書籍目録

『ハルリス奉仕日本日記』

福地源一郎(訳) / ハリス / グリフィス / (渋沢栄一)

『ハルリス奉仕日本日記』

(福地の死後に古河合名会社の原稿用紙に筆写された写本の複製?) 書写、作成年不明(1901年就訳 / 成)

<AB2019184>

Sold

16.0 cm x 23.2 cm, 1 leaf(blank), 1 leaf(Title.), 1 leaf(English Title. & list of reference books), 111 numbered leaves(1-48, 48, 49-110), 1 leaf(text), 1 leaf(blank) , (written ? or blue printed on folded leaves), Original paper wrappers bound in Japanese style.
背表紙の装丁用紙の大部分が欠落。写本原本といよりもその複製本である可能性が高いが、さらなる調査を要する(詳細は解説参照)。

Information

 本書は、初代駐日アメリカ弁理公使で、日米修好通商条約の締結に尽力したハリス(Townsend Harris, 1804 - 1878)の日本滞在中の日記を元にして、御雇外国人、日本学者として著名なグリフィス (William Elliot Griffis, 1843 - 1928)が1895年に刊行した伝記(Townsend Harris: First American Envoy in Japan. 1895)を翻訳したものです。福地源一郎が、渋沢栄一のために翻訳したもので、その稿本を後年に筆写した写本が何らかの方法で複製されたものではないかと思われます。「遺稿」と記されていることから、写本原本は、福地源一郎の死後に書写されたものであることは間違いありませんが、正確な書写時期は不明です。渋沢栄一と浅からぬ関係があり、渋沢を中心とした若手経営者の勉強会、「竜門社」に関係者が出席していた古河合名会社の原稿用紙に記されていることから、福地や渋沢に近しい関係者によって作成されたものであることは間違いなさそうです。筆圧の痕跡が用紙に殆ど見られず、独特の青文字で記されていることから、筆写本そのものではなく、それを何らかの手段で複製した複製本の可能性が高いと思われます(いわゆる「青焼き」と呼ばれるジアゾ式印刷が日本で本格的に普及するのは戦後のことですが、用いられている原稿用紙のことを考えると、それよりもかなり以前に作成されている可能性が高そうです。明治に用いられていた複製方法として、紫色の染料メチルバイオレットを用いた「蒟蒻版」印刷、ガリ版印刷などが知られており、こうした方法による複製であることが考えられます。しかし、この点についてはさらなる調査が必要と思われます)。いずれにせよ、福地源一郎による原本は、現在その行方がわからなくなっているようで、また書籍として刊行されることもなかったようですので、この写本複製本は、その由来も含め非常に貴重なものと思われます。

 本書は、1901年7月6日に翻訳作業が開始され、8月25日に完成したことが冒頭に記されており、2ヶ月足らずという短期間の間に訳出されたことがわかります。グリフィス による原著は、全3部、345ページからなる著作であることに鑑みると、これは驚くべきことです。ただし、全訳ではなく、ハリスの来日前の活動を記した第1部をほとんどカットし、日本滞在中の日記で構成された第2部を中心として、離日後の活動を記した第3部もほとんど訳出していないようです。訳出された第2部についても、厳密な全訳ではなく、主要となる出来事を中心に訳出しており、抄訳、編訳といってよいかと思われます。このような訳出の仕方は、時間的制約によるところが大きかったのでしょうが、結果的に、福地自身が、どの記事を訳出すべきか、どの記述が重要であるとみなしているかを表現していることになりますので、その意味では全訳よりもかえって興味深いものです。

 福地が、この翻訳に取り組んだのは、渋沢栄一のある構想に基づく依頼が大きく関係していました。1901年8月25日に訳出を終えた福地の原稿は、間も無く渋沢の手に渡り、9月14日夜の「竜門社」の会合において一部が朗読されました。竜門社とは、渋沢栄一を慕う若者が自発的に始めた勉強会を起源とし、1886年に設立された団体のことで、活動規模を次第に拡大し、財界関係者が多く集う私的な会合を定期的に開催していました。竜門社は、こうした会合の報告も収録した『竜門雑誌』を定期刊行物として発行しており、この雑誌中に、本書の背景を読み解くヒントとなる記事をいくつも見出すことができます(『竜門雑誌』については、『渋沢栄一伝記資料』に収録されており、これらは渋沢栄一記念財団による「デジタル版『渋沢栄一伝記資料』」で、誰でも閲覧することが可能です)。この1901年9月14日、「本社第8回築地談話会」の報告記事中において、福地の原稿が渋沢自身によって会員に披露されたことが次のように記されています。

