書籍目録

『イギリス国民の主要な航海と旅行と発見』全3巻

ハクルート

『イギリス国民の主要な航海と旅行と発見』全3巻

増補改訂第2版(第2刷) 1599年-1600年 ロンドン刊

Hakluyt, Richard.

THE PRINCIPAL NAVIGATIONS, VOYAGES, TRAFFIQVES AND DISCOVEries of the English Nation, made by Sea or ouerland, to the remote and farthest distant quarters of the Earth, at any time within the compasse of these 1600 yeres:…The first Volume[-THIRD AND LAST]

London, George Bishop, 1599-1600. <AB2020260>

Sold

2nd enlarged edition.

3 vols. bound in 2 vols. Folio (Vol.1 & 2: 19.0 cm x 28.8 cm / Vol.3: 18.3 cm x 27.5 cm), 詳細な書誌情報については下記解説参照。, Later full leather.
第1巻のタイトルページは余白部分がトリミングされて別の用紙に貼り付けてある。第3巻余白部分に薄いシミ跡あるが判読に支障なし。 NCID: BB26613786 (Vol.1 & 2 only)

Information

シェイクスピアと並び称されるエリザベス朝が産んだ偉大な航海記に収録された日本関係記事

本書の意義
 
 本書は、英語で出版された航海記集成の金字塔として名高い書物で、シェイクスピアの戯曲作品と並んで、「イギリス」という国家創出に大きく貢献した作品としても知られています。「イギリス国民」による航海記に焦点を当てて、それまで未公刊だった数多くの一次史料を駆使して編纂された本書は、後年の大英帝国の繁栄に繋がるイングランドの海外進出の推進に多大な役割を果たしたことでも知られています。本書以降200年以上にわたって英語圏で刊行された航海記集成に大きな影響を与え、1846年に著者を称えその名を冠するハクルート協会が設立され、同会が今なお精力的に活動を続けていることからも分かるように、英語圏における航海記集成の原点と呼ぶに相応しい書物です。本書には、イングランド本土に足を踏み入れた日本の人々に関する最初の記述と目される記事を含め、日本についての数多くの情報が収録されており、英語圏出版物における最初期の日本関係欧文資料としても極めて重要な文献です。


編著者ハクルートについて

 本書の著者であるハクルート(Richard Hakluyt, 1552? - 1616)は、エリザベス朝を生きた地理学者、聖職者にして外交官でもあった人物で、主著である本書の刊行によって歴史に名を残しました。大航海時代のヨーロッパにおいて発展著しかった世界地理学に早くから強い関心を寄せ、オックスフォード大でラテン語をはじめとした各国語学習と地理学の研鑽を重ね、「新大陸」アメリカや東インドへの航海記や日誌を生涯にわたって蒐集し続けたことで知られています。オリテリウスをはじめとする当時の地理学の最先端にあった人物や、エリザベス朝における要人との交流を深め、アカデミアと政界において広範なネットワークを構築し、オックスフォード大学で地理学の教鞭をとる一方、国教会の聖職者として在パリ大使館付き牧師の肩書きでフランスに1583年から88年にかけて滞在し当地でも史料収集を行なっています。ハクルートは、北米大陸への積極的な植民や、大航海時代の先駆者であるスペイン、ポルトガルに対抗するための新航路として、北東航路、北西航路の開拓を熱心に働きかけ、そのための最大の武器として本書を刊行しました。また本書刊行以外にも、英語以外の各種航海記の翻訳出版を手掛け、英語圏の読者への最新情報の提供と、積極的な海外進出の提唱を生涯にわたって続けました。ハクルートの提言は、ひとりハクルートだけのものというより、国力を次第に高めつつあったイングランドの時代精神が巧みに反映されたものと言えますが、本書がもたらした影響は実に多大なもので、「大英帝国建設者中最大の著作家」(後掲書、396頁)と評されているほどです。本書は、地理歴史認識の大きな転換を促し、かつ実用的情報をあまねく提供することによって、イングランドの積極的な海洋進出を精力的に推進するための起爆剤としての役割を果たし、それは1600年のイギリス東インド会社設立と、1607年のヴァージニア植民地建建設、やがては大英帝国繁栄の時代へとイギリスを導いていくことになります。ハクルートの名声は、その死後も衰えることを知らず、先述したように1846年には彼を記念してハクルート協会が設立され、現在も航海記の研究叢書であるハクルート叢書の刊行が続けられています。


本書が刊行された時代背景と本書がもたらした多大な影響

 本書が刊行された16世紀後半という時代は、いわゆる大航海時代の最終盤にあたる時期で、いち早く新大陸アメリカへの進出を果たし、東インドへの航路開拓によって、ヨーロッパ外の膨大な富を自国に直接還流させることで国力の強大化に成功したスペイン、ポルトガル両国(1580年には統合)に対して、経済的にも宗教的にも対立を深めつつあったイングランド、オランダが、次第に国力を高めつつあった時代です。イングランドは、1580年にイングランド初の世界周航を果たして帰国したフランシス・ドレーク(Fransic Drake, 1543? - 1596)を海軍中将に任命して、カリブ海をはじめとした海域で、スペイン船やスペインの拠点を次々と攻撃、収奪を行い、スペインとの対立姿勢を強め、1588年にアルマダの海戦でスペインの無敵艦隊を撃破したことで、ヨーロッパにおける大国としての自信を深めていくようになります。

