本書は、仙台藩主伊達政宗が1613(慶長18)年にヨーロッパに派遣した、いわゆる「慶長遣欧使節」の実現と遂行に最も深く関与したフランシスコ会士ソテロ(Luis Sotelo, 1574 - 1624)によって、再入国後に捕らえられた大村の牢獄から処刑直前の1624年1月20日付で、教皇に宛てて出された書簡の第2版です。本書初版は、『日本文典』(Ars grammaticae Iaponica linguae. 1632)や『懺悔録』(Niffon no Cotõbani Yô Confession. 1632)の著者としても著名なドミニコ会士コリャード(Diego de Collado, 1589? - 1641)によって1628年にマドリッドで刊行されていますが、第2版である本書は、フェルディナンド2世の顧問官でもあった著作家ショッぺ(Caspar Schoppe, 1576 - 1649)によって1634年に刊行されています。ショッぺによる注釈と、初版になかった付録「イエズス会における修道生活の規律の刷新の原因と方法の手引き」が新たに追加されていることが特徴で、これらは三十年戦争が混迷を深める中で、初版とは異なる文脈で第2版が刊行されていることを物語っています。また、本書はこのソテロ書簡だけでなく、主に三十年戦争と、それに関連したカソリックとプロテスタント間、ないしはカソリック各修道会間での争いについて扱った同時代の他の7作品が合冊されており、ソテロ書簡と慶長遣欧使節の評価をめぐる論争が、ヨーロッパを未曾有の混乱に陥れた三十年戦争における複雑な聖俗の利害対立とも密接に関わっていたことを示す大変興味深い書物となっています。
慶長遣欧使節実現を主導したソテロは、一行と共に日本に戻ることができず、ようやく日本に再入国して程なくして捕らえられ、1624年、大村で火刑に処せられ殉教しました。彼が処刑直前の1624年1月20日付で教皇に宛てて発した報告書簡は、コリャードの手に渡り、彼によって1628年に刊行されましたが、多くの論争を引き起こしたことで知られています。この論争は、慶長遣欧使節の評価そのものをめぐる論争とも関連する、イエズス会とそれ以外の各修道会との対立、ならびに、それと絡み合った世俗勢力の複雑な利害対立との中で生じた論争でした。ソテロ書簡はイエズス会の日本における布教を厳しく批判した内容であったことから、本国で複雑な利害対立と接続されて、各方面から様々な反応を呼ぶことになりました。イエズス会はこの書簡そのものが偽作である、あるいは誤りに満ちていると批判し、フランシスコ会をはじめとした各修道会はイエズス会による日本布教独占の弊害が改めて裏付けられたとして、この書を高く評価してイエズス会に非難を浴びせました。このように、ソテロ書簡は、その内容が興味深いものであることに加え、ヨーロッパの複雑な利害関係と日本の布教活動をめぐる論争とが接続された「論争の書」であることにその特徴があると言えます。
本書は、初版が刊行されてからしばらくたった1634年にフランクフルトと推定される地で刊行されたものですが、初版と同じく「論争の書」として、しかしながら異なる文脈において刊行された第2版というべきものです。この第2版については、その出版背景と特徴について、蝶野立彦「対抗宗教改革期及び三十年戦争期のドイツにおける日本宣教情報の受容と解釈-1580年代〜1630年代の《イエズス会日本書翰・年報》《天正遣欧使節記録》《慶長遣欧使節記録》の出版とその歴史的背景》」(『明治学院大学教養教育センター紀要:カルチュール』第13巻第1号、2019年所収)において、詳しく論じられており、本書を理解する上で大変参考になります。同論文では、本書は下記のように紹介されています。
