本作品は、ペリー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)による日本遠征における1853年7月11日の江戸湾侵入の場面を描いた超大型の彩色リトグラフで作品です。「ルビコン川を渡る」というタイトルは、いうまでもなく古代ローマのカエサルにちなんでつけられたもので、江戸湾内に侵入するという「一線を越えて」断固たる決意を持って日本との交渉に突き進んでいくペリー遠征における重大な局面を描いた作品です。遠征隊に随行した画家ハイネ(Wilhelm Heine, 1827 - 1885)による水彩画をもとにして、同じく遠征隊に随行した写真家で優れた石板印刷(リトグラフ)技師であったブラウン・ジュニア(Eliphalet M. Brown, Jr., 1816 - 1886)が彩色リトグラフで製作したものです。ペリーによる日本遠征を描いた印刷作品として最大のもので、遠征を記念してペリーと士官のためにわずか100部のみが制作されたことが記録されていて、極めて有名な作品である一方で、現在では入手が著しく困難な作品としても知られる貴重な一枚です。
ペリーは日本との交渉を確実に進展させるために、1853年7月11日に江戸湾内に侵入するという挙に打って出ます。江戸湾内の測量という名目を掲げつつも、武力を背景に交渉を有利に進めようとするペリー艦隊の行動に日本側は驚愕し、直ちに船体を湾内に送り出して彼らを取り囲みます。この時先陣を切って、彼らを取り囲む日本の船隊の間を突き進んで行ったのが、旗艦ミシシッピ号の小艇に乗り込んでいた海尉ベント(Silas Bent III, 1820 - 1887)でした。この小艇は警戒にあたっていた無数の日本の船隊の中を、白旗を掲げた水夫を船首に立たせて進み行き、江戸幕府による国書の受け取りを強力に迫ったのでした。この出来事は、幕府がペリーの要求する親書受け取りを決断させる大きなきっかけとなり、その意味において、ペリーによる日本遠征隊が「ルビコン川を渡った」瞬間とも言えるものでした。本作品は、この重要な場面を描いたものです。
「”PASSING THE RUBICON”(『ルビコン河を渡る』)と題されたこの大型石版画は、嘉永6(1853)年6月6日(西暦では7月11日;引用者注)における江戸湾内への進入の場面を描いたものである。浦賀沖に投錨したペリー艦隊は江戸湾探査のために小艇を送り出したが、これに対して幕府は、武装した兵を乗せた30隻から40隻の番船をもって対峙させた。本図の画題は、まさにこの緊迫した場面を、古代ローマ時代にカエサルが、ボンペイウスを討とうとしてルビコン河を渡った故事になぞらえてつけられたものである。なお本図には、日本船隊の間を突き進む小艇の先頭に乗るアメリカ兵が白旗を掲げている姿が描かれている。ペリー側が日本に白旗を差し出したことが知られているが、これが降伏を促すもので合ったかどうかの白旗論争が続いている。」
(印刷博物館編『開国150年記念展「西洋が伝えた日本/日本が描いた異国」図録』印刷博物館、2004年、147頁より)
ペリーは日本遠征に際して、外交上の成果を上げることはもちろん、のみならず遠征中にあらゆる分野の学術調査を行い、それらを公開することも目的としていました。遠征による成果は、アメリカ議会の公式文書として刊行された有名な『日本遠征記 (Francis Lister Hawks(ed.). Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China seas and Japan,... 3 vols. Washington, 1856)』において余すことなく公開され、国内外に広く伝えられました。この『日本遠征記』は、同じ内容で上院版と下院版との2種類が印刷され、その発行部数については議論がありますが、概ね3万部から4万部とは言われていることからもわかるように、アメリカの国家プロジェクト出版物として大量に刊行されました。このような出版物の刊行は、当時の欧米において国家的プロジェクトとして遂行された航海に際して頻繁に刊行されていて、こうした出版物の公刊において、その航海と実施国の航海を遂行するだけの高度な技術力、外交力に加えて、文化的、学術的水準の高さが競われる状況にありました。ペリーの日本遠征に、ハイネやブラウン・ジュニアといった画家、写真家が随行していたのも、帰国後の遠征成果の公表において不可欠な、各地の風景、人物、出来事を描いた図版を制作するためで、彼らの作品は、上述の『日本遠征記』第1巻を彩る数多くの図版において見ることができます。
ペリーによる日本遠征に関係する記録、図版の出版は(実際にはそれを逸脱する出版物が頻発したとはいえ)原則として、全てペリーによる公式の許可を得ない限り公刊することが許されていませんでした。従って、遠征中の記録としては、アメリカ議会による公式の報告書である『日本遠征記』がほぼ独占的な地位を占めることになっています。ただし、関係者が個別にペリー(並びにアメリカ議会)の許可を得ることができた際には、独自に出版物を刊行することも可能で、画家であるハイネは自身の10作品をリトグラフで再現した画集『日本遠征石版画集(Graphic Scenes in the Japan Expedition. New York, 1856)』を独自に刊行しています。このハイネの『日本遠征石版画集』は、『日本遠征記』よりもその発行部数ははるかに少なかったものと思われますが、それでも現在の古書市場でもしばしば目にすることがありますので、一定流布したものと思われます。