 ハクルートは、こうした強国スペインとの対立を通じてヨーロッパにおける大国として歩み始めたイングランドの採るべき施策は、海洋国家として、新大陸である北アメリカへの入植と、東インドへの航海、進出を精力的に推し進めることであると考え、アルマダの開戦の翌年である1589年に、その方向を指し示す羅針盤として本書の初版(The Principal Navigations, Voyages, Traffiques and Discoveries of the English Nation Made by Sea or Over Land, to the Most Remote and Farthest Distant Wuarters of the Earth at any Time within the Compasse of these 1500 years. London 1589)を刊行しました。ハクルートのこの書物は、タイトルに「イギリス国民の(of the English Nation)」とあるように、イングランドを中心とした「イギリス」という国家による航海記の集成を試みたもので、強国スペインとの対決を通じて、朧げながら形成されつつあった「イギリス国民」という自負に強く訴えた作品であることに大きな特徴があります。この書物は、いわゆる愛国主義的な側面を強く打ち出すと同時に、スペインやポルトガルに独占されていた東インド貿易を手中に入れることで、ロンドンを中心としたイングランド商人の富を高めるという、実利的な魅力にも訴えるものでもありました。国家的理念と商業的利益の双方を巧みに訴えた本書は、イングランドを主とするイギリスという国家の力を増強することの必要性を力強く提唱し、そのための羅針盤、有用な手引きとして、その後のイングランドの政策、商業活動に大きな影響を及ぼすことになりました。ハクルートは、ロバート・セシル(Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury, 1563 - 1612)をはじめとしたエリザベス朝の中枢要人とも関係が深く、ハクルートの著作は自身の要人をへの影響力を通じて、まだスペインをはじめとしてヨーロッパ諸国が着手していなかった北アメリカ大陸への入植や、スペインやポルトガルによる妨害を受けずに東インドに到達できる独自航路としての北東航路や北西航路開発を推進する原動力となっていきました。

「彼の英国帰還後及びスペイン無敵艦隊の撃滅の翌年、その記念碑的作品の初版『英国民主用航海・旅行・発見期』1巻本が現れた。英国は少なくとも15世紀以来航海民族であり、ヘンリィ8世の晩年には海軍国となり、今や植民国家に成長しようとしていた。リチャード・ハクルートはこの初めの二つの段階を個々の物語を通じて年代記化することにより、その第三段階を推進する努力を払ったのである。(中略)この初版は次の三部に分かれている。即ち、第一部は《レヴァント会社》《近海・中東における初期の旅行》及び《西アフリカへの初期の航海》、第二部は《北東航路の探究》《ジェンキンスンとその後継者たちによるロシア及び中央アジア旅行》、第三部は《ホウキンズとフロビッシャーの諸航海》《ヘイリオットによるロアノーク植民地記》《ギルバート及びペクハムによる鼓吹宣伝文書》そして《ドレイク、ディヴィス、キャヴェンディッシュの大航海》から成っていたのである。」
(ボイス・ペンローズ / 荒尾克己訳『大航海時代:旅と発見の二世紀』筑摩書房、1985年、394頁より)

 本書は、1589年に刊行された初版に続いて刊行された第2版で、決定版とされているものです。この第2版は、初版の記述を大幅に増強して全3巻構成として1598年から1600年にかけて刊行されました(各版の変遷や書誌情報とその背景については後述)。初版刊行も、ハクルートは新たな史料を膨大に蒐集、編纂し続けるとともに、同時代の新航海の記録にも常に注意を払い続け、それらを体系的に秩序立てて再編纂して、実に初版の3倍近くに及ぶ分量となる大幅な増補改訂版として世に送り出しました。本書は全3巻の構成で、第1巻は、北方、北東航路、ロシアに関する航海、旅行記と関連一次史料を、第2巻は、南方、南東地域、レヴァントへの航海、旅行記と関連一次史料を、第3巻は、「新たに発見された世界」である「アメリカ」、西インドへの航海、旅行記と関連一次史料を収録する内容となっています。各巻はさらに地域や航路ごとに幾つかの部に分かれており、それぞれの旅行記、航海記そのものだけでなく、それに関連する書簡や外交文書、勅書といった一次史料も各部後半にまとめて収録されています。本書は英語で刊行された航海記の記念碑としてだけでなく、エリザベス朝の時代精神そのものを反映した偉大な文学作品としても非常に高く評価されています。

