本書は、フランスの軍人、著作家であるダヴィティ(Pierre D’Avity, 1573 - 1635)による、17世紀初頭のヨーロッパを代表する「世界誌」です。ヨーロッパ諸国をはじめとして、日本を含むアジア諸国、アメリカ、アフリカを対象とした、当時急速に拡大しつつあった世界各地の情報を網羅的に主録した文献です。フランスにおける初期の日本情報源として、貴重な記事が収録されているだけでなく、ヨーロッパ人にとって当時知りうることのできた他の世界各地に関する記述と並んで掲載されていることから、当時の相対的な日本認識の様相を伝えている興味深い文献となっています。ダヴィティの『世界帝国誌』は、1613年の初版刊行直後から大変な人気を博したようで、増補改訂版が繰り返し出版され、他言語にも翻訳されていますが、本書は1625年にルーアンで刊行されたものです。このルーアン初版本は、本書の性質を理解する上で重要となる初版とほぼ同じを意匠に富んだタイトルページを採用し、構成も初版に準じていることから、後年の増補改訂版では把握が難しくなっている、刊行当時の姿を伝える貴重な版と言えるものです。
ダヴィティは、フランス名家の出身で、イエズス会の神学校で学び、詩作に秀でる傍らで軍人としても活躍しており、ヨーロッパ各地で要職を歴任しました。軍人としてのキャリアを重ねながら著作活動も継続して行っていて、そうしなた中で著された彼の代表作が本書にあたります。ダヴィティはフランスの地理や歴史を簡潔、且つ可能な限り網羅的に扱った著作を計画し、それと同時にヨーロッパ各国、そしてアジア、アメリカ、アフリカ諸国を同様に記述することを目論み、1,500ページ近くに及ぶ本書を書き上げました。副題が示しているように、各国地域の地理、人々の文化・風習、富(経済状況)、政治機構、王侯貴族の構成、軍事機構といった様々な角度から、当時ヨーロッパ人が知ることができた世界の情報を網羅的に収集、記述しています。
アジア、アフリカ、アメリカ、ヨーロッパを象徴した4人がルイ13世に跪いている様を最上部に描いた本書のタイトルページは、大航海時代が進むにつれて急速に発展したヨーロッパ人の世界観、しかもそれらがフランス王の下に服するのだという鮮烈な印象を見る者に与えています。このタイトルページは、後年になって刊行された増補改訂版では異なる意匠に変えられていたり、より簡素なものに変更されていることから、初版に準じた意匠を採っている本書のタイトルページは、本書の元来の性質と目的を端的に表象しているタイトルページとして、非常に重要と思われます。ちなみに、このタイトルページは、同じ構成を採りながら、ルイ13世の代わりに、イエズス会を象徴するIHSの文字を配した版(1614年サントメール版)や、チャールズ1世を描いた版(1615年英訳版)などがあるようです。
序文においてダヴィティは、本書の狙いや構成について詳細に論じています。ダヴィティは、人は、自身が生まれた地域、社会の価値観を最上のものとして捉えがちな傾向にあるが、異なる地域や社会の人々の暮らし、風習を学ぶことで、どちらが優れているかを判断することや、より良いあり方を考えることができるとして、より多くの人々のことを学ぶことがいかに重要であるかを強調しています。また、そうした学習は、単なる好奇心や物珍しさだけに基づくのではなく、学問的であることが重要であることも述べていて、ベーコン(Francis Bacon, 1561 - 1626)に代表される西洋科学の刷新にも通ずる、学問の方法論を展開しています。この序文を読む限り、ダヴィティは本書の執筆に際して、その構成や情報源について、科学的であることを強く意識すると同時に、本書が膨大な知識の単なる羅列や、娯楽目的の冒険奇譚の寄せ集めではなく、ある種の公益に資することを目的としていたことがうかがえます。
日本についての記述は、890頁から独自の章を設けて掲載されています。まず、日本の名称と地理構成についての解説から始まっており、マルコ・ポーロによって「ジパング(Zipangry)」と呼ばれてきたことや、海を挟んで中国の西方に位置する数多くの島々からなる国であることが説明されています。そのうち主要な島が3つあり、66の国々で構成されていること、第一の主要な島は、日本(Iapon)と呼ばれ、最大の都市である京(Meaco)と山口(Amagunce)があること、第二の主要な島は、下(Ximo、九州のこと)と呼ばれ、豊後(Bungo)、肥前(Figen)があること、第三の主要な島は、四国(Xicoum)と呼ばれる、などと、かなり具体的な解説がなされています。日本における主要地域は、京(Meaco)のある五畿内(Coquina)で、内裏(Dair)とよばれる王が住んでいること、しかし内裏の権力は他の諸侯によって長らく形骸化されており、近年では信長(Nubunanga)、彼の後を襲った羽柴(Faxiba)によって支配されていることなどが続いて説明されていて、地理的説明と同時に日本の歴史についても言及されています。