「そしてそれらの出版物(1590年代末から17世紀前半にイエズス会以外の諸修道会によって刊行された日本宣教を主題とした出版物:引用者注)のなかでも、《出版の経緯》という観点から見て特異な位置を占めているのは、神聖ローマ帝国フェルディナント2世の顧問官カスパール・ショッぺが1634年に印刷に付した、スペイン出身のフランシスコ会士ルイス・ソテロの『日本の教会の状況に関する報告』である。(中略)処刑に先立つ1624年1月20日にソテロは大村の牢獄から教皇に宛てて『報告』を認めた。この『報告』は1620年代後半にマドリッドで印刷に付され、その真贋を巡ってはローマで議論が湧き起こった。その『報告』を、1634年にショッぺは自らの判断で−独自の編集を施したかたちで−フランクフルト・アム・マインにおいて再び出版したのである。1620年代末〜1630年代のドイツでは、三十年戦争(1618年〜1648年)の最中に皇帝がプロテスタント諸侯・諸都市に返還を要求した旧修道院財産の取り扱いをめぐって一部のイエズス会士とその他の修道会(ベネディクト会やシトー会など)の関係者の間に深刻な対立−「修道院論争」と呼ばれる–が生じた。ショッぺは、ベネディクト会やシトー会の側に与するかたちでこの論争に加わり、ドイツのイエズス会士を批判する文書を相次いで刊行した。1634年のソテロ『報告』の出版は、そうしたイエズス会士に対するショッぺの論争の一環をなすものだった。」
(同論文79, 80頁より)
つまり、本書を編纂したショッぺは、三十年戦争の最中に生じた「修道院論争」において、イエズス会に強力な批判を浴びせるために本書の再版を行ったことが分かります。日本における布教状況を読者に知らしめるため、というよりも、その出版を通じてイエズス会を攻撃することに最初から主眼が置かれていることから、コリャードによる初版以上に論争的な性格が増していると言えます。ショッぺが本書のために欄外に追加した自身の注釈には、その意図がはっきりと示されているようで、前掲論文では次のように解説されています。
「ソテロの報告文に付されたショッぺの『欄外注』を手がかりに『報告文の内容』を辿ってゆくと、ショッぺがソテロの報告文をどのように修道院論争の文脈に接合しようとしたのかが仄見えてくる。(中略)ソテロの報告文は、2つのパートに分かれている。前半部分では、ソテロが慶長遣欧使節の一人として1615年にローマで教皇に謁見し、教皇によって奥州王国の司教に任命された後、1622年に日本に再入国して奉行に捕らえられ、投獄されるまでの経緯が記述されており、後半部分では『1620年代前半の日本の教会の現状』に関して独自の視点からの報告がなされている。その後半部分でのソテロの報告の基調をなしているのは、『日本での宣教の権利』をめぐってイエズス会士とその他の諸修道会(フランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティヌス会など)の修道士間に深刻な対立が生じている、という現状認識であり、『他の諸修道会の修道士が日本での宣教活動に参入すること』を許さないイエズス会士たちの振る舞いについての苛烈な告発である。
こうしたソテロの記述に、ショッぺは、『多くの[宣教の]必要性にもかかわらず、[イエズス会士]の管轄区域内で宣教を行うことを妨害するイエズス会士たちについての訴え』という欄外注を付している。(中略)つまり、ソテロの報告文で描き出された、1620年代の日本における『イエズス会士とその他の修道会の修道士との間の確執』を。ショッぺは、1630年代のドイツにおける『修道院論争』と『イエズス会士による独占状態』のいわば《前駆現象》として、同時代のドイツの読者たちに提示したのである。」
(前掲論文83, 84頁より)
こうした自身の注釈に加えて、本書後半には初版になかった付録が新たに設けられていますが、これも注釈と同じくイエズス会を批判するために付け加えられたものです。前掲論文で、「この印刷物には、ソテロの報告とともに、ユニペルス・デ・アンコナ(ショッぺの偽名)の手になる『イエズス会の教育に関する所見(Consulatio)』が収録されている」(前掲論文89頁、脚注70より)と解説されているように、偽名を用いてショッぺがイエズス会の規律をめぐる問題を批判的に論じた内容となっています。