本作品も、Entered according to Act of the Congress in the year 1855 by Heine & Brown in the Clerk’s Office of the District Court of the Southern District of New York. と記されていることからもわかるように、ブラウン・ジュニアがペリーと議会の許可を得た上で1855年に刊行されたものですが、そのサイズがべらぼうに巨大、かつ細部は極めて精密に描かれている、他の出版物とは一線を画した異色の作品です。『日本遠征記』も四つ折り版 (約22 cm x 30 cm)と立派な書物で、多くの彩色リトグラフを収録した非常に豪華な出版物として知られ、先に述べたハイネの『日本遠征石版画集』も約51 cm x 37 cm という大型の彩色リトグラフ集でしたが、本作品は、約67 cm x 94 cmという規格外のサイズを誇っています。これだけ巨大なリトグラフを制作するためには、原画であるハイネの水彩画を石版の原版に落とし込み、それを印刷、さらに精密な手彩色を施すという、途轍もない技術とコストを必要とするため、当時の印刷技術力としての限界に挑戦するような試みだったのではないかと思われますが、本作品の出来栄えと圧倒的な迫力を見る限り、その試みは大きな成功を収めたということができるでしょう。
ただし、このように非常に高度な技術力とコストを要するこの作品が、数万部が発行された『日本遠征記』のように大量に製作することは到底不可能で、また「日本遠征記』よりは大幅に発行部数が少ないと思われるハイネの『日本遠征石版画集』に比べても、一層少ない製作数であったということは、容易に想像できます。しかも、ブラウンは、本作品だけではなく、他にも下記の5作品(いずれも本作品と同じ巨大なサイズ)をひとまとめとして、全6作品からなる『日本遠征図集(Illustrations of the Japan Expedition)』として刊行していますので、そのコストが膨大なものだったことは間違いなく、大量に印刷して一般に流布させることを目的として、本作品が制作されたものでないことは明白です。
1. 「琉球首里城訪問からの帰還」(Return of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron from an Official Visit to the Prince Regent at Suri, Capital of Lew Chew, June 6th 1853)
2.「横浜上陸」(Landin of Commodore Perry, Officers & Men of the Squadron, To meet the Imperial Commisioners at yoku-Hama, Japan March 8th 1854)
3. 「久里浜上陸」(First Landing o Americans in Japan, Under Commodore M. C. Perry at Gore-Hama July 14th 1853)
4. 「下田上陸」(Landing of Commodore Perry, Officers and Men of the Squadron to Meet the Imperial Commissioners at Simoda, Japan June 8th 1854.)
5. 「下田の寺院での演習」(Exercise of the Troops in Temple Grounds, Simoda, Japan in Presence of the Imperial Commissioners, June 8th 1854.)
ブラウン・ジュニアによる『日本遠征図集』が一体どれほどの部数が制作されたのかについては、はっきりとした記録がないようで、ブラウン・ジュニアが公刊許可を得るに際して、ペリーに100部を贈呈し、それらがペリーを通じて士官に配布されるものと約したという記録があるのみと言われています。このペリーに贈呈した100部以外にも制作されたのかについては、全く不明のままですが、その作りを見る限り、制作されなかったか、制作されたとしても極めて少部数であったのではないかと思われます。『日本遠征図集』は本作品と上掲6作品からなりますが、G. W. Lewis とSarony & Co.、Boell & Michelin という3つの異なる印刷会社が作品ごとに分担して印刷を担っていることがわかっており、このことからも一つの印刷会社で全ての作品の印刷を担えないほどの労力を必要とする作品であったことは明らかで、こうしたことにも鑑みますと、やはり発行部数は100部ほどだったと考えるのが妥当ではないかと思われます。
このように非常に貴重な本作品ですが、日本国内の研究機関においては、店主の知る限りでは印刷博物館が本作品を含む『日本遠征図集』全6作品を所蔵していることが確認できます。これ以外に一体どれだけの所蔵機関があるのかについては、不明ですが公式記録である『日本遠征記』、ハイネの『日本遠征石版画集』と比べても著しく少ないのではないかと思われます。その意味でも、本図は非常に貴重で重要な一枚ということが言えるでしょう。
なお、本作品は旧蔵者が額装する際に図面を取り囲む形で余白上面に厚紙を貼り付けていたようで、その際の接着跡や破れが見られますが、図面全体は良好な状態が維持されています。
「他の日記と同様に、ハイネの絵も公式記録『日本遠征記』編集のために提出することを義務づけられていましたが、大きすぎた水彩画はブラウンの手元に残すことが許可されました。ブラウンは帰国後、政府の許可を得てそれを大判の石版画にし、日本遠征記より一足早く1855年に出版しています。このハイネの絵による『日本遠征画集』Illustrations ofg the Japan Expedition の内容は、「首里城訪問からの帰還」「ルビコン川を渡る」「久里浜上陸」「横浜上陸」「下田上陸」「下田了仙寺境内における軍事演習」の6点で、それに表紙絵がついていました。このなかで日本遠征記に類似の絵が見られるのは久里浜上陸の図だけです。
ブラウンは出版の許可をペリーに申請したとき、100部をペリーのために用意すると述べています(アメリカ国立公文書館蔵「東インド艦隊書翰」(RG45, M89/7-8))。現在では6点ともそろった完本は希少となっていますが、『ペリー日本遠征随行記』(新異国叢書)の口絵に掲載されています。当館では「久里浜上陸」「横浜上陸」の2点を所蔵しています。原画の水彩画のうち5点は長くアメリカ人の個人蔵となっていましたが、現在、4点(ルビコン川、久里浜上陸、横浜上陸、下田上陸)は明星大学図書館が所蔵しています。」
(伊藤久子「ハイネの石版画集」横浜開港資料館編『ペリー来航と横浜』横浜開港資料館、2004年、76頁より)