「先生には同夜、ペルリ氏に続て特命全権公使となりて本邦に来り安政の日米条約を締結したるハルリス氏の日記(本書は栗野公使か米国に於て求めたる珍書にして、福地源一郎氏の翻訳に係れり)中より、ハルリス氏が堀田閣老と条約締結当時の談判に関するものを朗読せられ、且つ之に加うるに当時の我国の状況に就き先生の今昔談等ありて、社員一同非常の感に打たれ午后十時散会せり」
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻 p.282。竜門雑誌 第一六〇号・第四〇頁 明治三四年九月 ○本社第八回月次談話会)

 では、なぜ渋沢は、福地に翻訳を依頼してまで、このような報告を行ったのでしょうか。それは、渋沢が、欧米人によって記された数種の日本関係資料を読み解くことを通じて、日本の近世対外交渉史を再検討しようと試みたことが背景にありました。当時の渋沢は、当然ながら多忙を極めており、様々な経済事業活動に忙殺されていたことから、竜門社の会合において何か報告するにしても「経済談を申のべるというが、俗に申す紋切り型、極まり台詞」だったと前置きしてから、あえてそれとは異なる話を今回はしてみたいと述べ、次のように述べています。

「(前略)鎖国主義の強かったというのは、善かれ悪かれ幕府の命脈を長く保ったというのに、大に関係があったように見ゆる。而して其主義の起ったのは何等の原因があるかということをよほど吟味したいと思う。何故そういう考を起すかというと、維新以前攘夷ということが尊王ということと、第一・第二という如く離るべからざる問題となって、殆ど今日の民権拡張とか実業発達とか申すような言葉、まだそれよりも勢力のある、大勢が皆な唱えた言葉であった。(中略)維新以前の風潮というものは、只無闇に強硬なる攘夷という議論が騒々しいのであった。左りながら其議論は、決して真成なる国を護るの道理でもなく、又国を発達させるの要具でも無った為に、遂に維新以後には俄然邂逅主義となって、其後段々事物が進みもし改まりもして、今日に推移って来たか、明治三十四年の今日に於て、既往の鎖国の原因は那辺より起りしものなるや、又維新以前に頻に鎖国の主義を主張せしは何から来たのであったか。而して此日本の開国になった有様はドウいうことであったかということを、或は調査し或は考証し、或は歴史に就て之を研究するということは大に面白い事柄であろうと思う。」
(『渋沢栄一伝記資料』第26巻 p.289-290。竜門雑誌 第一六三号・第三一―三二頁 明治三四年一二月 ○本社月次談話会)

 渋沢はこのように述べ、自身もかつては強く唱えていた攘夷論と日本の鎖国主義の起源、背景について考察することは、それが忘れ去られつつある今だからこそ、「面白い」と言います。ただし、この「面白い」というのは、単なる個人的な興味、関心に基づくものではなく、実業家である自身のアイディンティ、経済道徳に深く関係しているという点で、渋沢にとって普遍的な意義を有することでもありました。

「(前略)実業というものも、唯だ其物自身で独立するものではない。又実業のみで世を益するものでもない。此実業の真成に発達して行くには、第一に銘々の身を立てて道を行うという、一つの根本がなくてはならぬ。即ち道徳・仁義・孝悌・忠信という確固なる基礎の上に立つものがなくてはならぬ。是はお互に平生に学び得た所に依て己れの行を励磨し、己れの智慧を発達して、其作用からして此実業を大に拡張するように考えて行かねばならぬ。経済経済という言葉は素より瑕疵あるものではないけれども、唯だ単に功利にのみ行趨るというと、甚しきに至ると己れにさえ益あれば人を突倒しても構わぬということになって来るものであるが、若しも此実業界が其傾向に成り行くとせば、此青年倶楽部即ち我竜門社杯にては大に注意してこれが矯正に勉めねばならぬことである。ソコで此経済談にも一つの根本がなくてはならぬ。又人は前にいう孝悌・忠信とか、道徳・仁義とかいうもののみならず、古を稽え今を知る、即ち温故知新ということは孔子のいってあることで、頗る面白いことである。唯た社交又は文学上ばかりでなしに、総て此時勢の沿革を能く観察するということは世道人心に裨補することの多きもので、我々実業家も決して学者・政事家に譲ってはならぬのであります。兎角に今日の習慣が功利にのみ趨る、勘定づくにのみ流れる故に、此実業とか商工業という業務の中には、古を稽え今を知るという如き高尚なる思想を持つと、銭勘定が疎くなるという弊を惹起して、遂に右等のことは政事家とか学者とかに委して我々は知らぬでもよいというて、却て我々の区域を狭め我々の地位を低くするというは、これまでの陋習と私はおもうのである。といって我々実業家が平凡学者《ヘボ》を気取りて、理窟にのみ趨り、道理は分ったが勘定は足らない、というて始終人に憫みを乞ひ救助を受けるといふ地位に立つならば、夫は大なる心得違である。故に実業家は先つ一身の業務を精励して、其余力を以て世の中の変遷というものは斯々るものである、人情の推移というものは斯ういうものであるということを考えねばならぬ。」
(同上 p.290-291)