「ハクルートの初版が真に雄大なものであったことは何人も否定できないが、彼の収録から洩れた情報はまだたくさんあって、次の10年間には英国人による旅が盛んに行われたから、この版も忽ち時代遅れとなってしまった。それ故、1590年代を通じて、この倦むことを知らぬ編輯者ハクルートは《集成》の拡大充実をと更新という手強い仕事に没頭した。これがどれほど大変な仕事であったかは、初版が約70万語から成っていたのに対し、第2版は約170万語という事実からもよく諒解されよう。ついに1598年、『主要航海記』第2版第1巻が現れ、続く2年間に第2、第3巻が刊行された(1599年、1600年)。これは実にハクルートの歴史的な傑作であり、エリザベス朝の一大散文叙事詩なのであった。その構成は初版に似ており、第1巻は北及び北東への航海、第2巻は南と南東への、そして第3巻はアメリカへの航海を扱っている。各部とも増補され、第1、第2巻はほぼ倍増、アメリカの部はほとんど3倍に達した。(中略)この増補版は一見したところ広過ぎて混乱した知識の陳列場の観があるが、仔細に吟味するとそこには明確な統一性と一貫した編輯方針が認められる。本書は常に、歴史に関する偉大な著作であり地理知識の宝庫であると共に、その物語自体はチューダー期の時代精神と傾向を理解する上で無二の価値を有する物語文学の根幹を形成しているのである。」
(前掲書、295頁より)


本書の編集上の特徴

 本書の編集の特徴として挙げられるのは、ルネサンス期の聖書研究の興隆によって培われた、一次史料蒐集の重視と批判的読解という学問的客観性を重んじる編集方針があります。こうしたルネサンス期における一次資料の重視と史料の批判的読解に基づく旅行記集成を代表する作品としては、ラムージオ(Giovanni Battista Ramusio, 1485 - 1557)の『航海記、旅行記集成』(Delle Navigazioni e Viaggi. 3 vols. Venice, 1550-1556)が最も著名なもので、ハクルートもこの作品に多大な影響を受けていることが指摘されています。
 
 また、地理学という空間認識に関わる学問と、年代記、歴史学という時間認識に関わる学問を統合して、時空間の包括的な把握を通じて世界全体の体系的な理解を試みていることも、本書の大きな特徴です。ハクルートは本書第1巻序文において、地理学(Geographie)を太陽(Sunne)に、年代記(Chronologie)を月(Moone)に準え、両者を秩序だった関係性において理解することの重要性を説いており、膨大な史料郡を乱雑に配置するのではなく「明確な統一性と一貫した編輯方針」(前掲引用文)が本書全体を貫いていることが、時代を超えて古典的名作となり得た大きな特徴となっています。
 
 さらに、英語圏における航海記集成の嚆矢としては、イーデン(Richard Eden, 1520? - 1576)による『新世界、すなわち西インドに関する十年期集』(The Decades of the Newe Worlde. Or West India. London, 1555)、ならびにその大幅増保改訂版として、ウィルズ(Richard Wills, 1564? - 1579)によって編纂された『東西インド旅行誌』( The History of Travayle in the West and East Indies. London, 1577)がありますが、ハクルートは両書からも大きな影響を受けており、本書中にも多くの引用、参照記事が収録されています。ウィルズの『東西インド旅行誌』は英語で日本について具体的に言及した最初の文献としても知られていますが、本書における日本関係記事の一部は、特にウィルズに負うところが大きく『東西インド旅行誌』中の日本関係記事が、出典を明記した上で本書に転載されています。
 
 このように、方法論的には、ルネサンス期のイタリアで発展した一次資料の批判的読解を用いたラムージオの『航海記、旅行記集成』の影響を強く受け、英語圏における直接的な先行者である、イーデン、ウィルスによる旅行記集成の記事を大いに参照しつつも、自身で膨大な未公刊史料を蒐集、整理、翻刻し、それらを地域と年代別に整理して体系的に編纂した上で、しかも「イギリス国民による」航海記集成となることを主眼としたところに、本書の大きな編集上の特徴があると言ってよいでしょう。

「いうまでもなく大航海時代は、イギリスについてみても、全国を巻き込んだ危機の時代であり、存亡の時代であり、破壊と創造の時代であった。がゆえにこそまた激しい知的興奮の時代でもあった。この時代がシェイクスピエアを生んだのも決して偶然なことではない。そして、彼が文学において受けとめたものを、これに劣らぬ実録において受けとめたものがあったとすれば、それこそハクルートであった。
「眠られぬ夜々を、苦しき日々を、暑気を、寒気を、どれだけ私は堪えたことか。名ある書庫と聞けば、どれだけ多くを訪ね歩いたことか。いろいろな古今の著作も博捜した。昔の記録、特許状、特権状、書簡にいたるまで、私が冥滅から防いだものも数え切れない。訪ねた人も数知れぬ。費用も惜しみはしなかった。おのれの利益、昇進、安穏などは意に介するところではなかった。」 
倦むことを知らぬこの航海記録の編者は、その大編著の巻頭にこのように述べている。初版1589年、改訂増補版1598-1600年。題して『イギリス国民の主要な航海と旅行と発見』The Principall Navigations, Voiages, and Discoveries of the English Nation。たしかに、それは航海にも劣らぬたゆまぬ記録収集の努力であった。」
(越智武臣ほか編訳『イギリスの航海と植民1』(大航海時代叢書第2期、第17巻)岩波書店、1983年、530頁より)


