カテゴリ一覧を見る
Categories
明治2 (1869) 年 東京刊
<AB2020189>
Sold
上下2冊(揃い)15.0 cm x 23.2 cm, 上巻:[1], 4, 4, 34(24,25の順序が逆に綴じられている)丁/ 下巻:38, 4丁, 題箋あり。上巻ノド付近に虫食い穴あり。
Information
本書は、「万国公法」の実際的運用、すなわち外交官についての具体的な規定を簡潔に説明したガイドブックを、福地源一郎が箕作麟祥と共に翻訳したとされるものです。その原著となった、マルテンス(Karl von Martens, 1790 - 1863)の『外交案内』(Martens, Le Barn Charles de. Guide diplomatique. 2 vols. Leipzig, 1832.)は、当時欧米で最も権威と影響力のあった外交実務手引書として広く読まれていたものです。幕末から明治にかけて、当時の欧米諸国家間の規範と考えられた万国公法の重要性が日本国内で強く認識されるようになる一方、「万国公法」の枠組みに基づいた具体的な外交実務に関する基本事項を理解することが喫緊の課題であった当時の日本において、待望の書物であったのではないかと思われます。 日本では1856年以降、各国の外交使節、ならびに領事館を接受するようになり(日本自身が常駐の外交使節を派遣するようになるのは1870年以降)ますが、こうした各国外交官、領事との交渉に際しては、「万国公法」と呼ばれた国際法の基本的な枠組みの理解を前提として、当該外交官、領事の具体的な権限や、階級、規定、儀典のあり方といった実務的知識の習得が不可欠でした。欧米諸国間で外交官の階級についての統一規定が定まる契機となったのは、1815年ウィーン会議と1818年のエクス・ラ・シャペル会議とされており、これらの会議において外交使節の階級と席次が次のように初めて規定されました(これらの点については、川崎晴朗『幕末の駐日外交官・領事官』雄松堂出版、1988年参照)。 ①特命全権大使 英:Ambassador Extraordinary and Plenipotentiary 仏:Ambassadeur extraordinaire et plénipotentiaire 蘭:Buitengewoon en Gevolmachtigd Ambassadeur ②特命全権公使 英:Envoy Extraordinary and Minister Plenipotentiary 仏:Envoyé extraordinaire et Ministre plénipotentiaire 蘭:Buitengewoon Gezant en Gevolmachtigd Minister ③弁理公使(駐在公使) 英:Minister Resident 仏:Ministre résident ④代理公使 英・仏:Chargé d’affaires 独:Geschäftsträger 蘭:Zaakgelastigde 幕末から明治初期にかけて日本に派遣されたのは、②〜④が中心で、また、総領事兼外交事務官(Cousul-General and Diplomatic Aent)というように、外交使節と領事を兼任することも多かったようです。領事制度も非常に古い歴史を持ち、その起源は外交使節よりも古いとさえ言われていますが、各国間の条約において個別に規定されることが多く、国際関係において統一した規定は戦前には存在していません(1963年のウィーン領事関係会議において初めて法典化される)。派遣国から交付された委任状を携えた領事は、接受国において認可状が交付されることでその承認を受けることになりますが、ただし、当該国の駐在商人が名誉領事官として任命されることもありました。 こうした欧米諸国間で取り決められていた外交使節に関する実務規定を、わかりやすく簡潔に説明する書物として当時広く読まれていたのが、本書の底本となったマルテンスによる『外交案内』(Guide diplomatique)です。マルテンスによる『外交案内』は、1822年の初版刊行以降、定期的に増補改定が繰り返され、またマルテンス没後も、様々な注釈が付された版が刊行され続けており、当時の欧米諸国間における標準的なテキストとして読み継がれていました。国際法の理念や歴史、法論といったマクロ的視点に主眼が置かれた「万国公法」系の書物とは異なり、マルテンス『外交案内』は、より具体的な外国使節の接受や派遣、使節の階層、規約などといった、実践的な内容に主軸が置かれており、当時の日本で切望された書物だったのではないかと思われます。 福地源一郎訳として本書が刊行されたのは、明治に入った1869年のことですが、本書序文によりますと、驚くべきことに既に幕末において幕府要人にこの書物は見出されていたようで1867年のパリ万博出席のための幕府随行員であった杉浦譲がパリでマルテンスの原著を見出し、すぐさま箕作麟祥に翻訳を依頼し、その翻訳は『交際規範』と題する2巻本として帰国前に完成していたということです。ところが、この訳稿は帰国後の政変の混乱によって公刊されずに放置されることになってしまいました。