書籍目録

『異国の旅人:琉球、日本、仏陀山の滞在中、ある英国戦艦上において認められた8ヶ月間の日記(マリナー号航海日記)』

ハローラン

『異国の旅人:琉球、日本、仏陀山の滞在中、ある英国戦艦上において認められた8ヶ月間の日記(マリナー号航海日記)』

1856年 ロンドン刊

Halloran, Alfred Laurence.

WAE YANG JIN. EIGHT MONTHS7 JOURNAL KEPT ON BOARD ONE OF HER MAJESTY’S SLOOPS OF WAR DURING VISITS TO LOOCHOO, JAPAN, AND POOTOO.

London, Longman, Brown, Green, Longmans, & Roberts, 1856. <AB2020112>

Sold

8vo (12.2 cm x 19.4 cm), Front., pp.[i(Title.)-iii], iv, v, 1 leaf (contents & list of illustrations), pp.[1], 2-126, Plates: [3], 1 leaf, pp.1-24 (advertisements), Original blue embossed cloth.
製本に緩みがあり、表紙と本体の綴じが外れかかっている状態。一部に旧蔵者による書き込みあり。

Information

浦賀、下田を測量した英艦マリナー号乗艦士官によるユニークな日本論を収録

 本書は、イギリス海軍の軍艦マリーナ号(HMS Mariner、同名艦船が複数存在するが1846年に建造された二代目)に乗船していた海軍中佐(Master Royal Navy)であるハローラン(Alfred Laurence Halloran)が、1849年3月から10月にかけて上海を中心とした中国沿岸地域と、琉球、そして日本を訪れた際の記録をまとめたものです。マリーナ号は、下田や浦賀に訪れて測量活動を行なったことが知られており、ペリー来航以前に日本沿岸を頻繁に訪れるようになっていた欧米船の中でも重要な軍艦とされていますが、本書は、マリーナ号日本来航時の記録を、実際に乗船していた海軍士官がまとめた資料であることから、非常に重要な学術的価値を有する書物といえます。
 序文で著者が述べているように、本書は著者が航海時につけていた日記をもとに書かれたもので、当初から刊行を目的としたものではなかったようです。とはいえ、本書の内容は、後年の増補、訂正、編纂を経たこともあって、コンパクトな分量ながらも非常に充実したものになっています。日本や琉球、中国に関する当時読まれていた関連文献をある程度念頭において参照にしつつも、著者自身の経験に基づいた考察が中心となっており、日記がベースになっている作品ならではの、生き生きとした筆致が本書特有の魅力となっています。本書は、全7章で構成されていて、1849年3月から1849年10月までのおよそ8ヶ月間の出来事に焦点を当てて記されています。日本についての記述を中心に各章の記述を整理しますと、下記のようになります

第1章
1849年2月:上海

第2章
1849年3月:琉球滞在の記録が中心。1846年から1854年まで琉球で伝道活動に従事し、後年ペリー艦隊とともにアメリカに向けて出国した宣教師ベッテルハイム(Bernard Jean Bettelheim, 1811 - 1870)を交渉役とした琉球王国の高官との接触や、琉球の人々、自然などの記述が中心。


第3章
1849年3月:上海に帰還

第4章
1849年5月:寧波

第5章
1849年5月、6月:日本来航と測量活動についての記述 
 1837年漂流民返還のために日本に来航したモリソン号にも乗船していた音吉(Ottokichi, or the Happy Sound) 伊豆岬(Cape Yzou)を経て相模湾(Cape Segami)に5月29日朝に到着。日本船と遭遇し、役人を名乗る二人を艦上に迎える。役人は艦上のあらゆるものを観察して書き留め、これ以上湾内に進まないよう警告するも、マリナー号は役人を艦上に乗せたまま浦賀水道にへ入り、浦賀近くで停泊。武装した日本の船舶が警戒のためやってきたため、マリナー号も武装準備を整え警戒態勢を取る。
 5月30日(テキストでは誤って29日となっているが、水曜日とあるので30日が正しいと思われる)朝6時、日本が用意した薪と水を積載した50隻のボートがマリーナ号の周りに寄せられていることを発見。艦長が日本語で書かれた名刺を幕府高官に届けるよう役人に差し出すが、役人からは補給物資の支援が目的であり、外国人との交渉は法に背く好意であるためできないと拒絶される。役人同行の下、苦情と警告を受けながらも、日没まで測量を行う。マリーナ号に戻ってから役人は、自分が切腹あるいは打首になるのは間違いないと悲嘆に暮れるが、ブランデーを飲んでいい気分になるとすっかりその懸念を忘れたように見えた。
 31日朝6時、いく人かの役人がマリーナ号を訪れ、直ちに立ち去るように強く求めるも、風向きが思わしくなかったため昼前まで停泊を余儀なくされる。11時30分にようやく錨を上げ出航するも、前日に測量できなかった江戸湾周辺の測量を行ったため再び役人が懸念を伝える。
 翌6月1日も測量を続け、相模岬(剣崎)(Cape Sigami)と須崎岬(Cape Sousaki)間の測量を行い、経度測定のため大島(volcanic island Illa Vrais)に上陸するも天候不良のため測定できず。住民とも遭遇し紫陽花を発見する。大島を離れ、音吉の指示に沿って、下田湾(Simodi Bay)へと向かう。これまで見たことがないほど風光明媚な下田湾に入り、上陸するも直ちに役人がやってきて、戻るよう強く求められるが、魚を撮るために網を投げていると、役人がそれに関心を持って楽しんだとある。
 6月2日は日曜日であったが、時間が限られていたため1日かけて測量作業に従事する。
 6月3日、測量作業に必要な約40地点に上陸しながら作業を進める。役人は最初はひどく警戒していたが、民家に近づく気配がないことを悟ると黙認するようになる。4日、5日も測量作業を続ける。
 6月6日、朝、複数の役人が艦上にやってきて、速やかに退出するよう要求するが風向きと天候が悪く、停泊を続ける。
 6月7日、早朝5時半に錨を上げ、日本が用意した56艘のボートに曳航されて下田湾を出る(図版あり)。
 6月23日:黒潮に逆流するため16日かけてようやく種子島に到着

