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3枚綴り(揃い) 辛酉三月 [文久元年3月(1861年)] [江戸刊] (山口屋藤兵衛)
<AB2020278>
Withdrawn
1枚の図面の大きさ:25.5 cm x 37.3 cm / 1枚の台紙の大きさ:33.3 cm x 45.0 cm, 3 colored wood block sheets, pasted on card. 端部分などに破れ等あり。
Information
本図は、幕末から明治初期の横浜を題材にして様々な作品が生み出された「横浜浮世絵」と呼ばれるジャンルに属する作品の一つで、そのタイトルが示すように、アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、オランダの通商条約を締結した5カ国の人々が列をなして行進する場面を描いています。描き手は、横浜浮世絵の名手として知られ、人物図、名所図、絵図など多彩なジャンルで筆を振るった五雲亭(歌川 / 橋本)貞秀で、彼は開港地横浜に熱心に出かけ、居留地に滞在する外国人や居留地の建物、風俗をスケッチして数多くの横浜浮世絵を世に送り出しました。版元は「ト山口」とあることからわかるように、山口屋藤兵衛で、貞秀の多くの作品の版元をつとめていたことで知られます。刊行年は明確な表記はありませんが、幕府による検閲済みを称する印表記から、「辛酉三月 」つまり、文久元年(1861年)3月であることが分かります。外国人を国別に描いた横浜浮世絵は数多く制作されていて、また本作品と同じ「五箇国人」を主題として3枚綴りで制作された作品としては、芳員による「五国異人横浜上陸図」(文久元(1861)年)、芳虎による「横浜之新港=五箇国之異人調練之図」(文久3(1863)年8月)などが知られていますが、本図は同種の主題としては、かなり早い時期の作品と言えるものです。貞秀は、本作品の前月(文久元(1861)年2月)の印のある「横浜鈍宅之図」という作品も同じく山口屋藤兵衛から出版しているほか、各作品が独立した作品でありながら5枚揃いにもできる「横浜休日」を同年1月に刊行していますので、「五箇国人」を好んで、また先駆けて主題として描いたと考えられるでしょう。 *横浜浮世絵については、小池満紀子 執筆・監修『横浜浮世絵 斎藤文夫コレクション』公益財団法人 川崎・砂子の里資料館、2019年 を参照。同書には本図(98頁)のほか、上記で言及した作品も収録されており、多くの作品を見ることができるだけでなく、横浜浮世絵のジャンルや変遷、特徴を理解する上で非常に参考になります。 「浮世絵とは、都市民衆にとって関心の高い社会(=浮世)の諸事象を描いたもので、木版印刷により多数の色を重ねたものを錦絵という。 横浜開港は庶民の関心を集め、その関心に応えるべく多くの浮世絵師が横浜の町並みや外国人の風俗を描いた。それらを総称して横浜浮世絵という。 貞秀は葛飾北斎・歌川広重亡きあとの浮世絵界の重鎮であり、横浜浮世絵の第一人者として定評がある。しかし、多くの浮世絵師がそうであるように、伝記資料は乏しい。本名は橋本兼次郎、画姓は歌川、玉蘭斎、五雲亭などの号を用いた。文化4(1807)年、下総国布佐の生まれと伝えられるが、没年はいまだに明らかではない。 依田百川の「画師歌川貞秀か話」(『風俗画報』第2号、明治22年)によると、貞秀は「凡そ浮世絵の上乗は、その時の風俗を有りのままに写して偽り飾らず、後の世にのこして考証に備へしむるに在り」と語り、秘蔵の「洋画」(おそらく銅版画)を見せたという。 歴史の証人たることを浮世絵師の使命と考え、洋画からも学びつつ、写実を心がけた絵師だったことがわかる。 その貞秀が横浜浮世絵と取り組んだのは当然だった。万延元(1860)年から翌文久元年にかけて、彼は横浜浮世絵に没頭し、約80点の作品を残している。(後略)」 「貞秀はあくなき好奇心をもって外国人を「見物」して歩きながら、それをただ珍奇なものとして見るだけではなく、姿かたちや生活習慣の相違を超えた共通の人間性を認める目の持ち主だった。そのような目を持つ貞秀によって、横浜は鎖国の扉を開く異文化交流の場として描かれたのだった。」 (斎藤多喜夫「異文化交流の場として横浜を描き続けた五雲亭貞秀」横浜市広報課 / 神奈川新聞社編『横濱:YOKOHAMA』第29号、2010年所収記事、28、29頁より)