書籍目録

『日本歴代将軍図譜』

ティツィング / レミュザ(編注)

『日本歴代将軍図譜』

初版 1820年 パリ刊

Titsingh, Isaac / Abel-Rémusat (ed.)

MÉMOIRES ET ANECDOTES SUR LA DYNASTIE RÉGNANTE DES DJOGOUNS, SOUVERAINS DU JAPON,…

Paris, A. Nepveu, MDCCCXX(1820). <AB2020276>

¥242,000

First edition.

8vo (14.0 cm x 21.0 cm), pp.[i(Half Title.),ii], Colored Front., pp.[iii(Title.)-v], vj-xxviij, [1], 2-301, some folded / colored) plates:[6], Original paper wrappers.
刊行当時の本装丁前の簡易装丁。一部にシミ、破れが見られるが全体として良好な状態。

Information

江戸幕府開闢以来の歴代将軍の事績と、江戸の年中行事をはじめとした社会を外国人の視点から鮮やかに描いた名著

 本書は、18世紀末に3度も長崎のオランダ商館長を務めたティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)の遺稿をもとに、東洋学者レミュザ(Abel-Rémusat, 1788 - 1832)による編纂と註を付して刊行された、徳川幕府開闢以来、第11代将軍家斉までの歴代将軍の事績と出来事を論じたものです。また、付録として、江戸の年中行事、暦や度量衡、切腹の作法、日本の詩歌についての解説記事も収録されており、18世紀末の江戸の政治と文化を外国人の視点から観察した貴重な記録となっています。ティツィングは滞日中から学者や大名らとの広範な学術ネットワークを構築し、多くの書物や書画、地図、美術品を蒐集し、しかもそれらを合法的にヨーロッパへと持ち帰って、壮大な日本研究所の執筆と刊行を目指して研究を続けていましたが、完成前に不幸にも世を去り、ティツィングの日本コレクションと遺稿は次第に散逸して行ってしまいました。本書はティツイングによる生前の研究成果がまとまって出版された非常に貴重なもので、後年のシーボルトにも多大な恩恵と影響を与えた書物でもあります。

 ティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)は、アムステルダムで外科医となった後、ライデン大学で法学を修めました。1765年、オランダ東インド会社の商務員としてバタフィアに派遣され、1779年8月から1784年11月までの間、三度、述べ三年半を日本で過ごし、日本商館長を務めました。最終的な離日後の1785年から1792年の間は、オランダ東インド会社のベンガル貿易総監を務め、その後同社評議会員外参事としてバタフィアに赴任し、遣清大使を務めたことで、日清双方の宮廷を訪問した稀有なヨーロッパ人となりました。
 
 ティツィングが日本商館長を務めた時期は、いわゆる「田沼時代」と称される政治的に寛容な時代であり、蘭学勃興期にあたる時期でもありました。商館長在任当時から、多くの日本人と学術交流を深め、膨大な書物や美術品、地図を蒐集し、しかも後のシーボルトと異なり、幕府から正式にそれらをヨーロッパに持ち帰る許可までをも得る厚遇を与えられたことは特筆すべきことと言えます。また、離日後も書簡でのやり取りを続け、オランダ語通詞、蘭方医として著名な吉雄幸牛(1724 – 1800)や、蘭学の造詣が深いことで名を馳せた丹波福知山藩主の朽木昌綱(1750 – 1802)らと多くの書簡を交わしました。これも幕府による許可を得たものであったと言われていることから、いかにティツィングが幕府から厚遇を与えられていたかが分かります。

 「日本を西洋で有名にした人物として一般に知られ、日本において半ば神のごとくに扱われているように見えるドイツ人フォン・シーボルトの日本到着の優に半世紀も前に、ティツィングは、後にフォン・シーボルトが完成した仕事を成す先例のない機会を持った。彼の人生を通じて、ティツィングは日本という国について詳細な知識を持つ唯一のヨーロッパ人であった。彼は、日本の多くの高位の役人たちにとても気に入られた。彼の側も日本を愛し、決して、ワクワクさせるベストセラー小説を書くのにはお似合いの、ヨーロッパ人キリスト教との見下すような視点から何かエキゾチックで謎めいたものとして日本を見るようなことはしなかった。彼の豊かな日本の事物の蒐集品と、体系的学問的にそれをヨーロッパ人にそれをヨーロッパ人に伝えたいという衝動が、彼をヨーロッパ人最初のオールラウンドなジャパノロジストの一人にした。彼は、蒐集そのものを目的とする蒐集家ではなく、日本趣味の装飾に耽る審美家でもなかった。」
(F・レクイン「『ティツィング私信集』の序論」)

 しかしながら、彼の研究成果は、彼自身の「神経症的な正確さへの情熱」(前掲書)と、フランス革命とその後ヨーロッパの政治的情勢の不安定さによって、生前ほとんど刊行されることはありませんでした。ティツィングの死後、パリの出版人だったヌヴー(Augste-Nicolas Nepveu)が、彼の日本コレクションを入手し、フランス語草稿を元に出版しましたが、それは彼の遺した仕事のごく一部でしかありません。その結果、ティツィングは、上掲のようにシーボルトに半世紀以上先じたジャパノロジストであったにも関わらず、生前のみならず死後も広く名声を得ることはありませんでした。

