書籍目録

『広重:雪と雨と夜と月の絵師』

タブラーダ

『広重:雪と雨と夜と月の絵師』

限定30部 1914年 メキシコ刊

Tablada, Jose Juan.

HIROSHIGUÉ: EL PINTOR DE LA NIEVE Y DE LA LLUVIA DE LA NOCHE Y DE LA LUNA.

Mexico, Monografias Japonesas, 1914. <AB2020289>

Sold

Unnumbered copy of 30 limited copies.

15.0 cm x 22.0 cm, pp.[I(Title.)-VIII], 1 leaf(Front., or Ex Libris), Half title(printed on different paper), pp.[IX], X-XIII, NO LACKING PAGES, [3], 4-119, [I-III], IV-VI, 1 leaf(errata), Plates: [19], Modern half leather on embossed brown cloth.
旧蔵者による線引き、書き込みあり。一部の用紙の余白端部に欠損が見られるがテキストの損傷なし。

Information

スペイン語圏に独自の視点で広重をはじめとした日本の浮世絵美術を紹介し、自国文化の発展を促した重要文献

「タブラーダの日本好みは、『日本』を梃子にして、世界文化史の流れのなかにおけるメキシコ文化の、ひいてはラテンアメリカ文化の位置づけを試みるための有力な処方箋だったといえるだろう。」
(田辺後掲書、198頁)

 本書の著者であるタブラーダ(José Juan Tablada, 1871 - 1945)は、日本の俳句(俳諧)、和歌にいち早く注目し、スペイン語訳を試みると同時に、自身でも詩作し、メキシコやスペイン語圏での俳句、和歌の広まりに大きな影響を与えた詩人、作家です。本書は、初代歌川広重の伝記と作品紹介を中心に、日本の絵画芸術全般を独創的に論じたもので、タブラーダ自身が「最も気に入っている」作品と評していたと言われるものです。タブラーダ自身の詩作活動に多大な影響を及ぼしただけではなく、広重を論じながら、常にメキシコの自然、文化、芸術を対照的に論じていくというその独創的な叙述によって、1920年代に展開されていくメキシコにおける自国文化を重んじた民族主義芸術運動にも、大きな刺激をもたらすことになった重要な作品です。その一方で、僅か限定30部というあまりにも少ない部数しか発行されなかったという、非常に謎に満ちた書物でもあります。

 生涯を通じて雑誌への寄稿など膨大な作品を残したタブラーダですが、その中でも北斎や広重の紹介や収集、そして詩集の刊行といった芸術面での活動に近年再評価が進んでいます。日本においてもタブラーダに関する書物は何点か存在していますが、フランス語や英語圏におけるジャポニズム研究が極めて盛んである状況に比して、スペイン語圏で活躍したタブラーダについての研究は極めて限られています。しかしながら、1900年に田辺厚子氏による『北斎を愛したメキシコ詩人:ホセ・ファン・タブラーダの日本趣味』(PMC出版、1990年)が、これに続いて、2008年に太田靖子氏によって、画期的な研究書『俳句とジャポニズム メキシコ詩人タブラーダの場合』(思文閣出版、2008年)が発表され、タブラーダの業績が日本でも注目されるようになりました。両氏の研究書は、俳句のスペイン語圏への先駆的紹介者としてのタブラーダを歴史的、文学的側面から包括的に論じ、彼の作品の原文と日本語訳とを紹介した画期的な研究書で、両書の刊行によってタブラーダの日本での再評価の道が開かれました(以下の記述のほとんどは両書による)。
 
 太田氏による前掲書冒頭で、タブラーダは次のように紹介されています。
 
 「日本に憧れ、「日本の僧侶になりたい」と詩に詠ったメキシコ生まれの詩人がいた。彼は、今から百年あまり前に来日し、1919年にスペイン語最初のハイク集を出版している。その詩人とは、スペイン語の詩に、日本の俳句を本格的に導入したホセ・ファン・タブラーダである。この事実にもかかわらず、彼は日本では一般に、ほとんど知られていない。一方、メキシコでは、タブラーダの知名度は近年急速に上がりつつある。ハイク作家という意味で、タブラーダは、日本でも認知されるべき詩人である。ノーベル文学賞を受賞したメキシコの詩人オクタビオ・パス(Octavio Paz, 1914-96)に、日本の俳句の素晴らしさを教えたのもタブラーダであった。」