気候や風土については、日本は寒く、雪が降る地域が多いが、極めて健康的で暮らしやすい土地であるとして、9月に米が収穫されること、地域によっては5月に麦が収穫されることを述べ、鉱山資源については、マルコ・ポーロの時代から伝えられているように、金の産出量が膨大であることが紹介されています。また、森林資源にも富み、寺院や家屋の多くが豊富な木材によって建てられていること、畜産資源も豊富であるが、バターは食さないこと、ヨーロッパのようなオリーブ油はなく、油は鯨から作られることなどが記されています。日本には数多くの山々があるが、そのなかでも最大級の山が2つあり、そのうちの一つは雲にも到達する高度を誇り、富士の山(Figenoiama)と呼ばれることも紹介しています。
日本の人々については、(その意志や感情が)掴みにくく、狡猾であるが、機知に富み、優れた理解力や学習能力、記憶力を有していると述べています。また、日本では貧困であるが故に差別されることはなく、悪口をひどく嫌うこと、非常に勇敢で16歳になるまでに武術に長けるようになること、独自の髪型をしていること、非常に清潔でマットレス(畳のこと)の上に座り、2本のスティック(箸のこと)を巧みに操り食事をすることなどが述べられています。あらゆる苦痛に対する耐久力があり、名誉を非常に重んじること、一つの言語が用いられているが、その語は実に多彩で、多くの言語が用いられているかのように感じられること、茶(Chie)と呼ばれる美味しい飲み物を好むこと、アカデミアを板東(Banoum)と呼ばれる街に有しており(足利学校のこと)、そこでは坊主たち(Bouzes)が教鞭をとっていること、豊後にはイエズス会によってセミナリオ(神学校)が設置されていることなども記されています。こうした記述は、主にイエズス会士の著作家マッフェイによる『インド誌』あたりを情報源にしているように見受けられます。
国内外の交易が極めて盛んであることは、農産物や金の取引などを引き合いに出して説明されていて、軍事力が強大であることについては、羽柴(Faxiba)による中国征服の企て(文禄・慶長の役のこと)を引き合いに出して説明しています。また、統治機構についてはヨーロッパと大きく異なっていて、権威と命令に基づくものであること、政治状況の変遷が目まぐるしく、いかなる権力者であってもその支配の安定が約束されておらず、恒常的な戦争状態にあるといった説明がなされています。こうした状況にあって権力を掌握したのが、羽柴(Faxiba)で、彼はライバルとなる領主の力を削ぎ、民衆に苦役を課したり、武器の所持を禁ずることで、自身に抵抗しうる勢力を一掃することに成功したなどと説明されています。日本の階層制度については、殿(Tones)と呼ばれる君主階級、様々な宗派に分かれている坊主達(Bonzes)に代表される宗教者階級、続いて富裕社、貴族階級が、さらに職人階級が続き、労働者が最下級に置かれていると説明しています。また、あらゆる犯罪は死刑に処されるなどと日本の刑罰制度についても言及しています。
宗教事情については多くの紙幅を割いて解説されていて、坊主(Bonzes)と呼ばれる司祭を有し、その教えは11もの異なるセクトに分かれているが、皆それらは、神の存在と魂の不滅を否定する点で共通していると述べています。坊主は高貴な人々のみに教えを説き、一般の民衆のことなど放棄していること、数多くの大学を有し、中でも最も有名なものは日枝の山(Frenojama、比叡山のこと)という京(Meaco)の近くにあるもので、800年以上の昔から3800もの寺院があり名声を博していたが、京での内乱が勃発して以降は荒廃し、1551年(1571年の誤りか?)に信長(Nobunanga)によって破壊されたことなどが説明されています。日本の神々は、仏(Fotoques)と神(Cames)、阿弥陀(Amide)、釈迦(Xqaue)であることや、日本で信仰されている様々な悪魔の容態についても解説されています。また、こうした偶像崇拝のなかにあって、キリスト教の教えが広まっており、その信仰心はヨーロッパ人を上回っているとも述べられていて、簡単に日本におけるキリスト教の広まりに関する歴史にも言及していて、太閤様(Taicosama)による迫害に遭っても、その信仰心はなお真正なもので、日本各地で広がりを見せていることが解説されています。
