書籍目録

『日本と日本周辺地域の地理的開発におけるドイツの関与および戦争と防衛政策の影響を通じてのその促進』(博士論文)

ハウスホーファー

『日本と日本周辺地域の地理的開発におけるドイツの関与および戦争と防衛政策の影響を通じてのその促進』(博士論文)

1914年 エアランゲン刊

Haushofer, Karl.

Der deutsch Anteil an der geographischen Erschließung Japans und des Subjapanischen Erdraums, und deren Förderung durch den Einfluß von Krieg und Wehrpolitik. Inaugural-Dissertation zur Erlangung der Doktorwürde…

Erlangen, K. B. Hof- und Universitätsbuchdruckerei von Junge & Sohn, 1914. <AB2019160>

¥55,000

8vo(16.0 cm x 24.2 cm), Title., 1 leaf, pp.[1], 2-112, Folded maps: [2], Original paper wrappers.
(NCID: BA76806354 / BB0589932X) ごく最近(2018年)の旧蔵機関による除籍印あり。

Information

ドイツ地政学を代表するハウスホーファーの日本を論じた博士論文

 本書の著者である、ハウスホーファー(Karl Haushofer, 1869 - 1946)は、ナチス政権の対外政策の要となった「生存圏Lebensraum)」概念の形成と発展に大きな影響を与えた「地政学の祖」として知られている人物です。本書は、彼が1913年に提出し、1914年に刊行された博士論文で、日本を手本にして日独双方の地理学と軍事学を架橋することを試みる内容となっています。ハウスホーファーは、1909年から1910年にかけて日本に滞在しており、その際の経験が元となって本書が著されたものと思われます。

 日本滞在時の彼の目的は、京都にあった陸軍第16師団のオブザーバとして、当時の日本陸軍の軍備情報の収集と分析に当たることであったと言われています。当時の日本は、近代兵器と戦法が用いられた日清・日露戦争を経験しており、こうした日本の経験をドイツのために分析することがハウスホーファーの任務であったと考えられます。こうした任務の傍ら、彼は日本そのものにも強い関心を持ったようで、本書刊行と同年日本滞在記をまとめて『大日本(Dai Nihon)』を刊行しています。帰国後も、日本の多くの要人との親密な関係を維持、発展し続けており、大変な親日家、ドイツにおける東アジア情勢の専門家となりました。こうした日独における、ナチス政権と日本の政界人、軍人の要人との広範、かつ深いネットワークを通じて、ハウスホーファーは両国の対外政策に強い影響を及ぼしたと言われています。しかし、そのことが仇となって、終戦後は連合国軍によって、ナチスイデオロギーの黒幕、戦争犯罪人と見なされ、訴追は免れたものの1946年3月に悲劇的な自死を夫妻で遂げています。

 第二次世界大戦における日独両国の外交政策、思想を研究する上で、ハウスホーファーが両国に与えた影響の内実については欠かすことのできないテーマと思われますが、地政学を扱うこと自体が戦後の日独両国において半ばタブーとされたことから、ナチスイデオロギーの生みの親としての側面以外からは、あまり研究がなされてこなかったと言われています。こうした点を指摘し、近年ではクリスティアン・シュパング氏が、1930年代から40年代にかけての日本の地政学、外交政策にハウスホーファーが与えた影響についての研究を精力的に進めています。

「カール・ハウスホーファー博士は、ドイツ地政学の大成者であり、ナチス・ドイツの重要な外交政策顧問の一人として、アドルフ・ヒトラーをはじめ、ルドルフ・ヘスやヨアヒム・フォン・リッベントロップらナチスのリーダーたちの世界観に大きな影響を与えたといわれる。
 今までのハウスホーファー研究は、ともすればナチスの「生存圏」イデオロギーの生成に関わる影響力の究明に集中されてきた。
 しかし、ハウスホーファーが「例外的」ともいえるほど、膨大な日本や東アジアに関する論文・著作を残し、またこの地域の人たちとの幅広い交流をしていた事実からすると、彼と「生存圏」の関係もまた、再検証が必要とされるのではないか。
 ハウスホーファーは、1930~40年代の日本の地政学に関しても深い関わりを持っているが、これまでの研究において詳しく扱われることは少なかった。その理由の一つは、地政学自体が戦後の日本では、ドイツと同様に一種の「タブー・テーマ」となっていたからである。」
(クリスティアン・シュパング「ドイツ地政学と戦時下の日本大東亜共栄圏理論」奈良県立大学ユーラシア研究センター事務局編『EUNARASIA』2016年12月号より)