 タブラーダは、強制的に入学させられた士官学校を中退してから高校に通い、19歳の時に鉄道会社に入社して、その前後から少しずつ文芸作品の執筆活動も始めるようになります。1893年には『エル・パイース(El País)』紙の文化部長に就任するも、発表した自らの作品が前衛的で反キリスト教的すぎるとのことでスキャンダルとなり、退社を余儀なくされてしまいます。その後しばらく心身の不調に苦しみますが、1898年にヘスス・E・バレンスエラ(Jesús E. Valenzuela)の資金援助により文芸誌『レビスタ・モデルナ(Revista Moderna)』を創刊、1899年には、タブラーダ最初の詩集『詩の花々』(El Florilegio. Paris / Mexico, 1899. 同書増補改定第2版については弊店HP掲載)を刊行し、再び詩作を中心とする文芸活動を精力的に行って行きます。そして『レビスタ・モデルナ』の日本美術についてのエッセイを連載するという目的で、1900年に初めて日本に旅行し、約6ヶ月滞在、以降は日本に対していっそう強い愛着を持つようになり、以後の彼の試作活動に大きな影響を与えていくことになります。しかし、1910年にメキシコ革命が勃発、体制側のディアス政権を擁護していたタブラーダは、1911年に外務省による文書館視察の名目でパリへの滞在を余儀なくされます。とはいえ、このパリ滞在はタブラーダにとって大変実りあるものだったようで、ジャポニスムの流行がすでに長く続いていた同地にあって、日本美術についての研究を大いに深めることになりました。

「1911年秋から1912年春にかけてのパリ滞在を境に、タブラーダの日本趣味はまったく新しい局面を迎えた。
 この時のパリ旅行を、2度目の日本旅行と勘違いしている評論家がいるほど、タブラーダの日本趣味に深み学わかった時期である。いいかえれば、それほど実り多いパリ旅行だったということだが、元々、フランス語に熟達していたタブラーダが、フランス風ジャポニズムから触発されて、日本文化に興味を持ちはじめ、フランスというフィルターから脱出するために、パリ旅行を必要とした、という事実はいたって皮肉な現象であった。
 一方、こういういい方もなり立つだろう。つまり、フランス風日本趣味から入り、1900年の日本旅行を経験し、メキシコへ帰ったタブラーダは、約10年間、じっくりと自分の内部で、彼独自の日本趣味を培っていた。その間、美術の鑑賞を通じ、さまざまな書物や新聞雑誌記事を通じ、メキシコ在住の日本人(移民できた人たちであれ、公使館に勤務する外交官であれ)を通じ、あるいは、日本とメキシコ間に交わされた外交的な出来事を通じて、タブラーダは一人の文学者として、自分なりの日本観を作り上げていった。1911年のパリ旅行は、そうして醸成された自分の日本観と、フランスの日本趣味をつき合わせて、独自の日本趣味を確立すると同時に、自分の考え、自分の理解に間違いはなかったことを確認することだった、と。」
(田辺厚子『北斎を愛したメキシコ詩人:ホセ・ファン・タブラーダの日本趣味』、PMC出版、1990年、177-178頁))

 本書は、このタブラーダの日本文化理解と自身の詩作の大きな転換点となったパリ滞在記の成果を結実させて1914年に刊行されたもので、歌川広重を中心に論じた極めて独創的な日本美術論です。本書については、太田氏による前掲書、ならびに、田辺氏による前掲書でも詳しく紹介されていて、またいずれにおいてもタブラーダの詩作活動の大きな転換をもたらした重要な作品として高く評価されています。