こうした論争的な性格を持つ本書ですが、さらに初版と大きく異なっている点として、表題に「ウルバヌス8世宛」と教皇名を明記した点が挙げられます。折しもソテロによって書簡が認められるちょうど数ヶ月前、教皇グレゴリウス15世が崩御し、代わって新教皇ウルバヌス8世が選出されることになりましたが、日本にあったソテロ自身はそのことを知る由もなく、従ってソテロ書簡初版は、具体的な教皇名を明記せず、ただ「教皇宛」として刊行されました。しかし、本書では、こうした経緯があったにもかかわらず、はっきりと「ウルバヌス8世宛書簡」とされていることは、注目に値します。というのも、このことは、編者ショッぺ(と彼の近しい関係者)にとって、ソテロ書簡は、匿名の教皇宛であるよりも、ウルバヌス8世宛とすることに積極的な意義を見出していたということを示していると思われるからです。
ウルバヌス8世は、ローマを代表する名家の一つで富裕な商人でもあったバルベリーニ家の出身で、ピサ大学で法学博士を受けた後、若くしてローマ教皇庁に入り、シクストゥス5世、クレメンス8世、パウルス5世、グレゴリウス15世の時代に側近として要職を歴任し、1623年にグレゴリウス15世の後を継いでウルバヌス8世となりました。学問と芸術に深い関心と理解を示す一方で有名なガリレオ裁判で1633年にガリレオに自説の撤回をさせたことでも知られています。また、聖人や福者の権威を再評価することにも非常に熱心だったと言われており、先に日本二十六聖人事件で犠牲となったフランシスコ会、イエズス会双方の関係者を相次いで「福者」として認定しています。ウルバヌス8世は、特にフランシスコ会にを重用したわけではありませんが、同会との関係が強かったものと思われ、この福者認定においてもフランシスコ会の方が先んじています。
教皇ウルバヌス8世の多彩な活動の中で、何よりも本書との関係で直接的に大きく影響力を与えたと考えられるのは、教皇が1633年に発した大勅書(Ex debito pastoralis officii)ではないかと思われます。この大勅書は、あらゆるカソリック修道会が、その渡航経由地を問わず、日本に布教のために渡航することが認められることを正式に保障したもので、日本布教のイエズス会による独占とそれ以外の修道会の参入をめぐる抗争に終止符を打った勅書として非常に名高いものです。当時日本では迫害と殉教事件の嵐が吹き荒れていることがヨーロッパにも伝わっており、既に日本での新たな布教活動を展開することは既に絶望的な状況になりつつありましたので、この大勅書によって日本への布教活動を他の修道会にも公式に認めたと言っても、各修道会が布教活動を実際に展開するようになる事態は考えにくい状況でした。従って、この大勅書の意図は、日本への布教活動をあらゆる修道会に認めることで活性化を図るというよりも、むしろ目下の三十年戦争の最中にあって修道院論争などで激化していた修道院間対立において、イエズス会の立場を象徴的に弱めることにあったのではないかと推察されます。その意味では、この大勅書は極めて「政治的」なものと言ってよいと考えられます。
ショッぺが本書において「ウルバヌス8世宛」とソテロ書簡の宛名をあえて明記したのは、ウルバヌス8世が、このようなイエズス会の日本布教のあり方を間接的に否定したともいえるこの大勅書を発した教皇であったということが念頭にあったのではないかと思われます。ソテロ書簡は本書刊行後も様々な書物(そのいずれもが主にイエズス会に否定的な立場をとる)に転載されていますが、その多くが本書に倣って「ウルバヌス8世宛」と教皇名を明記しているのも、こうしたことが背景にあるのではないかと考えられます。その意味では、ソテロ書簡の宛名が、匿名なのか、グレゴリウス15世なのか、ウルバヌス8世なのか、という問題は、単なる時系列上の客観的な問題というよりも、後年の当事者の立ち位置によって取るべき宛名が変わりうるという、政治的に非常に繊細な問題だったのではないでしょうか。
なお、本書には上述の通り、ソテロ書簡第2版だけでなく、ショッぺによる他の作品を含め、三十年戦争に関する同時代の7作品が合冊されており、ぞのいずれもが非常に興味深いもので、またソテロ初版第2版がどのような文脈で読まれたのかを示している点でも大変貴重なものばかりです。これらの中には、ソテロ書簡第2版と同じく、現在では入手が極めて困難な作品も含まれていることから、本書は三十年戦争をめぐる同時代の貴重な出版物集成としても大変重要な書物と言うことができるでしょう。
本書に収録されている作品は、下記の通りです。
①
De Vargas, Alphonse.
