書籍目録

『茶についての医学的論考』

マッポー

『茶についての医学的論考』

1691年 ストラスブール刊

Marco, Mappo.

DISSERTATIO MEDICA DE POTU THEE, …

Argentorati (i.e. Strasburg), Joh. Friderici Spoor, M DC XCI.(1691). <AB2020251>

Sold

4to (15.8 cm x 19.3 cm), Title., pp.1-51, 25(i.e.52), 53-54, Bound with a pastepaper spine, stored in the box.
保存用のケースが付属。

Information

数多くの文献を参照しながら多角的に論じられた日本茶とのその文化

 本書は、17世紀半ばからヨーロッパに広まりつつあった茶について、さまざまな文献を駆使して多角的に論じたもので、当時のヨーロッパで茶に対してどのような言説が展開されていたのかを知ることができる大変興味深い小著です。日本と中国からオランダ東インド会社によってもたらされた茶は17世紀半ば以降、当初は医薬品として珍重され、次第に嗜好飲料としても広がっていきましたが、その間に茶の効用や用法、淹れ方などをめぐってさまざまな議論が展開されていました。本書は、賛否いずれかの立場をとってその主張を展開するというよりも、当時の信頼できる多くの文献を駆使することで、より客観的に茶についての解説を試みようとしたもので、日本と中国の茶がどのように当時のヨーロッパで認識されていたのかを垣間見ることができます。16世紀から17世紀のヨーロッパにおける茶の受容は、その効能だけでなく作法、文化も含めて、ヨーロッパにおける日本観に少なくない影響を与えていることから、茶というユニークな角度から日本について論じられている本書は、日本関係欧文資料として非常に重要な書物と言えます。

 ヨーロッパに茶がいつ、どのように伝えられたのかについて、正確な時期やルートは明らかになっていませんが、刊行された書物に紹介された例としては、ルネサンス期におけるイタリアの旅行記集成の金字塔である、ラムージオ(Giovanni Batista Ramusio, 1485 - 1557)『航海記集成』(Della Navigationi et Viaggi, 1559)における茶の記述が最初期のものであると考えられています。また来日したイエズス会宣教師による日本報告の中にも茶や茶器についての記述がしばしば登場しており、イエズス士の日本を中心としたアジア宣教報告をもとに執筆され、アジアに関する最大の権威書の一つであったマッフェイ(Giovanni Pietro Maffei, 1533- 1603)『インド誌』(Ioannis Petri Maffeii Bergomatis e Societate Iesu, Historiarum Indicarum libri XVI, Roma, 1588)において、日本の茶とそれに関連する茶文化、茶器についての情報が広くヨーロッパに伝えられるようになりました。また、16世紀に刊行されたヨーロッパで最初の本格的な中国紹介の書物として知られるゴンサーレス・デ・メンドーサ(Juan González de Mendoza, 1545 - 1618)による『中国大王国誌』(Dell’historia della china. 1585)においても中国茶についての記述が含まれており、メンドーサとマッフェイによる日本茶と中国茶の紹介は、リンスホーテン(Jan Huygen van Linschoten, 1562? - 1611)の「東方旅行記」(Itinerario. 1595)を含む『旅行記三部作』をはじめとして、当時のヨーロッパでベストセラーとなった多くの書物にも転載され、東洋の神秘的な飲料として茶という不思議な飲み物があることがヨーロッパで広く知られるようになっていきました。

 このように16世紀半ば以降にさまざまな文献を通じてヨーロッパで知られるようになった茶を、実際にヨーロッパに本格的に輸入することを試みたのは、17世紀に入って急速に海洋国家としてアジア貿易に進出してきたオランダで、具体的な時期については諸説あるようですが17世紀前半にはオランダ東インド会社が茶をヨーロッパに定期的にもたらすようになっていたようです。オランダによって輸入された茶はイギリスやフランスなどヨーロッパ各国にも持ち込まれ、上流階級を中心に喫茶文化と習慣が徐々に広まっていたと考えられています。また、この頃、茶と並ぶ医薬品、嗜好品として、コーヒーとチョコレートもほぼ同時期にヨーロッパに伝えられており、いずれも非常に高価であったものの、徐々にヨーロッパ各国でこれらの嗜好品が親しまれるようになっていったようです。
 
