書籍目録

「改税約書」

(英国議会文書)/(パークス)/(水野忠精)/(ブラントン)

「改税約書」

1867年 ロンドン刊

(English Parliament Papers)(Parks, Harry S.)(MIZUNO IDZUMI NO KAMI)

JAPAN. No. 1. (1867.) CORRESPONDENCE RESPECTING THE REVISION OF THE JAPANESE COMMERCIAL TARIFF. Presented to both Houses of Parliament by Command of Her Majesty.

London, HARRISON AND SONS, 1867. <AB201755>

Donated

21.0 cm x 32.3 cm, pp. [1], 2-17, Disboud.
未装丁の状態。綴じ紐に緩みがあり、一部脱落箇所あり。

Information

「不平等条約」の起源とも言える安政五カ国条約における関税規定の改定のほか、横浜居留地整備、灯台施設整備等を定めた「改税約書」のイギリス側公式文書。

「我が国における洋式灯台の建設は、1866(慶応2)年、諸外国と徳川幕府との間で締結された「改税約書」(江戸条約)を根拠とする。この条約は、1863(文久3)年、長州藩が下関海峡を航行する外国船に砲撃を加えたことに対する報復として、翌1864(元治元)年、英・仏・米・蘭からなる四カ国連合艦隊が下関を攻撃した、いわゆる「四カ国艦隊下関砲撃事件」を受けて締結されたものである。
 諸外国から賠償金300万ドルを要求された幕府は、その一部を支払ったものの、残余の支払い延期を要請したところ、諸外国は200万ドルを放棄する代わりに、兵庫・大阪の早期開港、税率軽減、及び条約勅許を要求した。交渉の中心となったイギリス公使ハリー・パークスは、各国をリードし、「改税約書」の第11条で灯台の設置を義務付けた。パークスが灯台設置に熱心だったのは、当時、対日貿易額においてイギリスが他国を圧倒し、日本に往来する外国船の中でも特にイギリス船が多かったことと関係があった。また、幕府が灯台設置に同意したのは、日本の海運の将来に灯台の整備が欠かせないことを認識しており、下関事件の賠償金を建築費に振り向けたいという思惑があったからである。」
(稲生淳『熊野 海が紡ぐ近代史』森話社、2015年、79ページより)

「輸出入の関税の取り決めに関する条約に航路標識の設置を義務づけた項目があるのは、不思議なことではない。自由貿易を推進し、対日貿易において他国を圧倒していたイギリスにとっては当然の要求であった。自国商品を満載したイギリス船が、無事、横浜に到着するためには、安全な航路の確保が必要だったからである。開国以来、外国船の往来が激しくなるにつれ、日本近海でも外国船の遭難事故が頻発していたことも大きな要因であった。」
(稲生淳『明治の海を照らす:灯台とお雇い外国人ブラントン』七月社、2023年、33ページより)

「パークスは、長州藩が認め、幕府が負担することになった莫大な下関戦争の賠償金、300万ドル支払い延期と兵庫開港の先送りを認める見返りに、貿易問題で幕府に譲歩を求める。翌年、幕長戦争直前の5月、改税約書が結ばれる。ほぼ20パーセントの高率で従価税であった関税が、5パーセントという低率の、物価高騰が反映しない従量税に改められる。こうして日本は、関税について天津(敗戦)条約を結んだ中国と同じ不利な条件を認めさせられた。
 前年1864(元治元)年の幕府の関税収入は174万両、歳入の18パーセントという多額の収入になっている。関税障壁を低減させたことと併せて、関税収入大幅減額(4分の1への減)は、日本にとって重大な損失であった。例えば19世紀前半のアメリカ合衆国の関税収入は歳入の9割以上を占めており、関税こそは近代国家の重要な財源であった。」
(井上勝生『幕末・維新 シリーズ日本近現代史①』岩波書店、2006年、131~132ページより)