「ペーター・シェラー(Peter Schöler)の”日本はドイツ地政学の原体験でありモデルである”と見るべきだ、という発言は、まさにハウスホーファーに対して全面的に当てはまる。彼が1924年までの時期−つまり、ドイツ地政学の形成局面に当る期間–に書いた著書の内容が、もっぱら日本と東アジアに関するものであったという事実は、このことを裏づけしている。ハウスホーファーの著作を定量的に分析してみると、この元将軍によって東アジアが特別な地位を占めていたことが確認される。1913年から1944年までの期間に、彼は40冊以上の書物を刊行している。再版や増補版を除外して、独自の著作だけに限っても37冊になる。そのうち11冊は日本に、さらに他の3冊は東アジアにかんするものであり、これらは優にその三分の一に相当する。」
(石井素介訳「カール・ハウスホーファーと日本の地政学」『空間・社会・地理思想』第6号2頁より)

 本書は、ハウスホーファーが日本を題材にして彼の地政学を最初に展開した著作といえるものです。まず、ハウスホーファーは、日本の地理的条件の概観と特徴を述べてから、西洋との接触を通じて、日本の人々や為政者の地理概念がどのように変容してきたかという歴史を紐解いています。特にシーボルト(Phillip Franz Balthasar von Siebold, 1796 - 1866)の影響の大きさに注目しており、彼の存在が日本を近代地理学や地図制作術の習得に際して、非常に大きな役割を果たしたことを述べています。そして、近代以降の日本における内外の様々な危機を通じて日本がどのような地理概念と地理学を有するに至ったのか、その特徴は何かについて論じています。ハウスホーファーは、地理学者をはじめとするドイツ知識人による日本についての数多くの著作を駆使しながら論を進めており、近代地形学の創始者とされるリヒトホーフェン(Ferdinand Freiherr von Richthofen, 1833 - 1905)、1874年に日本の調査旅行を行った地理学者ライン(Johannes Justus Rein, 1835 - 1918)、気象学者でお雇い学者のクニッピング(Erwin Knipping, 1844 - 1922)、医師で御雇外国人のベルツ(Erwin von Bälz, 1849 - 1913)、フォッサマグナの発見で知られる地形学者ナウマン(Heinrich Edmund Nauman, 1854 - 1927)などの著作が縦横無尽に用いられ、分析されています。ハウスホーファーは、日本に近接する北東アジア地域が日本だけでなく、実はドイツにとっても非常に重要であることを指摘し、この地域との関係強化が不可欠であること、そのためにもドイツ軍における科学的な地理学教育が必要なことを論じています。巻末には2枚の折込図が収録されており、1枚は西洋人による日本近海への航海ルートを国別に色分けして著した地図で、もう1枚は、彼が来日中に滞在していた京都陸軍第16師団に関係するもので、現在の京田辺地域(当時の田辺村)の地図で、これは陸地測量部が明治30年に作成した地図を翻刻したものです。

 ハウスホーファーの著作は、戦前日本においては「ブーム」と言われるほどの熱意を持ってよく読まれ、国内の研究機関にも彼の著作は相当数が所蔵されていますが、最初期の作品である本書は、博士論文という性格もあってか、所蔵機関がごく少なくなっています。しかし「日本はドイツ地政学の原体験でありモデルである」と言われ、それを象徴するハウスホーファーのまさに原点となったのが、本書であることに鑑みると、改めて研究される価値のある一冊ではないかと思われます。

タイトルページが表紙となっている博士論文らしい簡易の装丁。
2018年の旧蔵機関による除籍印が押されている。
本文冒頭箇所。ヘラクレイトスの「戦争は万物の父である」を引用することから始めている。
日本の地理とその概念的拡張の様子を示した日本図
巻末には西洋諸国による日本近海への航路を色分けして示した折込図を収録している。
ハウスホーファーが滞在していた京都陸軍第16師団に関係する地図で、現在の京田辺地域(当時の田辺村)の地図も収録されている。これは陸地測量部が明治30年に作成した地図を翻刻したもの。