書籍目録

『日本10日間の旅』(カナダ・パシフィック社による旅行ガイドブック)

バーサ・ラム

『日本10日間の旅』(カナダ・パシフィック社による旅行ガイドブック)

[1935年] カナダ刊(都市不明)

Lum, Berll(Bertha).

TEN DAYS IN JAPAN.

(Printed in) Canada, (For the) Canadian Pacific, [1935]. <AB2020273>

Sold

11.6 cm x 17.9 cm, pp.[1, 2(Front.), 3(Title.)], 4-38, Original pictorial wrappers.

Information

カナダ・パシフィック社のために版画家バーサ・ラムが手がけたユニークな英文日本ガイドブック

 バーサ・ラム(Bertha Lum, 1869 - 1954)は、1903年に新婚旅行で初来日して以降、1908年、1911年と幾度となく日本を訪れて滞在し、浮世絵彫師である伊上凡骨や摺師西村熊吉のもとでの修行をはじめとして、日本の浮世絵版画職人らとの交流を通じて独自の作品を多数残しました。当初は日本の浮世絵の構図や主題を強く意識した作風でしたが、徐々に独自の世界観を表現するようになり、特にラフカディオ・ハーンの日本の妖怪や伝承の世界に強く惹かれ、それらをモチーフとする幻想的な作品を生み出しました。1922年には、来日時にホテルの空きがなかったことがきっかけに北京へと移動し、そのまま滞在し、アジア各地を訪問して旅先の風景や伝承を題材とした作品も制作しています。

 ラムの作品は当時から欧米で高く評価され、展覧会での彼女の作品の売れ期行きも非常に好調でしたが、1929年以降の世界恐慌によって、ラムに限らず版画作品の市場そのものが縮小してしまったことをきっかけに、書籍の挿絵や雑誌の表紙も広く手がけるようになりました。このユニークなガイドブックもそうした時期に生まれたラムの作品の一つで、カナダの汽船会社であるカナダ・パシフィック会社の依頼によって制作された日本の英文ガイドブックです。当時は汽船会社が乗客向けに寄港地や目的地のガイドブックを多数制作しており、それぞれの汽船会社が自社独自の個性をガイドブックに反映させていました。

 ラムによるこのガイドブックが非常にユークなのは、いうまでもなく日本とその文化に精通し、すでに多くの作品を生み出していたラムによる挿絵によって彩られていることに加えて、字体もラムによってデザインされることで、誌面そのものが大変芸術性の高いものとなっている点にあります。また、その内容についても、10日間の日本滞在プランや、東京、箱根、京都、神戸、奈良などの都市案内といった旅行者向けの実用的な情報をきちんと掲載しつつも、ラムの関心が高かった日本の祭りや能楽の解説や、天狗伝説や七福神、龍神といった日本の伝承についての紹介にかなりの紙幅を費やしています。40ページにも満たない小冊子ながら、ラムにしか表現できない独自の世界観が見事に表現されていて、彼女による優れた日本論としても楽しめる内容となっています。

 本書は、汽船会社による旅行者向けのガイドブックということもあって、一般には販売されず、また旅行が済めば廃棄されることの多い分野の出版物であったこともあって、現存するものはかなり限られているのではないかと思われます。ラムについて最もまとまった紹介と思われる、スミソニアン博物館による書籍(Marry Evans L’Keefe Gravalos / Carol Putin. Bertha Lum. (American Print-Makers. A Smithonian Series). Washington, D.C., 1991)においてさえ、未見(Not seen)とされていることから、欠損のない良好な状態で、ラム独自の世界観を今に伝える本書は大変貴重なものではないかと思われます。


「バーサ・ラム Bertha LUM (1869-1954)
 1869年アメリカ合衆国アイオワ州ティプトンで生まれる。1895年アート・インスティテュート・オブ・シカゴのデザイン学部に入学。翌年から1901年にかけて、イラストレーターのフランク・ホルムの学校とステンドグラス・デザイナーのアンナ・ウェストンの工房で指導を受け、その後再びアート・インスティテュート・オブ・シカゴで人体デッサンを学んだ。1890年代のシカゴはアーツ・アンド・クラフツ運動の中心地であり、アーサー・ウェズリー・ダウによって木版画が広められていた。
 1903年に新興旅行で初来日。浮世絵版画と版画職人を探し、帰国直前に横浜の老職人と出会うことができた。わずかな時間で技法を習い、彫刻刀と筆を購入した。帰国後ダウの本を手がかりに木版画の小品を制作する。1907年再来日し14週間滞在。美術史家岩村透のしょうかいで、彫師伊上凡骨のもとで3カ月学び、さらに摺師西村熊吉について数カ月修行する。この頃『蘭夢』という楽観を作る。帰国後数年間、自刻・自摺の版画を制作するが、1911年末には幼い娘たちを伴って再び日本を訪れた。この時は、家を借り、彫師と摺師を常駐させて制作した。1912年5月、《狐女》(1907年)を第10回太平洋画会展に出品。ラムは、ラフカディオ・ハーンの日本の伝説を題材とした物語から強い影響を受けたが、《狐女》はその典型的な作品である。
 その後数度にわたる日本滞在を経て、1922年秋には中国を訪れ、娘たちと北京に家を借りて住んだ。最初中国人の木版画職人を雇って制作したが、多色木版の制作が困難だったため、湿した紙に版木で隆起線を空刷りし手彩色する『盛り上がり線』の技法を考案する。1931年にはジャワ、シンガポール、スエズを歴訪し、1936年には木版画を再版するために7度目の来日をした。第二次世界大戦中はアメリカで暮らすが、1948年娘たちのいる北京に戻る。1953年北京を離れ、翌年イタリアのジェノヴァで死去した。」
(沼田英子氏によるラムの紹介記事、横浜美術館『アジアへの眼 外国人の浮世絵師たち』1996年所収、48頁より)

「バーサ・ラムがテキストと挿絵を手がけた作品としては、他にカナダ・パシフィック鉄道社のための3冊の旅行書があるが未見である。これらの旅行書については、1935年10月20日のペキン・クロニクル(Peking Chronicle)の記事を参照のこと。」
(スミソニアン博物館位よる前掲書107頁、店主拙訳)

*ラムの来歴、作風については上掲2点のほか、横浜美術館による前掲書所収の猿渡紀代子氏の「江戸浮世絵と現代飯をつなぐもの」を参照。