本書は、エストニア出身のロシア海軍提督クルーゼンシュテルン(Ivan Fedorovich Kruzenshtern, 1770-1846)はによる1804年からのロシアによる初の世界周航を記録した航海記のイタリア語訳第2版です。クルーゼンシュテルンは世界周航に際して、貿易上の成果だけでなく、先行するイギリスのクック(James Cook, 1728-1779)や、フランスのラペルーズ(Jean Francois Lapérouse, 1741-1788)による航海を上回る学術的成果、地理学上の発見を目指し、入念に準備をして航海に臨み、天文学者や測量技術者を同乗させ、最新の計器類を搭載していました。この航海に同行して同じく『世界周航記』を著したラングスドルフ(Georg Heinrich von Langsdorff, 1774-1852)が残した記録が、紀行文として非常に優れているのに対して、クルーゼンシュテルンの航海記は多彩な学術的成果が盛り込まれている点に特徴があります。クルーゼンシュテルンの航海記において記された日本関係記事は、オランダ以外からもたらされた貴重な日本情報として、多くの読者の関心惹きつけたことが知られており、本書であるイタリア語訳第2版もその一つと言えるものです。
クルーゼンシュテルンは、アラスカで獲得した毛皮を中国で売却し、そこで購入した中国商品をヨーロッパで売却することで、ロシアが莫大な利益を得ることができるとして、ロシア政府にその航路開拓のための世界周航を提案しました。この提案が認められ、クルーゼンシュテルンが準備を進めていたところに、アラスカで利益をあげていた露米会社の政府側監督者であったレザーノフ(Nikolai Petrovich Rezanov, 1764-1807)による第二回遣日使節派遣が決まり、その特命全権大使にレザーノフが任命されます。これにより、クルーゼンシュテルンの世界周航は、同時に第二回遣日施設派遣としての任務を兼ねることになりました。この航海は関係者の間で様々な思惑が背後にあったため、クルーゼンシュテルンとレザーノフとの間でもしばしば対立が生じましたが、最終的に航海を成功させています。
クルーゼンシュテルンは、この時の航海記をまとめて、1810年から1812年にロシア語版とドイツ語版とを同時に刊行しました。クルーゼンシュテルンの航海記は大きな反響を呼び、英語、フランス語、オランダ語など各国語に翻訳されており、イタリア語訳初版も1818年に全3巻本として翻訳されています。本書は、1830年にイタリア語第2版として刊行されたもので、文庫本ほどの大きさの小さな書物で全7巻の構成となっており、持ち運びや読みやすさを重視したものではないかと思われます。
クルーゼンシュテルンの航海において最も重要とされていたのは、カムチャッカをはじめとしたサハリン、北海道(当時は蝦夷)近辺の北東アジアの海域の全容解明でした。この海域は17世紀から数多くのヨーロッパ人が航海を行ったものの、その全貌がいまだに明らかになっておらず、この海域のより正確な最新情報をもたらすことは、ロシアのみならずヨーロッパ全体にとっても強く望まれていたことでした。クルーゼンシュテルンよりも少し前に同海域を調査したラペルーズにるサハリン西岸を北上した航海において発見された宗谷海峡(ラペルーズ海峡)は、画期的な成果として大きな話題となっていましたが、サハリン東岸と北岸近辺は未知のままで、クルーゼンシュテルンはラペルーズを超えるような成果を目指して航海に臨みました。本書序文では、こうした歴史的経緯も踏まえて、彼がいかにしてこの航海に臨んだかが述べられています。
彼の航海は船体修理の為に立ち寄ったブラジル滞在を経て、太平洋を横断して日本へと向かう航路をとりますが、主に日本についての記述は第3巻と第4巻に集中的に見られます。そこではカムチャッカを経由して長崎へと向かう航程()、長崎での滞在とレザーノフによる交渉失敗、長崎湾内の描写、日本を発ってカムチャッカに向かう航路と周辺海域の調査、蝦夷北部のへの上陸と日本人との交流、アニワ湾(サハリン南端の中知床湾を指す)周辺の調査、アニワ湾からサハリン東岸沿いの航海と、流氷による断念とカムチャッカへの帰還と多くの紙幅を費やして日本のことについて言及しています。その際の記述もあくまで客観性を重視したもので、緯度経度といった地理学上の情報や、気候や天候、星座といった科学データが多く含まれており、日本との交渉について言及する際も、ヨーロッパ人と日本との交流の歴史を踏まえてた上で論じています。
カムチャッカに戻ったクルーゼンシュテルンは、その後サハリン東岸を再び北上し、ラペルーズと逆にサハリンを北端から西岸を南下する航路をとって、ラペルーズ海峡の存在を確かめ、海水の比重変化から、サハリンと大陸との間を分かつような海峡は存在し得ず、従ってサハリンは島ではなく半島であると誤って結論づけてしまいました。しかしながら、その過程で得た測量データに基づいて作成された日本北辺海域の地図は、それまでにない正確さを有しており、当該地域の地理学情報の進展に大きく貢献しました。また、クルーゼンシュテルンは、後にヨーロッパに帰国したシーボルトから、彼の持ち帰った同地を含む日本周辺地図について判断と助言を求められ、それらによって、自身が確定し得なかったサハリンと大陸との間に航行可能な水道があることを確証したことをシーボルトに興奮をもって伝えています。
クルーゼンシュテルンの航海記は、名著として原著やその翻訳版の研究が豊富になされていますが、イタリア語訳への言及はこれまであまりなされていないように見受けられます。本書のように、持ち運びが容易な文庫本サイズで刊行されたイタリア語訳は、クルーゼンシュテルンの航海記が各国語に翻訳されるだけの強い影響力を持っていたことに加え、原著刊行当初よりもより広範囲の階層の人々にも読まれていたことを示していると言えます。その点においても、これまであまり知られていなかったと思われる、このイタリア語訳第2版は興味深い書物と言えるでしょう。
なお、各巻の書誌情報の詳細は下記のとおりです。
Vol.1: pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-5], 6-206.
Vol.2: pp.[1(Half Title.)-3(Title.)-5], 6-192.
Vol.3: pp.[1(Half Title.)-3(Title.), 4], 5-192.
Vol.4: pp.[1(Half Title.)-3(Title.), 4], 5-192.
Vol.5: pp.[1(Half Title.)-3(Title.), 4], 5-191.
Vol.6: pp.[1(Half Title.)-3(Title.), 4], 5-191.
Vol.7: pp.[1(Half Title.)-3(Title.), 4], 5-166.