本図は、喜賓会(Welcome Society of Japan)によって、韓国併合の直前の時期にあたる1910年2月に刊行された満州、朝鮮、台湾、樺太の英文ガイドマップです。いずれの地域も言うまでもなく、当時の日本の強い政治的影響下にあった地域で、また汽船によって本土と密接に結びつけられ、南満州鉄道株式会社をはじめとした鉄道敷設の充実が図られていた地域です。この地図を発行していた喜賓会とは、1893(明治26)年に、東京商業会議所の初代会頭であった渋沢栄一、三井物産の設立と三井財閥の近代化に大きく貢献した益田孝、貴族院議長であった蜂須賀茂韶らによって設立された非営利組織で、主に来日外国人に対する様々な便宜を図ることをその主たる目的としていました。明治日本における最初の来日観光客を対象とした組織であり、今で言うところの「インバウンド」について初めて対応した日本における、観光組織の原点とも言える存在です。喜賓会は、後述するようにその目的の一つにガイドマップやガイドブックの発行を掲げており、日本本土の英文ガイドブックやガイドマップなどを精力的に制作していました。本図もこうした系譜に位置付けられる出版物であると思われますが、現存する出版物が極めて希少な喜賓会による出版物の中でも、本図はいわゆる「外地」をその対象としている大変珍しいもので、おそらくはその存在自体がほとんど知られていなかったものではないかと思われます。
喜賓会は、現代の日本交通公社の前身であるジャパン・ツーリスト・ビューロー(1912年設立)が設立されるまで、増加する来日外国人観光客の対応を手探りながら一手に担っていた組織で、その目的として、
①外国人来日観光客を対象とした旅館(ホテル)の設備改善の勧告、
②外国人来日観光客を対象とした案内業者(開誘社、東洋通弁協会などの通訳団体など)の質的管理、斡旋、
③観光施設(ここには公共建築物や各種学校、工場なども含まれています)観覧に際しての便宜提供、
④外国人来日観光客と日本各界における重要人物との交流促進、紹介、
⑤ガイドブックとガイドマップの刊行、
を掲げて活動を行なっていました。
本図は、言うまでもなく上記の⑤にあたるものとして作成されたものです。本図に見られる出版事項の記載によりますと、本図は「貮版増訂(増補改訂第2版)」とされており、初版は1908年に刊行されていたようです。表紙のデザインは同時代に発行されていた喜賓会の英文日本ガイドマップのデザインに通ずるもので、赤字の背景に影絵のように人物(本図の場合、朝鮮や満州の人々)や建物が配置されています。また表紙には「Price 50 sen」と言う記載も見られ、本図が50銭で販売されていたことがわかります。ただし、喜賓会に会員として登録したものは、ガイドマップとガイドブックが無償で提供されていたようですから、おそらく本図も会員として登録し費用を払った旅行者に対しては無償で提供されたのではないかと思われます。
地図の構成も同時代の英文日本ガイドマップと非常によく似ており、地図に加えて、英文で喜賓会の趣旨と目的が記されたテキストが配置されています。ざっと見る限りこのテキストは、英文日本ガイドマップに採用されたものとほぼ同じようで、特に本図のために書き下ろされたような内容は見当たりません。地図は、タイトルが示す通りの地域を対象としていて、朝鮮、満州を主地図として、台湾、樺太を別図として左右に掲載しています。敷設済みの鉄道と敷設中の鉄道を区別して記載する点なども英文日本ガイドマップと同様です。日本本土との接続を主とした汽船航路が多数記載されていることや、南満州鉄道、朝鮮鉄道、台湾鉄道といった日本の支配下にあった鉄道路線についての情報が充実していることなどは、本図の特徴と言えるでしょう。1908年に刊行されたという初版と増補改訂第2版である本図との相違点や、このタイミングで改訂がなされた背景などについては、今後の研究調査を待つよりありませんが、おそらく本図刊行直後になされた韓国併合をはじめとした、本図に描かれている地域をめぐる情勢の変化がなんらかの形で関係しているのではないかと思われます。
また、裏面が全面広告となっている点も、英文日本ガイドマップと同様ですが、本図の広告として特徴的なのは、南満州鉄道と同社が運営するヤマトホテル、朝鮮鉄道や、台湾鉄道ホテルといった本図が対象とする地域で営業していた官営企業の広告が多く見られることです。ただ、民間企業の広告に関しては、日本本土を主として営んでいた企業の広告が多く、英文日本ガイドマップの広告によく見られる汽船会社や金融機関、外国人向けホテル、土産物店の広告が掲載されていて、満州や朝鮮、台湾、樺太で営業していた民間企業の広告は見当たりません。この辺りの事情も興味深いところです。
喜賓会が発行した出版物の全貌は、今なお不明となっていますが、大別すると、①地図(ガイドマップ)、②ガイドブック、③旅行日程の手引書、④その他、に分類することができると思われます。この中で最も中心をなすのが、①のが地図で、その「補遺」として②のガイドブックや、③の旅行日程の手引書が刊行されていたようです。また、フランス語をはじめとして英語以外の欧米言語にも翻訳されたようですが、詳細は不明のようです。店主が確認できた限りの喜賓会出版物に関する書誌情報をまとめますと、下記のようになります。
①地図(ガイドマップ)
1) Map of Japan for Tourits. (1897)
2) Welcome Folio Containing Map of Japan. 2nd ed. (1899)
3) Welcome Folio Containing Map of Japan. 3rd ed. (1901)
4) The Latest Map of Japan for Travellers. 4th rev. ed. (1901)
5) The Latest Map of Japan, for Travellers. 5th rev. ed. (1905)
6) The Latest Map of Japan, for Travellers. [6th ed.] (1906)
7) The Latest Map of Japan, for Travellers. [7th ed.] (1908)