こうした本書における日本関係記事は、簡潔ながらも実に多彩なもので、様々な角度から包括的に日本事情をヨーロッパの読者に伝えた書物として、特筆すべき内容を有しているものと思われます。日本関係記事の多くの情報源は、イエズス会氏達の報告書や、それにも続く歴史書であると思われますが、それらをダヴィティが自身で解釈して、より広い読者を対象としてた本書に収録したことは、ヨーロッパにおける日本理解の発展を知る上で大きな意義を有しているものと思われます。
「(前略)宣教師による日本報告はキリスト教会の「教化」を目的とした利用のみに留まっていたわけではなかった。17世紀においてイタリアの知識人もそれらの日本情報を受容し、自らの理論書に挿入していた。イエズス会の教育を受けていたイタリアの知識人ジョヴァンニ・ボテーロは1590年代にローマおよびヴェネチアで『世界誌』を刊行した。同書における日本関係記述は布教の側面には深入りせず、もっぱら日本の国制を研究の対象としている。フランスの文人ピエール・ダヴィティにより1613年に刊行された豪華なフォリオ判『世界帝国誌』所収の「日本王国誌」もイエズス会士の報告集を典拠に日本の政治・文化・社会についての概観を提供しており、その中には学識水準の高い内容も含まれている。『世界帝国誌』はその後も増補修正を重ね、1660年に7冊本として出版された。また、『世界帝国誌』の初版を底本としているオランダ語版『世界鏡』も1621年にアムステルダムで出版されている。」
(フレデリック・クレインス「1853年以前の日本関係欧文図書出版史」同編『国際日本文化研究センター所蔵日本関係欧文図書目録–1900年以前刊行分–第4巻(1853年以前)』臨川書店、2018年所収、viii-ix頁より)
「『日本帝国誌』の章は地理的な解説で始まり、次に、将軍による天皇からの主権簒奪の経緯についての説明があり、当時の日本の主権者として太閤(豊臣秀吉)を挙げている。この他に、日本の諸都市、日本人の性質や慣習、物産、軍事、行政、宗教についての概観的情報を提供している。ダヴィティはマルコ・ポーロ『東方見聞録』およびイエズス会士の報告集を典拠として利用した。この豪華なフォリオ判(オランダ語訳版のこと:引用者注)は当時の知識人の間で好んで読まれたはずであるが、現存本が少なく、その中に含まれる日本関係記述が与えた影響の形跡がその後の著作にほとんどみられないことから、その普及は限定的であり、日本の権威としてのリンスホーテン『東方案内記』の地位を揺るがすことはできなかったようである。」
(フレデリック・クレインス『17世紀のオランダ人が見た日本』臨川書店、2010年、77ページより)
なお、本書はページ付に乱丁が多く見られますが、内容に欠落はなく完備しています。詳細な書誌情報は下記のとおりです。
Title., 7 leaves, pp.1-294, 289[i.e.295], 296-308, 289[i.e.309], 310-353, 344[i.e.354], 355-426, 429[i.e.427], 428-465, 266[i.e.466], 267[i.e.467], 468-473, 473[i.e.474], 475-488, 499[i.e.489], 490-576, 578[i.e.577], 578-895, 796[i.e.896], 897-948, 994[i.e.949], 950-956, 955[i.e.957], 958-962, 663[i.e.963], 964-1038, 1019[i.e.1039], 1040-1074, 1073[I.e.1075], 1076-1099, 2000-2060[i.e,1100-1160], 1161, 1162, 1161[i.e.1163], 1164-1258, 1255[i.e.1259], 1260-1396, 1-75.