第6章
1849年6月
30日:上海に帰還。著者による日本論が展開されている。
 ゴロウニンの著作で述べられていることと符号する情報を日本の通訳者を通じて得ることができたとする。日本は二人の皇帝(two emperours)によって統治されていることをはじめとして日本の統治機構についての解説等。たとえば、第一皇帝は、宗教上の皇帝である帝(Mikaddo)で、日本の精神上の首都(spiritual capital)である京(Miako)に住んでいて政治にはほとんど関与しないが、外国勢力によって条約が提案された場合や、戦争が開始されそうな場合には関与し、第二皇帝で、世俗上の皇帝である将軍(Segoun)は、現在の首都である江戸(Jeddo, or Yeddo)に居城を有する、などといった解説がなされている。将軍を頂点とした統治機構は、著者の関心の高かったと思われる日本の軍備、防衛状況に力点が置かれて、著者自身の観察に基づく考察が展開されている。
 また、日本は山が多く豊富な木材をはじめとして、多くの鉱物資源や優れた産品を有することも述べており、日本の人々については、個々人は非常に公正で顔つきも好ましく、外国人に対してすこぶる親切であることは特筆すべきことであるとしている。著者が実際に接した日本の役人の様子を具体的に述べながら、端的に言って日本の人々は親切な心持ちで礼儀正しい人々であろうと結論づけている。
 日本の宗教については、ほとんど情報を得ることができなかったとしながらも、中国とよく似た寺院が多くあることに鑑みると、同様の偶像を崇拝しているのであろうとしている。著者が日本の役人と接した経験からすると、彼らは、神性と人間性を兼ね備える存在と考えられている、精神上の皇帝(天皇のことか)に対して一定の敬意を払っており、両者の関係は、いわばローマン・カソリックが教皇と信者との関係のようなものであろうという見解を述べている。
 著者が得ることができた情報から結論づけると、日本の一般の人々はイギリスとの無制限の交易を開くことを望んでいるようだが、少数の家系の者に支配されている当局の猜疑心と数え切れないほどのスパイの存在が、人々がそのような希望を表明することを妨げているとする。著者は、イギリスと日本の交易の将来の見通しについては、希望が持てるものであることを確信しているようである。

第7章
1849年7月から8月26日
上海周辺
1849年9月
仏陀山(Pootoo island)

第8章
1849年9月23日:仏陀山
1849年10月から1月:マラリアの治療とと療養のため香港の病院に入院。その後イギリスに向けて帰国。

 第5章の日本来航時の記録では、役人とのやり取りや、著者が観察した出来事が生き生きとした筆致で記されており、その内容の重要性もさることながら、読み物としても楽しめる大変優れたものです。また、第6章で展開されている著者のユニークな日本論は、先行文献を参照しながらも、基本的には著者が実際に経験したり観察したことに基づいて展開されているだけあって、非常に具体的で魅力あふれる内容となっています。第6章の記述は、著者が来日当時にまとめた記録だけでなく、帰国後にもたらされた日本情報もある程度反映されているようにも思われますが、この辺りの検証も含めて、非常に興味深い独自の「日本論」ということができるでしょう。また、日本の通貨や帆船など、テキスト中に挿入されている図版も、著者自身のスケッチに基づいているものと思われ、実際に日本を訪れた人物が提供した日本の視覚情報としても重要なものと思われます。

 本書が刊行されたのは1856年と、マリーナ号来日時からかなり時間が経ってしまっていたせいもあってか、現存する部数はかなり少ないようで、その重要性の割には、具体的な内容があまり知られていない書物のようです。本書は、八つ折り本で130ページ弱の小本ではありますが、ペリー来航以前の日本情報として優れた内容を備えた書物として、一層の研究がなされるべき日本関係欧文資料と言えそうです。

口絵(上海近郊の仏塔とある)とタイトルページ。刊行されたのは1856年だが、ペリー来航以前の1849年の来日時の出来事が記されており、開港以前の実見に基づく日本関係欧文資料として興味深い。
目次。
1849年3月の琉球訪問時の出来事を記した第2章。すでに琉球に滞在して活動していた宣教師ベッテルハイムを交渉役としたようである。
1849年5月、6月の日本来航と測量活動について記述した第5章冒頭箇所。 
日本船と中国船の比較を試みるなど、著者の視点は常にユニークである。スケッチも著者自身によるものか。
役人から渡された日本の通貨、形状、材質、記されている言葉、価値などについての考察が展開されている。
役人から幾度も早期の退出を促されても測量を続けていたマリーナ号は、6月7日、早朝5時半に錨を上げ、日本が用意した56艘のボートに曳航されて下田湾を出ることになった。その時の様子を描いたスケッチが上掲。
第6章は著者の経験に基づく独自の日本論が展開されていて、非常に面白い。
画像ではわかりにくいが、空押しによる人物像の装飾が施されている。
製本に緩みがあり、表紙と本体の綴じが外れかかっている状態だが、全体としての程度は良好と言える。