「タブラーダが1914年に出版した『広重』の前半は、初代歌川広重(1797〜1858)についての伝記であり、後半部分は作品についての解説である。それを読むと、タブラーだが日本美術の理解者であり、いかに広重の作品を愛していたかがよくわかる。(中略)
 タブラーダは広重を次のように見なしている。
 『彼(広重)は、純粋で自分自身に対しても沈着で、職人のように賢明で、詩人のように純真で素朴であった。あらゆる浮世絵画家たちがそうであったように、人間生活や人間の動きよりも、自然の動かない受け身の光景、つまり、動的なものより静的なものに目を向けた。彼は、仏教の汎神主義に満ちた堅固な心を持っている。』
 このような広重を、タブラーダは敬愛し憧憬していた。タブラーダは、広重が自然に対したように自然と向き合い、絵ではなく詩を書こうとしたのである。
 広重作品のタブラーダ評を読んでみよう。
 『微小ではあるが、それらの人物の完全なすばやいクロッキーには、何という確かな観察と心理の科学と雄弁な物語が見られるのだろう。
……広重作品中に表現されている人物像が、風景と自然に感傷的に溶け込んでいるその様子は、それまでのいかなる芸術にも存在しない、繊細な調和と完全な均衡と正しい関係の軌跡である。』
 タブラーダによる広重への評価は高い。広重が海外で評価されるのは、歌麿や北斎に比べて遅かった。このことに関して、タブラーダも1911年から12年にかけてパリに滞在したさいに感じたようで、エッセイ『日本のヴァトー(“El Wattear amarillo”)のなかで、『きまぐれなパリにとって、すべての日本絵画芸術は北斎と歌麿という二人の名前に収斂されている。……パリは、北斎の歌麿の名前のみを残すために、東洋の諸島の画家の系図から他のすべての画家たちを省いてしまった』と述べている。
 先に引いた、広重の人物のクロッキーに対するタブラーダの分析は、俳句にも通じる。俳句にも『確かな観察と心理の科学と雄弁な物語』が潜んでいるからである。」
(太田前掲書、45, 46頁)

「アイデンティティーの危機に見舞われていたこのメキシコ詩人は、今度『広重』によって、−つまり、日本文化によって−再び危機から脱することができたのである。
 1914年に完成した『広重』は、こうした詩人の内面の変化が如実に投影されている点で、ゴンクールの作品とは大幅に違っていた。
 「雪と雨と夜と月の絵師」と副題が付けられた『広重』は、頁数にしてわずか100頁そこそこの小じんまりとした作品でありながら、作者自身が『私の作品の中で、最も気に入っているもの』と語っているように、そこには詩人の芸術的、人間的情熱がたっぷり注ぎこまれ、タブラーダの人生の後半をはっきり方向づけた意義深い作品となったばかりでなく、スペイン語圏における日本趣味文学の第一人者としての地位を固めた作品となった。」
(田辺前掲書、191頁)

「前半の章は広重の伝記にあて、江戸の火消しであった広重が絵師として世に出るまでを物語風に描き、そのあい間には日本の風俗習慣、歴史、宗教、文化一般についての知識を披露することも忘れていない。そして広重の絵の自然や人間への暖かい愛情、そこに溢れるもののあはれを敏感に感じとる心、ユーモア、絵に描かれた詩、さらに、それらのものを見事にシンボル化する手法から、タブラーダはハイカイの精神を学びとったにちがいない。」
(田辺前掲書、192頁)
「『裏切り者』の名を冠せられ、財産も地位も奪われて、祖国を追われようとしてたタブラーダの最後の砦は、この『広重』の執筆だったことが如実に語られている。それ故、他の日本美術紹介の書には見られない多くの要素が含まれているのである。
 文学的ジャンルという面から見ても、一人の絵師の評伝という形式をとりながら、文体はほとんど散文詩といってもいいような流れをもち、美しく整理され、しかも、詩人の鋭い感覚の結晶を想わせる、音楽性をも含んだ形式で書かれている。さらには、広重の絵のなかに、『目を閉じて、詩人のみが見ることのできるもの』を感じとったタブラーダにしてはじめて描くことのできたであろう、『絵の釈義』がふんだんにもりこまれることになったのである。」
(同書、193-194頁)

 ここで言及されているように、メキシコ革命によって自己の経済的基盤のみならず、アイデンティティの基盤をも喪失する危機にあったタブラーダは、自身の大きな転換点となったパリ滞在期の日本美術研究の成果を本書に結実させることで、再び詩作へと向かう新たな指針を確立しようとしました。その意味では、本書はタブラーダの詩作全体においても非常に重要な位置を占める作品であるといえます。それと同時に本書は、スペイン語圏における広重をはじめとした日本の浮世絵美術の優れた紹介書としての役割を果たし、しかもその紹介は、単なる異国趣味の範囲にとどまるものではなく、自国の文化、自然との絶え間ない比較を通じて展開されていて、そのことによって自国文化と芸術様式の再発見を促すことにもなりました。この点において本書は、1920年代にメキシコで展開されることになる民族主義芸術運動に大きな影響を与えた作品としても極めて重要であると言えます。

