実証的な世界地図という点から見るとすでに本図の刊行された文化6年といえば高橋景保の地球図の出現する頃であるから、一顧の価値の認められない本図である。しかしながらこの図は文化時代の我が一般人の世界地理に関する心を表現したものと見ることができるから、資料として貴重である。
 実にこの図は漢籍による支那流の世界、仏典による印度流の世界、洋学による西洋流の世界をわが日本人の心の中に融合して一本となしたと見ることができる。わが世界図史上、前後に類例のない独特の存在として興味浅からぬものというべきである。」
(鮎澤前掲書、217ページより)

「備中倉敷の儒医であった古屋野意春が文化6年(1809)に刊行した『万国一覧図』は、中国、インド、日本などのアジアを中央に大きく配して、ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ州を周辺に形をゆがめて描いた得意な構図をした方形世界図である。
 図中には赤道を帯線で一本引いただけで経緯線の記入はなく、図面の左右両端に緯度の目盛が示されている。図中の下部に枠で囲んで作者の題言と凡例が出ている。(中略)
 西洋製地図に基づいた双円図の詳細なことを一応は認めたうえで、あまりにも細密にすぎて一般大衆にはなじみにくい。そのため自分の開いている塾の門弟に学ばせるために、双円図の内容を考証して、瑣末なものや疑わしいものは削除してわかりやすい地図に仕立て直したというのである。
 作者は自分が西洋の学問に通じていないことをはっきり認めていて、この世界図を作成するのに参照した文献はすべて史書や仏典などの和漢書であると言い切っている。したがって、この地図に描かれた世界図はアジア中心的で三国世界観への執着を強く感じさせる。
 図中で五代州を色分けしているが、アジアはさらに詳しく国々まで色分している。(中略)
 作者は当時インドを支配していたイスラーム教国のムガール帝国についての知識にとぼしく、この世界図で古い仏教的インドの五天竺を復活させているのである。インドが位置的には中国の西に燐していて、その北部にある無熱脳地から四大河川が流れ出ている。法隆寺蔵の『五天竺図』など仏教系世界図と比べると天竺の図形は異なるものの、本図のインドは明らかに仏教系的な天竺像である。ただ、インドの広がりは中国と大差なく、また中国の東にある日本も大きく描かれていて国内の60余国を区分して、それぞれの国名を記入している。西洋の知識を一応は是認しながらも、塾の門弟教育のために事寄せて三国世界観的な世界像を誇示しているのである。」
(川村博忠『近世日本の世界像』ぺりかん社、2003年、258-260ページより)