本書における日本関係記事

 このように記念碑的名著として今なお非常に高く評価されている本書において、非常に充実した日本関係記事が収録されているということは、本書がもたらした甚大な影響力に鑑みると、改めて注目すべきことであると思われます。本書では随所で日本についての言及が見られますが、まとまった日本関係の記述としては、主として下記のような記事を確認することができます。

①第2巻献辞文(*4葉)
 イングランドの重要商品である毛織物の輸出先として相応しい地域として、日本諸島(Islands of Iapan)と中国北部(Northern parts of China)と韃靼(Tartars)を挙げ、ハクルートの調査と考察によると、これらの地域は冬季にはフランドル地方と同じく寒冷となるため、毛織物の需要が見込めると述べられています。


②第2巻第2部、ウィルズ「日本報告」とフロイス書簡の英訳
 第2巻序文で毛織物の輸出先の有望な候補地として言及されている日本と中国については、第2巻第2部において、より詳細に論じられています。第2巻第2部68頁からの「中国報告」(Certaine reports of the province of China…)に次いで、同80頁からは「日本報告」(Of the Island Iapan)が掲載されていて、いずれの記述も先述したウィルズ『東西インド旅行誌』中の記事からの転載であることが明記されています。ウィルズの日本関係記事は、ウィルズが一時的にイエズス会士となり、当時のヨーロッパにおける東インド研究の最先端に従事していたマッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533 - 1603)とも親交があったことから、マッフェイが編纂した『インド誌』(Rerum a Societate Iesu in Oriente gestarum volumen)に収録されている日本関係書簡(De rebus Iaponicis)を主要な情報源としています(ウィルズの日本関係記事とその情報源については、森良和「リチャード・ウィルズの「日本島」-イギリスで最初に説明された「日本」-」『論叢』玉川大学教育学部紀要、2015年所収、を参照)。

 「日本報告」は、ウィルズによる日本の概説と、イエズス会士フロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)による1565年2月19日付の京都(Meaco)発書簡の英訳です。フロイス書簡は『インド誌』の日本関係書簡の中に収録されている(ただし書簡発信日については微妙に異なる)もので、これをウィルズが自身の概説の補足として英訳したものです。ウィルズの日本概説は、日本の地理的位置、気候の概説から始まり、産出物とその特徴を最初に解説しています。日本近海は海難事故が多発し、海賊も頻繁に出没する極めて危険な地域であることが強調されていて、気候や風土は、山が多く寒冷で、産品にも乏しいが、スペインのそれとは異なる果実、そして何より膨大な埋蔵量を誇る銀鉱山があると紹介されています。ここでの日本が寒冷な地域であるというウィルズの記述は、先に述べたように、毛織物の輸出先として日本が有望であるとハクルートが主張することの根拠となったものと思われます。人々の気質としては、大変温厚で礼儀正しく、名誉を極めて重んじるとし、家畜を食料とするために屠殺せず、米や果実、山菜を主食とすることから、健康的で長寿であるとしています。また、武具製造に長けていることや、米から作る酒(日本酒)を好むこと、好奇心旺盛で知識欲が高いとも説明され、こうした人々の気質に鑑みると、多くの日本の人々が遠からずキリスト教へと改宗するかもしれないと解説されています。
 
 日本の統治機構は、3階級で構成されており、第一に高位聖職者(high Priest)、第二に、王(Vo)と呼ばれる王族(Principal Magistrate)、そして第三に判事(Judge)であると説明していますが、第一は僧侶による仏教集団、第二は天皇を、第三は武士階級を指しているものと思われます。また、日本の主要都市として、南部の大都市である鹿児島(Cangoxima)、そして日本の王が居住し、最も日本で裕福とされる京都(Meaco)があることを紹介し、日本の主要な大学を5つ挙げ、中でもBandu(坂東の足利学校のことを指す)が大きいことを解説しています。そして最後に、ここで紹介しきれなかった日本についてのさまざまな情報については、旧友であるマッフェイ編『インド誌』の日本関係書簡を読むことを読者に勧めています。また、続いて英訳されているフロイス書簡は、日本の人々の優れた気質や日本の歴史、地理、その豊かさ、日本の宗教事情、京都(Meaco)の実情、日本の葬儀など、実に幅広い主題について論じられており、単なる宣教報告というよりも、包括的な日本紹介と言える内容となっており、フロイスの生き生きとした筆致で描かれた日本の様子を読者は臨場感を持って知ることができるようになっています。

