書籍目録

『ロータス(蓮):ホイッスラー追悼特別号』

松木文恭編著 / フェノロサほか

『ロータス(蓮):ホイッスラー追悼特別号』

1903年 ボストン刊

Bunkio, Matsuki / Fenollosa, Ernest F.,...[etal.]

LOTUS. SPECIAL HOLIDAY NUMBER IN MEMORIAM JAMES A. McNeill Whistler. (Vol.I. No.1. Christmas Number)

Boston, Bunkio Matsuki, (December) 1903. <AB2020264>

Donated

16.0 cm x 21.0 cm, Front. Title., 1 leaf(Contents), pp.[1], 2-53, i-viii(advertisements), Plates: [25], Original pictorial paper wrappers.

Information

「古邨の作品ひろめた美術商

 そして二人目の松木とは、米国を中心に古邨の作品をひろめた美術商の松木文恭である。
 松木文恭は、1888年に渡米しエドワード・モースの知遇を得、美術商となった人物である。モースは明治初期に訪日し、大森貝塚を発見、日本の考古学の基礎を作ったことで知られるが、一方、日本の美術をこよなく愛した。文恭が、90年からボストン郊外のセイラムの百貨店で日本商品を扱い日米を往復するようになると、モースは日本陶器の蒐集を依頼。文恭自らも調査と研究に励みモースを助けた。91年にはニューヨークのシンジケート商会のバイヤーとなりボストンに店を構え、弟の喜八郎を日本から呼び寄せセイラムにも店を開いた。
 そもそも文恭の渡米の目的は、宗教哲学研究を旨としており、浮世絵の蒐集家としても知られているウィリアム・ビゲロウ(月心居士)とも親交があった。1896年、ビゲロウが円城寺の住職に宛てた書簡には、文恭を「当地(ボストン)で商売に携わっている、日蓮僧として修行を受けた非常に魅力的な青年紳士」と紹介している。文恭は、ボストンでの人脈を生かしながら事業をひろげ、98年以降、米国各地で競売を開くほか、教員に向けた美術活動を展開、その教材の販売目録として『Catalogue of Japanese Materials (日本美術・画材目録)』を99年に出版する。
 1899年は、古邨(小原古邨のこと:引用者注)が共進会に初めて肉筆画を出品した年であるが、同じ年の暮れには、ニューヨークのアメリカン・アート・ギャラリーでも展示された。

古邨作品に東西融合の世界観

 古邨の作品が展覧会を通して米国で知られるようになった1903年、文恭は一冊の本を刊行する。美術雑誌『蓮Lotus』である。この雑誌は、ロンドンで活躍した米国の画家ホイッスラーの追悼号として企画された。文恭は、ホイッスラーの「ノクターン・サウサンプトン」に感銘を受け自らもエッセイを執筆し、さらにはフェノロサも「ホイッスラー氏の美術史上の位置」と題した小論を寄稿している。この雑誌は、文恭とフェノロサの関係を明らかにするばかりでなく、二人の共通する美術思想の一端を示している。文恭が感銘を受けたホイッスラーのノクターンと題された連作はテムズ川から立ちのぼる深い霧や靄のなかに、おぼろげではあるが月や太陽の光を描いた油彩画の作品である。
 ホイッスラーは、浮世絵に強い影響を受けた画家として知られており、ノクターンには、広重の連作・六十余州名所図会の「備後 阿伏門観音堂」の夜霧にむせぶ瀬戸内の海や、名所江戸百景の「京橋竹がし」の橋下から望んだ構図などからの影響がみられる。このような様式的な影響とともに、大気や気配といった目ではとらえることのできないものを、ホイッスラーは浮世絵から学び、自らの創作に生かしたのである。
 さらにフェノロサとハーバード大学の同窓で政府官僚となった金子堅太郎は、1896年の『錦巷雑綴』に、ホイッスラーが語ったところとして「山川草木鳥類に一種の精神を与えたのは日本の美術家である」と伝えており、花鳥を主題とすることで、西洋と肩を並べることができると考えていた。
 文恭は、ホイッスラーによる東西の美の融合を、翻って当時の日本美術の中に見いだそうとしていたのではないだろうか。近代的な写実性や色彩を獲得しながらも、日本美術の精神的な思想をもった花鳥風月の世界にホイッスラーのノクターンの世界観を重ね合わせたとしたら、まさに古邨の作品は文恭の理想をかなえるものであったといえるだろう。
 古邨の作品は、フェノロサとも関わりの深いこの文恭が主導しプロモーションしていたように思われてならない。1904年に、文恭が出した目録には、なんと古邨の木版画が16点、そのうちの3点は、図版入りで掲載されるのである。そして、4年後の08年の目録には40点余りも追加され、その半数以上がやはり図版入りで紹介されたのである。
 美術商・松木文恭は、古邨作品に東西の美の融合を企てた、第二の重要な人物であった。」

小池満紀子「光と雨の系譜を追って」(特集:欧米を虜にした知られざる絵師小原古邨)宮下岳丈編『北國文化』第87号、北國新聞社、2021年所収、51-54頁より)