 ティツィング自身は生前に名声を得ることはできませんでしたが、ティツィングのコレクションや遺稿は、19世紀に入ってからのフランスにおける精力的な東洋研究に大いに貢献することになります。本書は、ティツィングの没後にそのコレクションと遺稿を入手したフランス出版社主であるヌヴー(Augste-Nicolas Nepveu)が、当時のパリにおける東洋学研究の中心にあったレミュザに編纂と注釈の追記を依頼して刊行したもので、ティツィングの研究成果が公刊された数少ない事例の貴重な一つです。ヌヴーもレミュザもティツィングによる日本研究がいかに重要なものであるかを非常によく理解しており、それまでの西洋人による日本研究の水準を大きく上回るものであることをレミュザは序文において強調しています。特に本書については、幕府開闢以降の歴史、今で言うところ、当時の「現代史」に相当するもので、現在の幕府体制に直結する時代の政治史であるがゆえに、当時は外国人にとってはもちろん、市井の日本の人々にとっても入手することが容易でない、幕府の統治に関する貴重な歴史情報が散りばめられていることを高く評価しています。

 本書冒頭には折込の彩色が施された折込の江戸城図が口絵として収録されており、この図をはじめとして本書に収録されている図はいずれも、ティツィングが日本から持ち帰った資料を手本にして制作されたものです。冒頭で紹介される、オランダ人にとって最も重要な日本の都市である長崎の出島図、出島商館長の住居の内部図、唐人屋敷図などが、解説とともに掲載されています。続いて、本文に直接関係する折込図として、歴代将軍の系譜図を一覧にした図が掲載されており、本書において解説される歴代将軍がどのような系譜にあるのかを一眼でヨーロッパの読者にわかるようになっています。

 本文では足利家、秀吉といった江戸幕府以前の歴史について簡単に触れてから、家康に始まり第11代将軍家斉にいたるまでの各将軍の時代にあった出来事や事件、将軍自身の評判と業績などが詳細に論じられています。この中では1783年の浅間山の噴火や、1792年のいわゆる「島原大変肥後迷惑」といった大規模な自然災害についても詳細に論じられており、特にティツィング自身が実際に日本に滞在していた期間の出来事や事件、噂話については非常に詳細に、またリアリティを持って筆写されています。これらの記述は、実際に日本に長らく滞在し、学者や大名にも広範なネットワークを構築していた稀有な外国人である著者にしか記すことができなかったものばかりで、外部者の視点から江戸時代の日本社会を克明に描いた大変貴重な記録と言えるものです。

 こうした江戸時代の政治史、社会史についての記録に加えて、本書には付録として、江戸の年中行事をはじめとした文化的側面に関する記事も収録されています。年中行事に関する記事は、一月から十二月までに節を分け、元日の年賀登城に始まる様々な年中行事を詳細に記したもので、これらの記事はティツィング自身の観察と、蒐集した日本の書物、また日本の友人たちからの話をまとめたものと思われ、オランダ東インド会社商館長の江戸参府を含めた非常に網羅的な江戸年中行事に関する記述となっています。これに加え、古くから西洋人の関心が高かった日本の切腹についての作法やしきたりについての記事、暦や度量衡といった社会制度の根幹に関わる重要事項、また日本の詩歌の紹介とその解説といった記事も付録には収録されています。

 本書におけるティツィングによる日本研究は、彼の壮大な日本研究のごく一部でしかないにもかかわらず、その内容の質の高さ、広範さにおいて、他に類書のない極めて先駆的な日本研究と呼んでよいものです。本書は、のちに英語、オランダにも翻訳され、西洋社会における日本観の形成に大きな影響を与えました。こうしたティツィングの日本研究を礎にして、パリにおける東洋学研究の発展や、パリの東洋学研究グループとも深い関わりのあったシーボルトの日本研究は、はじめて可能になったものと言えます。その意味において、西洋人による稀有な日本研究書として、また18世紀後半の江戸の政治、文化を外国人の視点から克明に記した貴重な文献として、本書は今なお色褪せぬ価値を有する書物と言えるでしょう。

 なお、本書は英語版(ティツィングのもう一つの公刊著作『日本における結婚と葬儀の式典』と本書を合わせて1冊として英語訳したもの)を底本とした沼田次郎による日本語訳があり、邦題『日本風俗図誌』の名でも広く知られています。

関東寺の本装丁前の紙装丁。
シミが見られるがテキストの判読に支障はない。
冒頭の彩色口絵には江戸城図が描かれている。
編者である当時のヨーロッパを代表する東洋学者レミュザによる序文冒頭箇所。
ティツィングのコレクションにあった出島図をもとに制作された彩色銅版画とその解説。
長崎の唐人屋敷。
出島におけるオランダ商館長の家屋の内部図。
歴代将軍の系譜が一覧できる折込図。
家康に始まる歴代将軍の業績や特徴、治世下にあった出来事、事件、噂話など多岐にわたる話題が盛り込まれている。
秀忠
1783年の浅間山の噴火は、ティツィング自身が日本滞在中に起きた大規模な自然災害出会ったため特に詳しく記されている。
1792年のいわゆる「島原大変肥後迷惑」
本文に続いて、江戸の年中行事について論じた独立した記事が収録されている。
一月から十二月までに節を分け、元日の年賀登城に始まる様々な年中行事を詳細に記している。
さらに付録として、日本の詩歌についての論考も収録されている。
同じく付録として収録されている暦や度量衡に関する記事。
西洋人の関心の高かった切腹の作法について記した記事。
巻末には目次が掲載されている。