 ウィルズによる「日本報告」の記述は、概ねマッフェイ『インド誌』に依ったもので、ウィルズ自身が東インドに渡航したり、新情報を得た上で「日本報告」を記したわけではありませんが、それまでラテン語やイタリア語、ポルトガル語、スペイン語といったロマンス言語圏を中心に流通していた日本情報をまとまって英訳して、英語圏の読者に日本についての最新の知見を初めて紹介したことに大きな意義があると言えるでしょう。

③キャヴェンディッシュ(Thomas Cavendish, 1560 - 1592)の世界周航途上で捕虜となった二人の日本の青年について

 キャヴェンディッシュは、ドレイクの世界周航に続いて世界一周を果たした人物として名を残す航海士ですが、本書に収録された彼の航海記には、記録上最初の日本の人々とイングランドの人々との出会い、そして最初にイングランド本土に足を踏み入れることになった二人の日本の青年についての記述があります。キャヴェンディッシュは、1586年にプリマスを出港し、ブラジル沿岸を下り、パタゴニアを経由してマゼラン海峡を通過、1587年に入ってからは南米大陸をチリ、ペルーの沿岸沿いに北上し、同年11月にマニラからアカプルコへと向かうスペイン戦を戦闘ののちに収奪しました。この戦闘の際に捕虜として二人の日本の青年が捕らえられ、その後のキャヴェンディッシュの航海に同行し、イングランド本土へと渡ることになりました。二人の日本の青年についての記事は、キャヴェンディッシュの航海記が収録された第3巻817頁に見ることができます。

「たまたまメキシコ西岸の町を襲ったとき、耳よりな話を聞いた。程なくマニラからの船がアカプルコに入港するというのである。カリフォルニア半島の先端サン・ルーカス岬沖で待つことしばし、11月4日、船はきた。サンタ・アンナ号、700トン。6時間の戦闘ののちイギリス側の火力は相手を圧した。奪った黄金7万ポンド、その他真珠、麝香、サティン、ダマスクなどの積荷。「かつて四海を航行した船のなかでもっとも豪華なものの一つ」は、かくて彼の手に落ちるのである。
 ここまで書いたのは、他でもない、とくにわが国読者のために、これも大航海時代の一挿話として、書き加えておきたいことがあったからである。それはこのスペイン船に乗り組んでいた二人の日本青年のこと、のち同行者の一人をフランシス・プレティーが、「二人は自国語を読み書きでき、年のころはクリストファーと名づけられた上の方が20歳、コズマスと呼ばれた下の方が17歳、ともに有能な男であった」と書いたその二人のことである。キャヴェンディッシュは英名を与えるとともに二人を自分の船に助け上げた。日本名はついに知る由もない。また助けた理由も、当時目に一丁字すらなかった船乗りの多かったなかで、よほど彼らの才が珍しがられたためか、それとも大航海者の胸に去来したものが、次の深慮遠謀であったか、それも推察の域を出ない。しかしいずれにせよ、二人は一行とともに万里の波濤を越える。太平洋、インド洋から希望峰を回り、セント・ヘレナを経てイギリス海峡に入ったのが新しい年、つまり1588年の9月初旬。おりしも海峡には、あの無敵艦隊を追った西からの疾風が吹いていた。一行をプリマスに運んだのはこの風であった。
 記憶すべき無敵艦隊の年、ここイギリスには紛れもなく二人の日本人がいる。翌年、無類のインターヴューアー、ハクルートもまた書いている。「今ここに生粋日本人ありて(中略)わが風土に慣れ、わが国語を操り、東洋の習いについて語る、また奇ならずや」と。「わが国語」という言葉に注意されたい。こういうからには英語であろう。なるほど「有能な男」ではないか、一年たらずでこの異国語を習得したとは。念のため、ハクルートが、この大航海者の縁者ダグラス・キャヴェンディッシュと結婚するのが、ちょうどこのころ、としてみれば彼ハクルートが、二人を見かけたのも、いずれキャヴェンディッシュ家に出入りした、そのような折ふしであったかもしれない。南欧では、かの天正少年使節が去って2年後のことである。」