「徳川政権も、唯々諾々とパークスの要求に従ったわけではなかった。江戸における関税率の改訂協議でイギリスとの交渉に当たったのは、徳川官僚の中でも随一の俊才であった小栗上野介忠順であった。小栗の部下であった幕臣の田辺太一によれば、小栗は輸入関税5%というパークスの要求を跳ねのけ、「輸出税は全廃するので、その代わりに輸入関税は維持したい」という逆提案を行った。輸出税をなくすのと引き換えに、輸入関税のみは現行税率を堅持する、という小栗の判断は、日本の産業発展のためには最も賢明なものであった。
 パークスから見れば、日本の輸入関税を引き下げさせることこそ、日本を英国の工業製品の輸出市場にしたい英国の国益に最も叶う。パークスは、小栗の提案を頑として承諾しなかった。小栗も奮闘し、最後まで抵抗し、交渉を長引かせ、なんと4か月ものあいだ粘りつづけたのであった。この4か月の間に追加で得ることができた関税収入は数十万両に上ったであろう。小栗の知性の輝きは、徳川外交が放った最後の光彩だった。
 しかしながら、いかんせん日本は下関戦争の敗戦国だった。小栗も交渉を長引かせたが、逆に万策尽きて、白旗を上げざるを得なくなったのである。こうして慶応2年5月13日、輸入税も輸出税もすべて一律に従量税方式で5%という、パークスの要求通りの「改税約書(江戸協約)」の調印を強いられた。
 従来、その折りの商品価格に応じてその20%を税率とする従価税方式であったのだが、それを改め、その重量に応じた平均価格の5%を徴税するということであった。折しもインフレがつづく中にあっては、この従量税方式に変更すると、実質税率は3%程度にしかならなかった。
 日米修好通商条約の貿易章程にあった「日本側が望めば関税率を改訂しなければならない」という条件も当然のように削られてしまった。すなわち5%の関税率で固定されたのである。政府の財源から見ても、日本の産業振興の観点から見ても、輸入関税を従価税20%から従量税5%に減らされたことは大打撃であった。(中略)
 これこそ真の意味での「日本の関税自主権喪失」といえる事件であった。自らの意志で勝ち取った20%を放棄させられ、望まない低税率を強いられたのだから。かくして、日本の貿易条件は、アヘン戦争の敗戦条約である南京条約を結んだ清と同じ水準になってしまった。下関戦争は、日本における「アヘン戦争」だったのである。」

「日本は順調に進展する生糸輸出によって、開国してから貿易黒字が基調であった。しかし関税率が5%に下げられた途端、赤字基調に転落してしまう。(中略)開港初年の1859年(安政6)から65年(慶応元)までは貿易は一貫して黒字基調であったが、改税約書が締結され、輸入関税率が一律に5%に切り下げられると、一転して貿易赤字が基調になってしまっていることがわかるであろう。
 関税自主権喪失による損失は甚大だった。日本の貿易赤字基調は、その後長く続き、赤字体質が改善されるのは、1911年に関税自主権が完全に回復され、輸入関税を引き上げるようになって以降になる。日本は、関税自主権の回復まで40年以上にわたって低関税によって苦しめられることになる。その原因は、「江戸幕府」にあるのではなく、攘夷派の行なったテロにあるのだ。(中略)明治の長薩政府は、関税自主権がないことによって、近代化のための財源の柱を失い、長期にわたって苦しめられる。何のことはない、自分たちの蒔いた種のせいだったのである。吉田松陰門下生たちが行なった攘夷戦争は、本人たちの意図とは裏腹に、日本の自立を遅らせる結果を招いた。しかるに明治政府は、その事実を隠蔽し、「不平等条約を結ばされた幕府が悪い」という「物語」をねつ造したのである。(中略)田辺は、関税率5%からくる明治日本の苦役は、長州・薩摩の攘夷党の責任によるものであることを力説したのだが、150年経った今日でも、日本の歴史教育は、長州・薩摩の藩閥政権が生み出した「物語」を繰り返している。これを改めねばならない。」

「関税率の削減は、工業化の進展も遅らせた。仮に下関戦争がなく、20%の関税率を維持できていたら、国内産業を保護しながら殖産興業の財源を確保できていたはずであり、日本はもっと速やかに工業化・近代化を達成していたであろう。(中略)関税率5%という不平等な条件で、軽工業までは何とか振興できたものの、重工業となると関税自主権なしには不可能であった。
 徳川官僚の小栗忠順は、いちはやく横須賀製鉄所・造船所を建設して、日本の重工業化を模索していた。しかし、その小栗は罪なくして(薩長軍配下の諸藩兵によって無裁判で1868年5月に:引用者注)斬首刑に処され、列強の圧力に屈服する長薩政権に取って代わったことにより、鉄も艦船もイギリスからの輸入に依存しつづけ、重工業化は日露戦争後にまで大幅に遅れることになったのである。
 攘夷派のテロ活動、薩摩の生麦事件、一橋慶喜の「奉勅攘夷」政策、長州の下関戦争などによって、列強の介入を招き、日本はせっかく勝ち取った20%関税の放棄を強いられ、大きな経済的損失を招くことになった。これら一連の愚行によって、日本の重工業化の始動は40年遅れることになったと結論できよう。」
(関良基『日本を開国させた男、松平忠固:近代日本の礎を築いた老中』作品社、2020年、232-236、238-239ページより)

締結された条約内容の英文。関税方式の変更や居留地整備についての規定がある。
条約末尾の署名欄に、パークスはじめ列強諸国代表の名前と幕府代表の水野忠精の名を見ることができる。ARTICLE XIは灯台施設整備を定めたもので、これによる「お雇い外国人」第一号となるイギリス人技師ブラントンが1868年に新生明治政府によって招聘されることになる。
これにより関税方式が従価税方式から従量税方式となり、貿易赤字の急増を招くこととなった。