 こうしたヨーロッパにおける受容を背景に、茶やコーヒー、チョコレートについて、その是非を巡る論争が17世紀半ばに相次いで起こるようになり、茶についても主に医師の間で激しい議論が展開されました。茶の医学的効用についての積極的な賛成論者としては、ドイツの医師ボンテコー(Bonteko, Cornelis, 1647 - 1685)による『最上の薬用物である茶についての事実』(Tractaat Van Het Excellenste Kruyd Thee…Hague, 1679)が有名で、ポンテコーは、茶はあらゆる病気に対する万能薬で1日に百杯飲んでも良いと主張したことが知られています。ボンテコーの主張の背景には、オランダ東インド会社によるプロモーションもあったと言われていますが、それに対する喫茶反対論も数多く、中国宣教で大きな成果を挙げたイエズス会士マルティニ(Martino Martini, 1614 - 1661)は、茶は人々の精気を奪う有害な飲料であるとして、ヨーロッパから茶を追放すべきだと激しく主張したと言われています。ヨーロッパにおける茶の流行に伴って生じたこうした論争は、いずれの主張も何らかの根拠に基づいているというよりも、特定の立場から特定の主張を激しく主張したものが多く、科学的な議論というよりも、茶という異文化受容の是非をめぐる文化摩擦論争と言うべきものが多いことが特徴といえます。

 こうした議論の中において、本書はかなり異例とも言えるある意味での実証性を重んじた態度で著されていることが大きな特徴で、16世紀末のリンスホーテンやマッフェイの著作を初めとして、信頼できる情報源を選別してそれらを精緻に読み解くことで、茶が実際にどのようなものであるのかを冷静に検証しようとしています。著者のマッポー(Marcus Mappo / Markus Mappus, 1632 - 1701)は、ストラスブールの医学博士で、ギリシャ医学、特にヒポクラテスやガレノスの医術を文献学的に考察することに強い関心があったことでも知られているように、文献の精緻な読解を通じて医学の発展を促すことを目指していました。マッポーは、当時医学的効能について議論が激しく行われていた茶や、コーヒー、チョコレートについても強い関心を持ったようで、本書を初めとしてコーヒーやチョコレートについての著作も残しています。

 本書は当時のヨーロッパ学術界の共通言語であるラテン語で執筆された60ページ弱の小著ですが、文献の精緻な考察を重人たマッポーらしく、当時のヨーロッパにおける茶についての権威ある考察が縦横無尽に参照されており、結果的に16世紀末から17世紀末に至るまでの茶を通じたヨーロッパにおける日本観も集成した内容となっています。先に言及したようなマッフェイやリンスホーテンと言った16世紀の古典的著作における茶の記述を随時引用しながらまとめた上で、当時最新の情報源としてマッポーが重視したのは、実際に日本や中国に赴いた経験のあるオランダ東インド会社関係者による証言だったようで、具体的には、1674年に幕府の要請を受けて来日したオランダの医師ウィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhije, 1649 -1700)の著作や、2度に渡って(1683−84年、1685−86年)オランダ商館長を務めた優れた植物学者で、離日後もバタビアにとどまり、当地や東アジア地域の植物収集と研究を続けていたクライアー(Andreas Cleyer, 1634 - 1697)が、学術雑誌『ゲルマン医理学アカデミー論集』(Miscellanea curiosa sive ephemerdium. Medico-Physicarum Germanicarum Academiae Imperialis Leopoldinae…)に定期的にバタビアからの通信の形で寄稿していた論文が数多く参照されています。ただし、当時最新の植物学、医学の論考にも目を配っており、デンマークの医師で植物学にも精通した医学者として著名だったパウリ(Simon Pauli, 1603 - 1680)の考察なども参照しています。加えて、彼の関心が高かったヒポクラテスなどギリシャ医学も随所で比較考察のために参照されています。こうした古今の多くの文献を駆使してマッポーは茶についての様々な角度から考察しており、例えばその多様な名称については、中国では「テー(Theé)」、日本では「チャ(Cha / Tcha)」、韃靼やペルシャでは「タイ / ツャイ(Tay / Tzay)」と呼ばれていて、ヨーロッパでは中国に倣って「テー(Theé)」と呼んでいる、などと解説しています。また、平戸オランダ商館長スペックス(Jacques Spex, 1585 - 1652)の貿易品としての茶についての報告を引用したり、天正遣欧使節が1585年にローマ教皇グレゴリウス13世に謁見した際に茶も奉じたことなど、日欧交流史の興味深いエピソードも随所で紹介しています。茶がヨーロッパにいつ頃もたらされるようになったのかや、オランダ東インド会社との関係、日本と中国における茶の用い方や文化、品種の違いなどについても、文献の根拠を示しながら詳細に論じていて、小著ながら非常に充実した内容になっているように見受けられます。