RELATIO Ad Reges & Principes Christianos DE STRATA GEMATIS ET SOphismatis Politicis Societatis Jesu ad Monarchiam orbis terrarium sibi consiciendam:…
[Roma], [Ex. Rev. Camerae Apostolicae) M. DC. XXXVI(1634).
4to
pp.[1(Title.)-3], 4-26, 28[i.e.27], 28-73, 94[i.e.74], 95[i.e.75], 76, 97[i.e.77], 78-111.
②
Schoppe, Caspar.
ASTROLOGIA ECCLESIASTICA, Hoc est, DISPV(U)TATIO DE CLARITATE ac multiplici virtute Stellarum in Ecclesiae firmamento sulgentium, idees, Ordinum Monasticorum….
Not placed, Ex Officina Sangeorgiana, M.DC.XXXIV.(1634).
4to
pp.[1(Title.), 2], 3-129, 310[i.e.130], 131-272, 271(NO DUPLICATE PAGES)-294, 4 leaves.
③(ソテロ書簡第2版)
Sotelo, Ludvico / Schoppe, Caspar.
FR. LV(U)DOVICI SOTELI MINORITAE Regii ad Apostolicam Sedem Legati & Regni Oxensis Apostoli ac designati Martyris.
AD V(U)RBANV(U)M VIII. PONT. MAX. De Ecclesiae Iaponicae statu Relatio, Imperatoris Augusti, Principum, Electorum, Omnium que sttuum Imperii cuiusque Ordinis lectione digna.
ACCESSIT Fr. JV(U)NIPERI DE ANCONA MINOritae Consultatio de causis & modis Religiosae disciplinae in Societe Iesu instaurandae, Ex Italico Lattinè conversa.
Not placed, M. DC. XXXIV.(1634)
4to
pp.[1(Title.), 2], 3-93, 1 leaf(Index).
④
Eubulus, Irenaeus (i.e. Corning, Hermann)
PRO PACE PERPETV(U)A PROTESTANTIBV(U)S DANDA Consultatio Catholica.
Frideburg(i.e. Helmstedt), Germanum Patientem (psuedo name), 1648.
4to
pp.[1(Title.), 2], 3-35.
⑤
RENOVATIO FOEDERIS TRIENNALIS, Coronae Galliae & Sueciae de novo bello merendó in Germania. Annexis Petitionibus Hasso-Castelianis exhibitis Monasterij 25. Aprilis, Anno 1647.
Not place, Not dated.
2 leaves.
⑥
Friedens=Schluß zwischen der Römischen Käyserlichen / Auch Aller=Christl. Könige. Mayst. Mayst. Mit der Römischen. Käys. Mayst. Special-Gnad und Freyheit; Auch Churfúrstl. Mäyntzischer Concession nicht nachzudrucken.
Frankfurt, Philipps Jacob Fischers, M. DC. XLVIII.(1648)
4to
pp.[1(Title.), 2, 3(Second Title.), 4], 5-8, 1-62, 1 leaf(blank).
⑦
Kurze Beschreibung des Schwedischen Friedensmahls / gehalten in Nürnberg den 25. Herbst=monats Anno 1649.
[Nürnberg], Jeremia Dümlera. [1649]
Title., 7 leaves, 1 folded chart, 1 folded plate.
⑧
Goldast, Melchior.
SENIOR Sive DE MAIORATV(U) LIBRI III….
Frankfurt, Curantibus Rulandiis, M. DC. XV.(1615)
4to
Title., 9 leaves, pp.1-35, 6[i.e.36], 37-366, [367, 368(blank)], [369(Title. other another work)], 370], 371-404.