本図は、「欧米製日本図中、シーボルト日本図以前としては最大最詳図」(後述)と評される、長辺約1.7メートル、2枚合わせた短辺が約1.3メートルにもなる巨大な地図で、1811年にイギリスで刊行されたものです。製作者であるアロースミス(Aaron Arowsmith, 1750 - 1823)は、王室付きの地図製作者(ウェールズ公殿下の水路学者、Hydrographer to H.R.H. the Prince of Wales)で当時のイギリスのみならず、ヨーロッパを代表する地図製作者で、当時最新の情報を組み合わせて本図を完成させています。北太平洋海域でのラッコの毛皮貿易の発展と、イギリス、ロシア、アメリカを中心とした同地域への積極的な進出を時代背景として作成された地図で、太平洋の東西の結節点として、日本が注目されるようになる時代を象徴する地図ということができます。
本図については、これまで1818年の改訂版との混同も伴いながら、様々な視点から言及がなされてきた著名な地図ですが、自身が本図と同じ1811年版を所蔵していた秋岡武次郎は、本図について次のように紹介しています。
「イギリスのアロースミスはコルネットの報告書、地図を用いて、1811年刊日本図(1816年追補版もある)【1818年の誤りか?、1816年版の存在を店主は確認できず:引用者注】Map of Japan, Kurile, &c. With the Adjacent coast of the Chinese Dominions………(銅板、それぞれ1795 x 684ミリのもの2枚より成る、著者蔵)の中にコルネット探検の結果を描入し、それぞれI. Dagelet, Argonaut I. と記す2島を描き、なおコルネットの航路線を図している。ちなみにアロースミス(1750 7/14-1823 4/23)は当時の著名な地図、地理可で1770年頃より地図の彫版に従い、王室附地図家であり、またイギリス王立地理学教会創立者の一人でもあった。本日本図は従前の日欧作諸図を総合し日本読みの国々名、都会名、欧人命名の岬、島名等を記しラペルーズ、コルネット、ブロートン、クルーゼンステルン【クルーゼンシュテルンの成果が反映されるのは1818年改訂版からで、本図1811年版にはまだ反映されていない:引用者注】の航海路(追補版には1816年の英船Alcest号のそれをも)を入れ、なかんづくブロートンの航路を詳記し其の通過日、観測した海深、磁針偏差も記載している。欧米製日本図中、シーボルト日本図以前としては最大再詳図であった。」
(秋岡武次郎『日本地図史』1955年、河出書房、185頁より)
上記で言及されているコルネットとは、イギリスの元海軍将校で、私貿易船アルゴノート号の船長として1791年に日本との通商を試みたコルネット(James Colnett, 1753 - 1806)のことです。アルゴノート号は、北太平洋のラッコの毛皮貿易に従事していた貿易船で、当初は清で毛皮の売却を試みたものの、貿易規制によりそれが叶わず、朝鮮、日本へと交易機会を求めて航海したことで知られています。コルネットはアルゴノート号の航海日誌を残しており、これは近年(1940年)になるまで公刊されませんでしたが、王室付き地図製作者であったアロースミスはこれを見る機会があったものと思われ、その記述に従ってアルゴノート号の航路を本図に記入しています。北太平洋地域で豊富に採取できるラッコの毛皮貿易は、蝦夷地や樺太、オホーツク沿岸といった北東アジア海域近辺地域で盛んに取引がなされていましたが、クック(James Cook, 1728 - 1779)の第三回航海において北太平洋沿岸地域を測量した際に入手した毛皮を中国市場で売却し大きな利益を上げたことが伝わると、にわかにイギリス商人の強い関心を呼ぶことになりました。コルネットはこのクックの第3回航海に海軍将校として参加していましたので、その経験が買われ、コルネット号船長として改めて貿易目的で同地を航海しました。また、この地域は、既に精力的に東方探検と進出を始めていたロシアにとっても非常に重要な地域でしたので、毛皮貿易の北米沿岸を拠点としたイギリスの参入は、同地域がイギリスとロシアの利害が交錯する地域となることを意味していました。それだけに、この地域のより正確な地図を作成、保持、活用することは両国にとって極めて重要な課題となり、本図のような巨大にして詳細な地図を生み出すことになったものと思われます。本図の副題に「中国とロシアの交易場」とわざわざ明記してあるのは、こうした背景事情にあった当時のイギリスの同地域への関心の所在を明確に表現したものです。