「一方、内容の面からいえば、やはりそれまでに見られなかった、タブラーダ独自の思想が織り込まれている。すなわち、独立後、わずか100年にして、革命という重大な国家的機に直面しなければならなかったメキシコの知識人たちが、命を賭して求めたものが何であったのかがこの本のなかで提起されているのである。それは何か。−いうまでもなく、それはメキシコ人、およびメキシコ文化のアイデンティティーの問題であった。
 『広重』ではこれに関連して、自国の芸術家のあり方と日本の絵師のそれとを照らし合わせて次のように考察されている。

 (前略;引用者)『メキシコの画家が、ちょうど日本の絵師が名所図を描いたように、街路や村の何気ない風景に目を開いて、それを描くことを覚えたなら、彼らが日本の絵師のあり方を学んだなら、メキシコ社会の発展というようなアクティヴな流れに加わることができるのだが。そして、やがては、民族芸術−つまり本当の意味の祖国−を打ち立てることができるのである。』」
(田辺前掲書、194−195頁)
「『広重のなかでのタブラーダは、常に自国文化との比較対照において、日本の絵師の作品を論じている。これも、フランスや英国の美術紹介書には見られない特徴の一つである。」
(同書、196頁)

 このように、タブラーダを理解する上でも、またメキシコにおける民族主義芸術運動の展開においても、非常に重要な役割を果たしたと言える本書ですが、非常に奇妙なことに、わずか30部限定で刊行されたという旨が本書冒頭に記されています。そこには、紙質の異なる3種類のヴァージョンで、それぞれ10部ずつ、合計30部が刊行され、その全てに著者自身のナンバリングと押印がなされる旨が記されてあります。しかしながら、本書にはそのナンバリングが見られず、3種類のうち本書がいずれに該当するものなのか、また何番目のものであるのかについてが不明です。こうした点に鑑みますと、実際には30部だけではなく、本書のようにナンバリングのないものが追加で印刷されたのではないかと思われますが、そうであったとしても恐らくせいぜい50から60部前後の非常に限定された部数であったのではないかと推察されます。この限定部数については、田辺氏による前掲書においても言及されていて、「ほとんどはヨーロッパやアメリカの蒐集家の手に渡ってしまい、メキシコには、現在、おそらく10部も残っていないだろう」とあり、田辺氏自身はメキシコ大学が1部だけ所蔵していた、タブラーダの親友であったゴンサーレス・デ・メンドーサ旧蔵本を用いたとのことです。このことからも、非常に限られた部数のみが印刷され、しかもタブラーダが本書を手にするに値すると判断した親い関係者や、愛好家のみが購入を許されたのではないかと思われます。

 また、「著者による押印」とあるのは、本文すべての用紙右上の余白部分に見られる赤い丸印のことで、一見すると「山下」とあるようにも読めますが、これは「JJT」、すなわちタブラーダのイニシャル(Jose Juan Tabulada)を意味しています。恐らく、浮世絵に見られる落款に着想を得て、これを模して施したものではないかと思われますが、ここからもタブラーダの広重を中心とした日本の浮世絵に対する情熱の深さが窺い知れます。

 なお、本書は「日本叢書(Monografias Japonesas)」と題された叢書の一つとして刊行されていて、本書に続いて、「茶の湯」など4作品が近刊予定である旨も告知されていますが、店主には実際にこれらの書物が刊行されたのかどうかについては、確認できていません。

見返し部分にはマーブル用紙が使われている。
タイトルページ
本書は「日本叢書(Monografias Japonesas)」と題された叢書の一つとして刊行されていて、本書に続いて、「茶の湯」など4作品が近刊予定である旨も告知されているが、店主には実際にこれらの書物が刊行されたのかどうかについては、確認できていない。
用紙の異なる3種類がそれぞれ10部ずつ刊行され、どの本にも著者によるナンバリングと押印がなされる旨が記されているが、本書にはナンバリングがない。
購入者が自身の名前を書き込むための蔵書票が口絵がわりに挿入されている。広重の「名所江戸百景」のなかの「深川萬年橋」に描かれた吊るし亀をモチーフにしたもの。
この1枚のみ、本文と異なる用紙に印刷されている。
序文冒頭箇所。
テキスト用紙はすべて右上部の余白に、著者のイニシャル(JJT)を落款に模した赤い印が押されている。
本文冒頭箇所。
テキストに加えて、主に広重作品や彼の落款を19枚の図版で紹介している。
巻末に収録されている図版一覧。
目次①
目次②
目次③
比較的近年になって施されたと思われる装丁で状態は良好。