④秀吉の朝鮮出兵、津軽と蝦夷に関するイエズス会報告

 第3巻に収録されているまとまった日本関係記事として、秀吉の朝鮮出兵について報じたイエズス会士による報告書巻の英訳が収録されています。これらの書簡が収録されている背景には、ユーラシア大陸の北方を東進する北東航路、あるいはアメリカ大陸北方を西進する北西航路開発の可能性を探り、両航路の実現に向けたさらなる航海を推進しようとするハクルートの意図があります。ポルトガル、スペインによる既存航路によらずにアジアに直接到達する独自航路の開発は、遠洋航海において後発国であるイングランドにおける悲願でしたが、そのために必要な地理情報が圧倒的に不足していたのが実情で、実際の探索航海は失敗が続いていました。目的地の一つである中国や朝鮮半島、日本近海の地理情報も当時はほとんどヨーロッパでは正確な情報がなく、朝鮮半島が島であるのかどうかさえも定かでなかったほどです。こうした地理情報の不足を改善するために用いられたのが、やはり実際に日本に赴き当地の情報をヨーロッパに年報の形で定期的に発信していたイエズス会士の報告書でした。ここに収録されている書簡は主にフロイスによって認められたとされる1590年、1591年、1592年、1594年の書簡です。これらの書簡は日本国内の統一を果たした秀吉による朝鮮出兵を報じたものですが、ハクルートは、これらの報告がそれまでヨーロッパであまり知られていなかった朝鮮半島についての貴重な最新情報を提供するものとして注目し、英訳して本書に収録しています。もちろん、これらの書簡には当時の日本国内についての情報もふんだんひ盛り込まれていますので、ここに収録された英訳記事は、結果的に当時の日本の情勢に関する最新情報を英語圏読者に提供することにもなりました。
 また、これらの朝鮮出兵に関する記事に続いて、「日本の極北である津軽(Zuegara)」について報告した1599年のフロイス書簡も収録されています。京都(Miacó)から30日の旅程を要するとされている津軽についての報告も、先の朝鮮出兵に関する書簡と同じく、日本北方という未知の領域の地理情報をもたらす貴重な資料としてハクルートに注目されています。この書簡は、「蝦夷(Jezi)と呼ばれる韃靼の国」についても言及されており、北東、北西航路のいずれであっても、アジアに至るための最初の到達地になるであろう北東アジア海域についての情報が渇望されていたことが窺えます。イエズス会士による日本報告書は、イタリア語をはじめスペイン語、ポルトガル語、ラテン語、ドイツ語等、欧州各国後に翻訳されて数多く出版されていますが、こと英語に関しては翻訳出版がすこぶる低調で、英訳版が出版されることは極めて稀でしたので、ここに収録されている日本報告の英訳記事は、当時最新の日本情報を英語圏の読者に伝えた大変貴重な資料ということができるでしょう。


5種類のタイトルページが存在する第2版第1巻の特徴と本書の位置付け

 第2版である本書の第1巻は、5種類の異なるタイトルページが存在することが確認されており、また収録内容についても、いくつか異なるものがあることが確認されています。この点についても既に数多くの研究がなされていますが、D. B. Quinn (ed.) The Hakluyt Handbook. Vol. 2. (Hakluyt Society Second Series, vol.145). London, 1974) の解説(pp.490)によりますと、5種類のタイトルページは、全て出版社のデバイス(商標)が異なっていることに加えて、それぞれ主として下記のような特徴があります。

1. 刊行年表記が1598年。8行目に「these 1500. Yeers」との表記。「1596年のカディス遠征」の表記あり。
2. 刊行年表記が1599年。7行目に「these 1600 yeres」との表記。「1596年のカディス遠征記」表記なし。
3. 刊行年表記が1599年。7行目に「these 1600 years」との表記。「1596年のカディス遠征記」表記なし。
4. 刊行年表記が1600年。7行目に「these 1600 yeres」との表記。14行目が「River」との表記。「1596年のカディス遠征記」表記なし。
5. 全く異なるタイトルページ。用紙の透かしに1794年とあるのを読み取ることができる。

 本書は、このうちの2に該当するものです。上記5種類を大きく分けると、初刷である1とそれ以降とに分けて考えることができます。その大きな違いは、いわゆる「カディス遠征」についての記載の有無にあります。

 このカディス遠征は、第2代エセックス伯であるデヴァルー(Robert Devereux, 2nd Earl of Essex, 1566 - 1601)が指揮官として行ったもので、スペイン艦隊を攻撃するためにカディス号を襲撃し、大きな戦功を挙げたことで知られる事件です。この遠征によりデヴァルーは大いに名声を高めましたが、逆にエリザベス1世からは不興を買い、デヴァルーは次第に女王からの信頼を無くしてしまうことになりました。この事態を挽回するためにデヴァルーは1599年にアイルランド反乱軍の鎮圧の監督を買って出ますが、鎮圧に失敗した挙句、無断で戦場を離れてロンドンに戻ったために、女王の叱責を受け、1600年には官職の剥奪と謹慎処分を受けました。追い詰められたデヴァルーは、本書刊行後の1601年にクーデターを企てますがあえなく失敗し、処刑されました。

 本書第1巻初刷が刊行されたのは1599年(タイトルページの表記は1598年ですが)の初めと考えられており、この時点ではデヴァルーがエリザベス1世からの信頼を決定的に失うまでには至っておらず、デヴァルーの戦功を讃える「カディス遠征」は、憚られることなく収録することが可能でした。しかし、急速に事態の悪化が進みデヴァルーがエリザベス1世から決定的に遠ざけられることになった1600年には、本書に「カディス遠征」を収録し、しかもタイトルページに強調して記載することは、極めて厄介な事態を引き起こす可能性を秘める状況となってしまいました。本書第2巻と第3巻は、エリザベス朝におけるデヴァルーの政敵であったセシルに献辞が寄せられていることからもわかるように、政界中枢と深いつながりのあったハクルートは、こうした事態の推移に極めて慎重に行動する必要があったため、エリザベス1世の不興を買ったデヴァルーを称える「カディス遠征記」をタイトルページから削除して差し替え、第1巻本文末尾にあった記事も全て削除した上で、第1巻第2刷を1600年に刊行しました。こうした事情があったため、現存する第1巻の多くは、「カディス遠征」の記載がある1以外のタイトルページを有するものとなっています。

