書籍目録

『日本語、アラビア語、バスク語に、(コロンビアの)ボゴタ人とその文明の起源があることについての覚書:最近のフンボルト、およびシーボルト氏による著作を参照して』

パラヴェイ /(シーボルト)/(フンボルト)

『日本語、アラビア語、バスク語に、(コロンビアの)ボゴタ人とその文明の起源があることについての覚書:最近のフンボルト、およびシーボルト氏による著作を参照して』

(雑誌『キリスト教哲学年報』第56号から抜き刷りして、独立した著作として発行) 1835年 パリ刊

Paravey, Charles-Hippolyte de. / (Siebold, Philipp Franz von) / (Humboldt, Friedrich Wilhelm von).

MÉMOIRE SUR L'ORIGINE JAPONAISE, ARABE ET BASXUE DE LA CIVILISATION DES PEUPLES DU PLATEAU DE BOGOTA, D'APRÉS LES TRAVAUX RÉCENS DE MM. DE HUMBOLDT ET SIÉBOLD. PAR M. DE PARAVEY.

Paris, Dondey-Dupré, 1835. <AB2020204>

Sold

(Extracted from Annales des Philosophie chrétienne. vol.56)

8vo (14.0 cm x 22.1 cm), Half Title., Front., pp.[1(Title)-3], 4-33, Contemporary half cloth on marble boards.
旧蔵者による押印と書き込みが随所にあり。

Information

フランス・アジア協会で1830年代に議論された日本語の起源とその伝播、大家フンボルトと俊英シーボルトによる当時最新の成果を反映

 本書は、現代でもなお議論が続いている日本語の起源とその伝播を巡って、「比較言語学」が誕生して間もない1830年代のヨーロッパで激しい議論が繰り広げられていたこと、そしてその議論に、俊英シーボルトが関わっていたことを伝える、大変重要な文献です。

 著者のパラヴェイ(Charles Hippolyte de Paravey, 1787 - 1871)は、フランスアジア協会の(Société Asiatique)の創立者の一人で、19世紀のアジア学者を代表する人物の一人です。1826年にシャンポリオン(Jean François Champollion, 1790 - 1832)によって解読されたヒエログリフの研究や、中国研究に勤しみ、アメリカ大陸の文化的、言語的起源をアジアに求める説を唱えました。

 本書は、『キリスト教哲学年報(Annales des Philosophie chrétienne.)』第56号に発表されたパラヴェイの覚書とされる論考を、独立した書物として抜き刷りにして刊行されたものです。本文中で「パラヴェイ氏」という表現を散見しますので、パラヴェイ自身の論考を第三者(雑誌の編者か)が纏めたものか、あるいはそのような叙述のスタイルをとってパラヴェイ自身が著したものであるか定かでありませんが、いずれにせよ、著者名ははっきりとパラヴェイであることが明記されています。

 パラヴェイは、本書において、南米コロンビアのボゴタに住むムイスカ人の文化と言語的な起源が、日本語にあるのではないかという主張を唱えています。これは一見荒唐無稽な主張のように思えますが、同時代のヨーロッパを席巻していた「比較言語学」の興隆が背景にあることに鑑みると、いささかそうとも言い切れないものです。サンスクリット語と古典ギリシャ語とラテン語の類似性を発見し、そこからヨーロッパ諸言語の起源をサンスクリット語に見いだせるとしたジョーンズ(William Johns, 1746 - 1794)の発表を嚆矢として、複数の言語を、単語や文法的特徴からいくつかの系統に分類し、その「祖語」を見出そうとする「比較言語学」の試みが18世紀以降のヨーロッパで盛んになっていきます。その中で、中国語や日本語がいかなる系統に属するのか、またそれらが太平洋諸島の多くの言語やアメリカ大陸で用いられている様々な言語とどういう関係にあるのかについても、議論されるようになっていきます。こうしたことを背景に、パラヴェイが唱えたのが、アジアの言語が太平洋を渡ってアメリカ大陸にまで伝搬したという説です。

 パラヴェイは自身の主張の論敵として、当時既に亡くなっていたもののアジア学の権威であったクラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1783 - 1835)をあげているほか、同時代の多くのアジア研究者の研究についても言及しており、当時の議論の様子をうかがい知ることができます。パラヴェイの主張の背景には、おそらくカソリック的な「普遍史」の世界観があるものと思われ、「新大陸」の古来からの文明や言語が、独自のものではなく、ヨーロッパと地続きにあるアジアを起源としていることを論証することが、重要であったのではないかと推察されます。本文の初めでは、この論考が「カソリックから敬意を持って受け取られるに違いない(doit etre recu par les catholiques avec une sorte de respect)」とも書いており、また本書がもともとカソリック的な色彩の強い『キリスト教哲学年報』に掲載されていたことに鑑みれば、こうした主張はそれほど不自然ではありません。