 本書は60ページに満たない小冊子であったことも影響したのか、これまで東西交渉史全般においてはおろか、茶を通じた文化交流史の文脈でもほとんど言及された形跡がないように見受けられます。17世紀にヨーロッパにおいて刊行された茶論の多くが特定の立場ありきで執筆されたものであるのに対して、数多くの文献を駆使しながら多角的に論を展開している本書は、当時のヨーロッパにおける日本観を茶というユニークな視点を通じて浮かび上がらせてくれる、大変興味深い日本関係欧文史料ということができるでしょう。


*ヨーロッパにおける茶の受容史については主として下記の文献ほかを参照。

角山栄『茶の世界史:緑茶の文化と紅茶の社会』(新版)中央公論社、2017年
松崎芳郎編『年表:茶の世界史』八坂書房、2012年
ビアトリス・ホーネガー、平田紀之訳『茶の世界史』白水社、2020年
羽田正『東インド会社とアジアの海』講談社(学術文庫版)、2017年

タイトルページ。
序文冒頭箇所。
本文冒頭箇所。本書中で参照される様々な文献とその特徴を紹介している。
イエズス会士による日本報告やリンスホーテンをはじめとするインド誌関係文献を多数参照していることがわかる。各国、地域で異なる茶の呼び方についても、中国では「テー(Theé)」、日本では「チャ(Cha / Tcha)」、韃靼やペルシャでは「タイ / ツャイ(Tay / Tzay)」と呼ばれていて、ヨーロッパでは中国に倣って「テー(Theé)」と呼んでいる、などと解説している。
1633年からフレデリック3世(Frederik 3, 1597 - 1659)(シュレースヴィヒ=ホルシュタイン=ゴットルプ公)の企図によって行われたモスクワ、ペルシャへの使節団派遣に随行し、ペルシャからは本体と離れてさらに東インド各地へと赴いたマンデルスロ(Johan Albrecht de Mandelslo, 1616 - 1644)旅行記(Des Hoch Edelgebornen Johann Albrechts von Mandelslo Morgenländische Reyse=Beschreibung…1658, Schleswig.)は、喫茶文化をヨーロッパに広く伝えた初期の文献として知られるが、当然本書においても参照されている。
1674年に幕府の要請を受けて来日したオランダの医師ウィレム・テン・ライネ(Willem ten Rhije, 1649 -1700)の著作も頻繁に参照、引用されており、著者が実際に日本や中国への渡航、滞在歴のあるオランダ東インド会社関係者の証言を重視していることが窺える。
当時最新の植物学、医学の論考にも目を配っており、デンマークの医師で植物学にも精通した医学者として著名だったパウリ(Simon Pauli, 1603 - 1680)の考察なども参照している。
オランダ商館長を務めた優れた植物学者で、離日後もバタビアにとどまり、当地や東アジア地域の植物収集と研究を続けたクライアー(Andreas Cleyer, 1634 - 1697)は、ケンペルに大きな影響を与えた人物としても知られているが、本書においても彼がバタビアから送った研究報告書が随所で参照されている。
ライネの考察は頻繁に引用されている。
著者の関心の高かったギリシャ古典医学との比較考察が展開されているのも、本書の特徴と言える。
本文末尾。
背部分をマーブル紙で補強した表紙のない簡易製本の状態だが、保存用のケースが付属している。
ケースは厚紙で作成されており、本棚に立てて収納できるようになっている。