 また、この第1巻第2刷が刊行されるのとほぼ同時に、第2巻が完成したため、第1巻と第2巻が合冊して刊行されることになりました。こうしたことから、現存する第2版の多くは、第1巻と第2巻が合冊され、単独の第3巻と合わせた、全2冊構成となっています。
 「カディス遠征記」収録の有無については、第2刷以降は基本的に収録されていないものが本来の姿ですが、後年(1720年頃とされている)になって印刷された「カディス遠征記」を再度加えたものが少なからずあり、タイトルページにおける表記の有無にかかわらず、実際に収録されているかどうかについては個別に確認することが必要となっています。本書については、タイトルページの記載も、実際の記事の収録もないものです。
 なお、前掲書によりますと、現存するもので最も多くみられるものが本書である2で、第3刷とみられる3は、極めて珍しく現存するものは6部しか確認できないそうです。2に次いで少ないのが、「カディス遠征記」が削除される以前の初刷である1とされています。4についてはそれが果たして3までと同時代に印刷されたものなのか、あるいはずっと後年になって印刷されたものであるのかに次いては諸説あるようですが、おそらく後年になって新たに印刷されたものではないかと思われます。5も同様に用紙の透かしに「1794年」とあることから明らかなように、少なくとも18世紀終わりになって新たに印刷されたものです。いずれにしても、この4、5については現存するものがかなり限られている(4が3部、5が2部のみ確認されている)ようですので、第2版第1巻は、おおむね1あるいは2であることが多いということができるでしょう。

 さらに、この第2版にはライト(Edward Wright, 1561 - 1615)が製作した世界地図 (A Chart of the World on Mercator's Projection.)が収録されているものが極一部存在することも確認されていますが、あいにく本書には収録されていません。この世界地図は2ページ大の世界地図で、オルテリウスの地図帳収録の世界図を流用した初版とは異なり、イングランドで製作された世界図の記念碑的作品として高く評価されていますが、現存する第2版でこの地図を収録しているものは極めて珍しいとされています。その理由については、当初からごく一部のものにしか収録されなかった、長年の利用のうちに摩耗して消失した、切り取られて転売された、等々、さまざまな説が提起されていますが、店主はおそらく最初からごく一部のものにしか収録されていなかったのではないかと考えています。摩耗による消失は、2ページ大の大きさの地図であるが故に、十分ありえる話ではありますが、本書に限らず2ページ大の地図を収録し、かつ現存している例は数え切れぬほどありますので、本書収録の地図だけが異常な比率で摩耗による消失を被ったとは考えにくいですし、切り取られて転売されたと考えるには、古地図市場で流通するものがほとんど皆無であることから不自然と言えます。確かにリンスホーテンの『旅行記三部作』収録図のように、後年になって切り取られて転売されるケースはままありますが、その分、古地図市場に切り取られた地図がそれなりに流通していることに鑑みると、当時ベストセラーとなった本書収録のライトの世界図だけが古書市場にほとんど出現しないことは、大変奇妙と言えます。したがって、おそらくは刊行された本書の全てに世界図が収録されていたのではなく、ごく一部の特別な版のみに収録されていたと考えるのが自然ではないかと、店主は推察しています。

 このように、本書には特に第1巻を中心として、複数の異刷が確認できますが、いずれにしてもその収録内容に大きな差異はなく、また史料的価値についてはいずれの版も極めて高いということに変わりはありません。その意味において、全3巻の内容を完備している本書もまた、大変貴重な一部と言えるでしょう。


国内所蔵状況

 上記のように、本書はシェイクスピアの戯曲作品と並ぶエリザベス朝の偉大な作品として極めて高く評価された書物で、かつその中には英語圏で日本のことを本格的に紹介した最初期の貴重な記事が多数含まれているという、日本関係欧文史料としても極めて重要な位置を占めるべき文献です。また、上記で参照したように「大航海時代叢書」において邦訳もなされています。しかしながら、こうした高い評価とその重要性にもかかわらず、本書を所蔵する研究機関は極めて少ないようで、CiNii上では本書と同じく第2刷と思われる1セットが京都大学経済学部図書館(上野文庫)に所蔵されているだけです。本書については今なお盛んに研究が続けられており、本書の批判校閲版出版のプロジェクトも現在進行中とされていますので、改めて本書に対する注目が集まることが予想されています。本書は、内容に欠落もなく後年に施された製本によって非常に良好な状態にある大変貴重な書物と言えるでしょう。