杉浦は維新後もこの訳稿が多くの人々にとって必要とされていることを痛感していたようで、何とかこれを完成させて刊行したいと願っていたところ、ある日福地を訪ねた際に、福地が箕作の翻訳を知らずに、別個に翻訳作業を行なっていることを知り、かつての箕作麟祥による訳稿を福地に伝え、是非とも訳書を刊行するように強く勧め、本書が公刊されることになりました。このように福地は、序文で本書出版の経緯を詳細に紹介しています。杉浦が、幕末の時点でマルテンス『外交案内』の意義と重要性にいち早く気付き、その翻訳が箕作麟祥によってすぐに成し遂げてられていたことや、明治初期に同じく翻訳作業を進めていた福地の慧眼には驚かされますが、当時の欧米諸国間で権威ある標準テキストとして読まれていたマルテンス『外交案内』の翻訳は、当時の日本において喫緊の実際的課題に応える偉業であったといえるでしょう。 ところで、上述のように本書序文では、本書刊行に至る翻訳の経緯、底本についての詳しい解説が福地自身によってなされており、これまでの研究や解説においても、本書の背景事情については、概ねこの序文をもとに記述されています。ところが、この序文で福地が述べている底本についての情報については、店主の見る限り、裏付けをとることができない内容が多く、その底本がいかなるものであったのかについては、特定が非常に難しいように見受けられます。福地によると、箕作麟祥が翻訳の底本としたのは1864年版で、福地が定本としたのは、「英国の学士ホッドソン之を英文に訳し1867年ロンドンに刊行せしもの」ということですが、このいずれについても、それを裏付けられるような書誌事項を店主は見出すことができません。 まず、仏語版底本の特定についてですが、福地によると本書の第8篇第53章までを今回訳出し、残る第9篇から第12篇(第54章から89章)、ならびに補遺全2篇(全13章)については、既に翻訳が完成しているので、近日刊行される続編として公刊予定(実際には公刊されず)であるとしていますので、この訳本の構成とマルテンス『外交案内』原著各版の構成を比較することである程度、推測することができます。本書に収録されている訳文の構成と、実際には刊行されなかった未刊部分の予告構成を整理しますと、福地による翻訳は下記のような構成となっています。 福地訳(本書)の構成(全89章 / 補遺全2篇 / 全13章) 上巻 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇上(第23章〜第30章) 下巻 第5篇下(第31章〜第36章) 第6篇(第37章〜第46章) 第7篇(第47章〜第50章) 第8篇(第51章〜第53章) 未公刊 第9篇(第54章〜第65章)(→第8篇続きの間違い?) 第10篇(第66章〜第75章)→第9篇の間違い?) 第11篇(第76章〜第84章)→第10篇の間違い?) 第12篇(第85章〜第89章)→第11篇の間違い?) 補遺第1篇(第1章〜第4章)? 補遺第2篇(第5章〜第13章)? マルテンス『外交案内』は、上述のとおり、幾度も版が重ねられており、様々な版が存在していますが、福地が言うような「1864年版」というものは、店主の見る限り存在していません。試みに、初版から第5版として刊行された1866年版までの各版の構成をまとめてみますと、下記のようになります。 ①1822年フランス語原書の構成(全1巻 / 全10編) →タイトルが、Manuel diplomatique ou précis des droits et des fonctions des agents diplomatiques:…となって異なっている。 第1篇(第1章〜第14章) 第2篇(第15章〜 第7篇(〜第69章) 第8篇(第70章〜第82章) 第9篇(第83章〜第85章) 第10篇(第86章〜第87章) (補遺)(全10章) ②1832年フランス語原著(版表記なし)の構成(全11篇 / 全89章) 第1巻 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇(第23章〜第36章) 第6章(第37章〜第46章) 第7章(第47章〜第50章) 第8篇(第51章〜第65章) 第9篇(第66章〜第75章) 第10篇(第76章〜第84章) 第11篇(第85章〜第89章) 補遺(全5章) 関連文献目録 第2巻 全5節(関連法令・規則集) ③1838年フランス語原著(新版)の構成(全3部 / 全11篇 / 全89章) 第1巻 序文 第1部 第1部序論 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇(第23章〜第36章) 第6篇(第37章〜第46章) 第7篇(第47章〜第50章) 第8篇(第51章〜第65章) 第9篇(第66章〜第75章) 第10篇(第76章〜第84章) 第11篇(第85章〜第89章) 第2部 全5章 第3部 補遺 ④1851年フランス語原著(第4版)の構成(全12篇 / 全86章) 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇(第23章〜第36章) 第6篇(第37章〜第47章)*前版より1章多くなる 