書籍目録

『日本の気象学に対する寄与』

ティザード / チャレンジャー号探検航海 / (ブラントン)

『日本の気象学に対する寄与』

気象委員会公式報告書第28号(イギリス議会文書、いわゆるブルーブック) 1876年 ロンドン刊

Tizard, Tohmas. H. / Challenger expedition / Brunton, Richard Henry.

OFFICIAL COPY. CONTRIBUTION TO THE METEOROLOGY OF JAPAN. BY STAFF-COMMANDER THOMAS H. TIZARD, H.M.S. “CHALLENGER” Published by the Authority of the Meteorological Committee. Official No. 28.

London, (Printed for Her Majesty’s Stationary Office and sold by) J. D. Potter and Edward Stanford, 1876. <AB2020239>

Sold

4to (24.0 cm x 30.5 cm), pp.[1(Title.)-3], 4-24, 2 leaves(Diagram I-IV), 3 leaves(Plate 1-3), Contemporary half card boards with original blue paper wrappers.

Information

日本における近代気象観測の嚆矢となった文献

 本書は、1868年8月から1876年3月まで、いわゆる「お雇外国人」として灯台建設主任技師の人にあった、スコットランド出身のイギリス人、ブラントン(Richard Henry Brunton, 1841 - 1901)が取りまとめた気象観測データを元に編纂された、日本における近代気象観測の嚆矢となった文献です。主として1871年から1874年までの日本各地のブラントン によって設置された灯台で行われた様々な気象観測データに基づいた報告書で、議会公式文書として、ブラントンによる著名な日本「NIppon」の刊行の同年の1876年に出版されています。著者であるティザード(Thomas Henry Tizard, 1839 - 1924)は、イギリスの水路学、海洋学の著名な研究者で、1872年から1876年にかけて海洋学調査の探検航海を行ったイギリス船チャレンジャー号に搭乗していました。ブラントンが設置した灯台における各地の気象観測データは、ブラントンに定期的に届けられていましたが、チャレンジャー号が横浜に寄港した際に、ブラントンは、これらの気象データをまとめて、同号の科学部長だったトムソン(Charles Wyville Thomson, 1830 - 1882)に提供しました。このブラントンがチャレンジャー号にもたらした情報を元にして、ティザードが編纂して、気象委員会(Meteorological Society)の公認を受けて刊行されたものが本書です。一般に広く公開されるいわゆるブルーブックとよばれるイギリス議会文書として刊行されたものですが、特殊な性質の報告書であったためか、ごく少部数しか印刷されなかったようで、国内研究機関における所蔵機関が確認できない文献となっています。


「ブラントンの指摘していたように、このころ(1874年3月:引用者注)、灯台と水路部観象台と大学の3カ所で気象観測が行われていた。ブラントンの指導により、1871(明治4)年ころから9つの灯台と2つの灯船が気象の記録をのこした。神子元島、剣崎、石廊崎、樫野崎、潮岬、江崎、伊王島、佐多岬の灯台と、本牧(横浜)と函館の灯台である。これらには晴雨計、寒暖計、雨量計がととのえられ、毎日の午前9時と午後9時に天気、気圧、風向などを測った。この記録は月末になるとブラントンの許に報告された。ブラントンはこのデータをまとめ、1875(明治8)年6月にイギリスの探検船チャレンジャー号が横浜に入港したとき、隊長のトムソンに贈った。さらにイギリス気象委員会に転送され、委員会は、”Contribution to the Meteorology of Japan, 1876”と題して出版した。
 
 1871(明治4)年に兵部省海軍部に水路局が設けられ、「測点観象」を事業のひとつにした。これは天文と気象の広い分野のものであった。しかし、ここでの観測は貧弱であり、1873(明治6)年10月の観象台の機器としては「晴雨計寒暖計ノ二器アルノミ」という状態であった。翌年7月、観象台は落成したが、イギリスの最新の気象観測機械(原基晴雨計、累管晴雨計、原基寒暖計、検湿儀、乾湿寒暖計、両雨器、検風義、太陽寒暖計)が入ったのは、1875(明治8)年7月になってからである。一方、大学すなわち、開成学校では東京気象台に雇われる以前のドイツ人クニッピングが開成学校内の官舎で1872(明治5)年10月から気象機器をそろえて毎日の定刻に観測をしていた。このデータはドイツ東アジア自然民俗協会の『紀要』第1巻(1874)に「江戸における気象観測」として発表された。」
 」
(楠家重敏『ジャパのロジーことはじめ–日本アジア協会の研究−』晃洋書房、2017年、78-79頁より)