各巻の書誌情報

Vol.1: Title., 11 leaves, pp.1-48, 46[i.e.49], 50-72, 87[i.e.73], 74, 57[i.e.75], 76-195, 169[i.e.196], 197, 168[i.e.198], 199-204, 203[i.e.205], 204[i.e.206], 207-277, 276[i.e.278], 279-604, 608[i.e.605], 606.
[bound with]
Vol.2: Title., 7 leaves, pp.1-113, 126[i.e.114], 127[i.e.115], 116-248, 243[i.e.249], 250-253, 252[i.e.254], 255-312, pp.1-5, 318[i.e.6], 319[i.e.7], 8-13, 326[i.e.14], 15, 328[i.e.16], 29[i.e.17], 330[i.e.18], 331[i.e.19], 32[i.e.20], 333[i.e.21], 22, 335[i.e.23], 24-110, 110[i.e.111], 112-154, 143[i.e.155], 156-204.

Vol.3: Title., 7 leaves, pp.1-98, 101[i.e.99], 100-105, 104[i.e.106], 107-358, 259[i.e.359], 360-549, 534[i.e.550], 551-616, 671[i.e.617], 618-868.

第1巻と2巻は1冊に合冊されている。第2巻刊行とほぼ同時期に第1巻第2刷が刊行されたためで、現存する多くのものが第1巻と第2巻とが合冊されている。
第1巻タイトルページ。余白部分がトリミングされて別の用紙に貼り付けられてある。刊行年表記が1599年。7行目に「these 1600 yeres」との表記があり、「1596年のカディス遠征記」表記がない第2刷のタイトルページの特徴と合致する。
第1巻の献辞は、ノッティンガム伯爵チャールズ・ハワード(Charles Howard, First Earl of Nottingham, 1536 - 1624)にあてられている。政界の中枢に関わっていたハクルートは、自身の提言を本書刊行を通じて最大限に活かされるよう周到に行動した。
読者への序文冒頭箇所。この序文自体が非常に格調高く、また内容的にもハクルートの世界観と本書編集に際しての哲学が披瀝されており、非常に興味深い記述が多い。
目次冒頭箇所。膨大な航海記、旅行記が地域と年代によって整然と整理されているのがよくわかる。第1巻は、北方、北東航路、ロシアに関する航海、旅行記と関連一次史料が収録されている。
各旅行記、航海記に関連する勅書、書簡、特許状などの一次史料が収録されているのも本書の大きな特徴。
第1巻本文冒頭箇所。
第2巻タイトルページ。
第2巻の献辞は、ロバート・セシル(Robert Cecil, 1st Earl of Salisbury, 1563 - 1612)にあてられている。
このセシルへの献辞文中に、イングランドの毛織物の有望な輸出先の一つとして日本が挙げられているのは非常に興味深い。
第2巻本文冒頭箇所。第2巻は、南方、南東地域、レヴァントへの航海、旅行記と関連一次史料を収録している。
セシルへの献辞文中でも言及された、毛織物の有望な輸出先として日本とともに挙げられた中国に関する記事。後掲の日本記事と同じく、1577年に刊行されたウィルズの『東西インド旅行誌』からの転載であることが明記されている。
ウィルズによる日本報告記事冒頭箇所。
ウィルズ自身による日本概説に続いて、イエズス会士フロイスの日本報告書の英訳が掲載されている。
北東航路開発を成功させることによって、中国、朝鮮、日本、そしてモルッカへと直接航路を開くことは、ハクルートが強く提唱したことであった。
中国関係記事も非常に充実している。英語で紹介された記事としては日本記事と同じく最初期のものと思われる。
比較的最近になって施されたものと思われる装丁で状態は非常に良い。
第3巻。第1巻と第2巻に比べて少し大きさが小さい。
第3巻タイトルページ。
第3巻の献辞は、第2巻と同じくセシルにあてられている。
第3巻冒頭箇所。第3巻は、「新たに発見された世界」である「アメリカ」、西インドへの航海、旅行記と関連一次史料を収録している。
ドレイクの世界周航に続いて世界一周を果たしたキャヴェンディッシュ(Thomas Cavendish, 1560 - 1592)の世界周航記冒頭箇所。
キャヴェンディッシュ航海記中に、捕虜となった二人の日本の青年についての記述がある(上掲第4パラグラフ)。クリストファーとコズマスと名付けられた二人はイングランドに上陸したことが記録された最初の日本の人物である。
秀吉の朝鮮出兵に関するイエズス会報告第1書簡冒頭箇所。ここに記された朝鮮についての情報がハクルートにとっては、北西航路、北東航路実現のために非常に重要であった。
朝鮮出兵に関する第2書簡冒頭箇所。
朝鮮出兵に関する第3書簡冒頭箇所。
「日本の極北である津軽(Zuegara)」について報告した1599年のフロイス書簡冒頭箇所。
第3巻末尾。
第3巻も、第1巻、2巻と同じ装丁が施されており、本文中にシミ跡はあるが判読に支障はなく、状態は良好と言える。