 パラヴェイはこの説を唱えるにあたって、本書で主に二人の人物による先行文献を参照しており、一人が当時の「比較言語学」の権威でもあったアレキサンダー・フォン・フンボルト(Alexander von Humboldt, 1769 - 1859)、そしてもう一人が、長崎出島に滞在し日本語研究を進めていた俊英シーボルトです。

 フンボルトは、ヨーロッパの多くの言語と異なる特徴を持つバスク語に関心を持ち、サンスクリット語の文法的研究や、ヒエログリフ、中国語の研究などを行い、また日本語についてもイエズス会士ロドリゲス(João “Girão” Rodrigues, 1559 - 1629)の『日本語小文典(Arte Brreve da Lingoa Iapoa)』の仏訳版(Élemens de la grammaire japonaise. 1825.)など、カソリック宣教師が残した日本語辞典を参照にしながら独自の研究を行なっており、ある意味では当時の日本語研究の権威の一人と目されていました。パラヴェイは、本書に限らず、他の多くの作品でも自身の議論を補強する文脈で、フンボルトの先行研究を多く用いています。

 一方、シーボルトは、本書の刊行当時(1835年)、長崎を追放されてヨーロッパに帰国後、主著『日本』の分冊刊行をすでに開始しており、俊英の日本研究者として注目を集めていました。彼がまだ長崎に滞在していた時に、フランスアジア協会の機関紙 『アジア研究雑誌(Journal Asiatique)』に送った「日本人(日本語)の起源に関して論じた重要な覚書(mémoire important, oú il discutait l'origine des Japonais)」が、パラヴェイの議論を裏付けるとして参照されています。この「覚書」がシーボルトのどの論文を指しているのか明示されていませんが、おそらく1824年11月に送付されたとされる「日本人(日本語)の起源に関する論文 (Verhandeling over de afkomst der Japaners. )」のことではないかと推察されます。シーボルトが長崎滞在中に送ったこの論文は、1832年にバタヴィア芸術科学協会雑誌(Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap van Kunsten em Wetenshapen)第13号にオランダ語で掲載されていますが、本書によると、『アジア協会雑誌』にもドイツ語で掲載されていたようです(店主自身は未確認)。

 パラヴェイはこの二人の碩学を参照しつつ、自身の議論を展開しており、ムイスカ人と日本人が用いている言語の類似性(文字の形態的、音的一致が見られる)だけでなく、暦などの文化の基盤となる習慣においても類似性を確認することができると主張しています。本文中には、ムイスカ人の言葉と、日本人の言葉の対照表や、文字(漢字)の対照表も掲載されており、両者が同じ系統にある言語であることを説明し、アメリカ大陸の文化や言語はアジアから伝播したものであるという、彼の主張を展開しています。

 また、冒頭に掲載されている「日本の神々の図(DESSIN DE DIVINITE JAPONAISE)」と題された口絵は、当時最新の日本研究書であったフィッセル (Johannes Frederik van Overmeer Fisscher, 1800 - 1848)の『日本風俗備考)Bidrage tot de kennis van het japansche rijk. 1833)』からとったものであることが明記されており、本書が最新の日本研究と多くの先人の研究成果に基づいて書かれていることを強調しています。

 本書は、19世紀にヨーロッパの世界観が、空間的、時間的、そして自らのアイデンティティと密接に関わる言語的な側面で大きな転換期を迎えつつあった時期に書かれた、日本論として大変興味深いものです。「比較言語学」の隆盛は、やがて「国語」と「国民」の発見へとつながっていったとされており、近現代世界を規定する国民国家を中心とした世界観が形成されていった時期でもあります。そうした時期に、旧来の聖書に基づくカソリック的な普遍史に基づく世界観と、文化人類学的な実証的考察とが交差する論考において、日本語とその文化が正面から取り上げられており、そして、そこにフンボルト、シーボルトといった碩学二人の成果が参照されているという点において、本書は大変重要な研究資料と言えるものです。

30ページあまりの小冊子ゆえに現存数は少ないと思われる。
口絵とタイトルページ。当時最新の日本研究書であったフィッセル (Johannes Frederik van Overmeer Fisscher, 1800 - 1848)の『日本風俗備考)Bidrage tot de kennis van het japansche rijk. 1833)』からとったものであることが明記されている
本文冒頭箇所。
ムイスカ人の言葉と、日本人の言葉の対照表。
ムイスカ人の文字と、日本人の文字(漢字)との対照表。フンボルトや、当時の中国語研究における権威であったモリソン(Robert Morrison, 1782 - 1834)の先行文献を用いている。