第7篇(第48章〜第51章)*上記による章番号が1つずれる 第8篇(第52章〜第58章)*以下章構成が大きく変わる 第9篇(第59章〜第66章) 第10篇(第67章〜第70章) 第11篇(第67章〜第70章) 第12篇(第71章〜第86章) 補遺(章立てなし) 関連文献目録 ⑤1854年フランス語原著(第4版)の構成(全12篇 / 全86章) 第1巻 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇(第23章〜第36章) 第6篇(第37章〜第47章) 第7篇(第48章〜第51章) 第8篇(第52章〜第58章) 第9篇(第59章〜第62章) 第10篇(第63章〜第66章) 第11篇(第67章〜第70章) 第12篇(第71章〜第86章) 補遺(章立てなし) 関連文献目録 ⑥1866年フランス語原著(第5版)の構成(全12篇 / 全78章) 第1巻 第1篇(第1章〜第3章) 第2篇(第4章〜第11章) 第3篇(第12章〜第17章) 第4篇(第18章〜第22章) 第5篇(第23章〜第26章)*以下章構成が大きく変わる 第6篇(第27章〜第37章) 第7篇(第38章〜第48章) 第8篇(第49章〜第55章) 第9篇(第56章〜第59章) 第10篇(第60章〜第63章) 第11篇(第64章〜第67章) 第12篇(第68章〜第78章) 福地訳の全89章構成という点に注目すると、この構成と一致するのは、1867年のパリで最新版として流通していたと思われる⑥や、、それより少し古い⑤や④ではなく、より古い1830年代の③や②であることがわかります。福地は第53章までを第8篇とし、第54章からを9篇としていますが、内容的に見ても連続しており、篇を分割する必然性がないことから、福地が誤って篇を分けて記載してしまったのではないかと思われます。そう考えると、福地訳文の構成は③や②と合致します。また、③は、②の構成をほぼそのままにして、新たに補巻として第3巻(第3部)を追加したものですので、実質的には②が元となっています。従って、箕作麟祥が翻訳の底本となったのは、②である1832年版だったのではないかと結論づけることができます。なぜ、1867年の渡仏時に最新版であった⑥を用いなかったのかについては疑問が残りますが、マルテンス『外交案内』は、どの版も非常によく売れたと思われますので、1867年当時に中古本として1832年版が安価で多く出回っていたということは十分に考えられます。 また、さらに謎が多いのが、福地が定本としたと述べている「英訳版」のことで、福地は、箕作が翻訳の原著としていたフランス語版ではなく、「英国の学士ホッドソン之を英文に訳し1867年ロンドンに刊行せし」英訳版を底本として翻訳を進めていた述べていますが、この英訳版の存在を店主は全く確認することができません。福地はこの英訳版について、その構成が箕作が定本としたフランス語版と全く同じであることや、注釈が豊富であるといった特徴を具体的に述べていることから、何らかの英訳版なるものが福地の手元にあったことは間違い無いように思われるのですが、マルテンス『外交案内』の英訳版の存在については、店主の知る限り、現代のいかなる書誌情報においてもその所蔵機関はおろか、記録を確認することすらできませんでした。国会図書館をはじめとした書誌情報(「ホッドソン英訳」と記載)や、ごく最近に至るまでの和洋ほとんどの研究や解説が、福地序文の記述をそのまま採用し、あたかも「ホッドソンの英訳書」が存在するかの如く記述していますが、しかしながら、実際には誰もこの英訳版を確認していないものと思われ、「ホッドソン」の綴りすら定かではありません。この点は、本書に関する解明すべき大きな謎と言うことができるでしょう。 このように本書は、訳書底本の情報について福地自身が具体的に語っているにもかかわらず、実際に検証を進めていくと多くの謎が出てくるという不思議な書物ですが、それはともあれ、欧米諸国との外交を円滑に進めていくという喫緊の課題を有していた明治初頭の日本において、本書の意義は『万国公法』諸版の出版と並んで大きな意義があったので花いかと思われます。『万国公法』諸版の出版とその影響については多くの研究が盛んになされている一方で、本書の具体的な内容や影響について触れた研究は殆どないように見受けられますが、福地が本書刊行前年にロシアの外交規定を翻訳したという『外国事務』と本書の関係、また後年1874年にフランス日本公使館が、独自の「外交案内」として英文で刊行したDiplomatic guideとの関係も含めて、幕末から明治初期にかけての日本における外交実務受容史の観点から解明すべき点が多い書物と言えるでしょう。 なお、本書は、パリ万博に参加し、滞在中に石版印刷技術を習得した清水卯三郎が携えて帰国した印刷機とインクを使用して、福地自筆の巻頭題言が石版印刷で刷られており、日本の技術者自身による最初期の石版印刷作品、しかも清水による現存唯一とされる石版印刷物でもあることから、印刷史の観点からも貴重な書物としても知られています(この点については、河野実『描かれた明治ニッポン〜石版画[リトグラフ]の時代〜展図録』描かれた明治ニッポン展実行委員会、毎日新聞社、2002年参照)。