 こうした渋沢自身の経済哲学と結合する形で、日本近世史における鎖国政策の背景と、幕末維新期の尊王攘夷論と対外交渉史を改めて考察してみたいという、渋沢の壮大な構想が示されています。渋沢はこの日の講演において、幕末に絶大な影響力を誇った尊王論というものは、日本国内で自然発生したものではなく、むしろ外国との交際が盛んになることによって初めて惹起されたことに注意を促し、むしろ対外交渉の進展において日本固有と思われるような思想が発展してきたことを述べます。こうしたことから、渋沢は、鎖国論、攘夷論の歴史と背景を再考するという自身の構想を深めるために、外国人の手による日本論を紐解くことが重要であることを述べ、ケンペル(Engelbert Kämpfer, 1651 - 1716)の「鎖国論」(ケンペルの『日本誌』付録として収録された論文)、グリフィス の『ミカドの帝国(The Mikado’s Empire. 1876)』の翻訳して読み進めるつもりであることを予告しています。そして、幕末の対外交渉については、「日本をして条約国たる位地に成し遂げしめた」「米国の全権行使タウンセント・ハルリス」の「奉仕日記」をテキストにすることを述べています。つまり、このことこそが、渋沢が福地にグリフィス のハリス伝記本の翻訳を依頼した直接の理由でありました。

 渋沢は、ハリスのことを非常に高く評価しており、「外国人の日本へ来て、此未開国を開くに就いて力めた有様というものは実に感心なものです。何ともいうにいわれぬ焦思苦心であって、感佩というか敬服というか、嘆するに余りありというべきことであります。(中略)真成に日本人をして外国のあるということ、又貿易というものの必要なること、国と国との貿易の条約は斯くするものであるという詳細なる手続までも、諄々として教えて呉れたのは此タウンセント・ハルリスである。此ハルリスは安政の――即ち千八百五十六年から六十一年まで、殆ど六年間の日本滞在中の骨折というものは、実に容易ならぬものであります」と紹介して、彼の日記を読み解くことが非常に重要であることを強調しています。

 このような実に興味深い渋沢の構想によって誕生した、福地によるハリス 伝記の翻訳ですが、非常に残念なことに、その後に渋沢が体調を崩してしまったこともあって、予告されていたように竜門社の会合で読み上げられることはありませんでした。また、福地自身もこの翻訳を公刊することなく没してしまい、店主の知る限り、福地による翻訳原本の行方は分かっておらず、福地がこのような翻訳を行なっていたことが知られることさえ、今となっては殆どないのではないかと思われます。こうした状況にあって、このたび出現したこの写本複製本は、単なる福地による翻訳原稿の写本複製本というだけでなく、明治も後半になり、列強に伍する存在として自負を高めつつあった明治日本社会にあって、あえて幕末維新期の思想的背景を対外交渉史の視点から再考しようとした、渋沢による稀有な試みを証言する史料としても非常に貴重なものと考えられます。この写本複製本は、先述の通り古河合名会社の原稿用紙に丁寧な字体で記されたものですが、古河合名会社の創始者である古河市兵衛は、竜門社の会合に何度か出席していたことが確認できますので、同社の関係者が龍門社の関係者をたよって、福地の死後に遺稿として遺された稿本を用いて作成したのではないかと考えられます。原本が失われてしまっている可能性がある今となっては、原本とある程度直接の関係性が推察できる(信頼に足る)写本複製本は、大変貴重なものと言ってよいでしょう。

 なお、渋沢は、福地の翻訳原稿を用いて竜門社で講演を行うことはできなかったものの、ハリスに対する深い敬意は終生変わらず、1927年に来日当初にハリスが滞在していた下田玉泉寺に記念碑が建立されるために尽力し、除幕式において自らスピーチを行っています。