アロースミスは、より一般的な地図帳作成や、そこに収録されている日本図の製作者としても比較的よく知られていますが、巨大な2枚から本図は、そのような一般向けの地図とは明らかに異なる性格と目的を持った地図です。上述したようなイギリスの国家的利益にとっても重要視された地域を日本を中心にして描いた本図は、その大きさや印刷の精度、用いられている用紙の品質の高さに鑑みれば、当時の政財界の中枢にある人々への献呈のために特別に作成されたものと考えられます。地図帳に収録できるような通常のサイズではなく、極めて大型の地図として作成されたのは、壁掛けとして常時参照するという実用的な目的と、当時のヨーロッパ上流階層の室内には大型の地図が装飾用として掛けられることがよくありましたので、そうした美的観点も加味したものと考えられます。アロースミスは、王室付き地図製作者として、時代の要請に応えるべく、当時入手し得た最新の情報を組み合わせて本図を作成しており、コルネットの航海日誌だけでなく、ブロートン(William Robert Broughton, 1762 - 1821)、ラペルーズ(Jean François de Galaus, comte de La Pérouse, 1741 - 1788?)といった、18世紀末の日本近海をふくむ北太平洋地域への航海を果たし、豊富な航海情報を持ち帰った人物の記録を参照しています。また、アロースミスは、こうしたヨーロッパ人による最新情報だけでなく、当時日本で広く流布していた長久保赤水の「改正日本輿地路程全図」をも参照していたようで、「東北地方や佐渡の海岸の形などは『改正日本輿地路程全図』に類似」(小林茂ほか編『鎖国時代 海を渡った日本図』大阪大学出版会、2019年、61頁)しています。このように、東西の最新情報を駆使して作成された本図は、その圧倒的な大きさだけでなく、その正確さ、詳細さの点においても、極めて高い水準を有する地図となりました。
また、アロースミスは、王室付き地図製作者として、同じく大型の壁掛け世界図(Map of the world on a globular projection,…London, 1799ほか)(Char of the world on Mercator’s projection. London, 1808ほか)も制作していますが、この世界図は当時の日本にもたらされ、高橋景保の『北蝦考証』や馬場貞由『東北韃靼諸国図誌野作雑記訳説』といった、日本自身の蝦夷や樺太研究にも大きな影響を与えたことが知られています(船越昭生『北方図の歴史』講談社、1976年参照)。また、本図は、コルネットが「発見」した現在の鬱陵島を「アルゴノート島」として描き、同島を1787年に確認していたラペルーズが「ダジュレー島」と命名していた島を異なる島として描いていることから、現在の竹島論争に繋がる混乱を惹起した地図としても著名です。
なお、本図は上記でも触れられているように、1818年に改訂版が刊行されており、この改訂版では、初版刊行時には参照できなかったクルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern, 1770 - 1846)の航海記と地図の成果を反映させていて、樺太の輪郭などに大きな修正を施しています。この改訂版は、一見本図と同じようなカルトナージュでその輪郭下部に小さく「Additions to 1818」改訂表記があるだけですので、改訂版であることが認識されにくく、近年、日本でこの地図が言及される際もしばしば「1811年図」と混同して言及されていることがありますので、注意が必要です。ともあれ、このことからも、アロースミスが常に最新の情報に基づいてより正確な地図を作成しようとしていたことがうかがい知ることができます。
「アルゴノート号から始まる時代が、太平洋の西端と東端を密接に関連づけた時代であることを意味している」(横山伊徳『開国前夜の世界』2013年、吉川弘文館、10,11頁)と言われるように、本図は、北太平洋地域への欧米諸国の進出の幕開けとなった時代に、イギリスで王室付き地図製作者によって作成されたという、非常に興味深い時代背景を有する地図と言えます。