8) The Latest Map of Japan, for Travellers. [8th ed.] (1908)
9) The Latest Map of Japan, for Travellers. 9th rev. ed. (1911)
10) The Latest Map of Japan, for Travellers. [10th ed.) (1912)
11) The Latest Map of Japan, for Travellers. [11th ed.] (1913)
*上記の多くは弊店ホームページ上でも紹介。
②ガイドブック
1) The Japan Guide: Supplement to the Welcome Folio. (1897)
2) The Fifth National Industrial Exhibition of 1903 and a Short Guide-Book of Japan. (1903)
3) A Short Guide-Book for Tourists in Japan. (1905)
4) Guide-Book for Tourists in Japan. 2nd rev. ed. (1906)
5) A Guide-Book for Tourists in Japan. 3rd rev. ed. (1907)
6) A Guide-Book for Tourists in Japan. 4th rev. ed. (1908)
7) A Guide-Book for Tourists in Japan. 5th rev. ed. (1910)
③旅行日程の手引書
初版、第2版にあたる書誌を店主は確認できず。
3) Itineraries for Travelling in Japan. [3rd ed. ?] (1905)
4) Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan. 4th ed. (1906)
5) Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan. 5th ed. (1907)
6) Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan. 6th ed. (1907)
7) Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan. 7th ed. (1909)
8) Useful Notes and Itineraries for Travelling in Japan. 8th ed. (1910)
④その他(英語以外への翻訳版含む)
1) Nouvelle carte du Japon à l'usage des voyageurs 5.éd. (1905)(地図第5版の仏訳)
2) Notes utiles et itinéraires pour voyager au Japon. (1907)(手引書の仏訳)
3) Manchuria, Korea, Formosa and Saghalien. (滿韓臺灣樺太案内地圖). (1908)
4) The latest map of Manchuria, Korea, Formosa, and Saghalien. 2nd ed. (1910)(本図)
5) Latest Map of Tokyo, Yokohama, Hakone, Fukiyama, and Nikko. (1912)
6) Railway & Steamer Time and Fare Tables with Notes on Railways & c.: Supplement to the Welcome Folio. (not dated)
喜賓会については、これまでも一定の研究の蓄積がある反面、実際の刊行物や活動がいかなるものであったのかについては、資料の不足もあり、あまり知られているとは言い難い状況にあります。近年とみに叫ばれるようになった「インバウンド」について、明治日本が手探りながらどのような活動を行なっていたのかを知ることは、現代の観光研究を行う上でも重要な示唆を与えることになるのではないかと思われます。しかも、本図は日本本土を対象とするのではなく、満州、朝鮮、台湾、樺太といった地域を対象とした非常に珍しい英文ガイドマップですので、明治期の喜賓会の活動の実態や、対象地域の幅広さを理解する上でも大変ユニークな研究素材と言えるのではないでしょうか。
「案内書及案内地図に関すること
本会は携帯に簡便にして且つ正確なる英文日本案内地図の欠乏せるを遺憾とし、明治三十年全国各地に照会して材料を蒐集し、多大の労力と注意とを払ひ一冊を編成し、之を刊行して汎く内外各地に頒布せり当時此種の地図皆無なりしを以て、本邦に於ける各英字新聞紙は我邦旅行上の好侶伴なりとし、何れも筆を揃へて此挙を激賞せり。本会は此地図を特製帙入となし、別に邦文を以て本会の組織・目的及本図刊行主意書を添へ、宮内大臣に執奏を願出で聖上皇后両陛下並に皇太子同妃両殿下に献納の光栄を得たり、此地図は時に或は仏文を以て発刊したることあるも重もに英文を以てし、断へず改訂増補に意を用ゐ版を重ぬること既に十一版の多きに達せり。本会は英文を以て第五回内国勧業博覧会及全国勝地案内書を編纂し、美麗なる風景画を挿入し、装釘亦意匠を凝らせしが、農商務省博覧会事務局は特に此案内書を買上げ、同省の招待せる来遊貴賓に進呈し、又別に清文を以て同一体裁の案内書を刊行し、清国より来賓に進呈したり。博覧会の終了するや、本会は多年の希望に係る簡便正確の英文日本案内書の刊行を必要とし、明治三十七年鋭意之が編纂に着手し、記事の体裁は彼の「ベデカー」著欧米諸国の案内書に準拠し、距離・時間より船車・宿泊等の賃金費用等に至るまで悉く網羅して、内地各方面に亘る旅行の方法を列挙し、経費の多少を比較し、沿岸航路の便否を示し、美麗なる風景図を挿入して汎く之を頒布せしが、大に内外の賞讚を博し、会務発展上多大の便宜を得たり。」
(喜賓会本部編「喜賓会解散報告書」渋沢青淵記念財団竜門社編『渋沢栄一伝記資料第25巻』所収より)