書籍目録

『美那登能波奈(みなとのはな)横濱奇談:第二部、第三部; 翻訳、翻刻と注釈』(イタリア東洋研究アカデミー教材)

セヴェリーニ / 菊苑老人 / [歌川貞秀]

『美那登能波奈(みなとのはな)横濱奇談:第二部、第三部; 翻訳、翻刻と注釈』(イタリア東洋研究アカデミー教材)

1882年 フィレンツェ刊

Severini, Antelmo / Kikuen-Rojin.

LE CURIOSITÀ DI JOCOHAMA. PARTE II E III. TRASCRIZIONE, TRADUZIONE E NOTE. (PUBBLICAZIONI DEL R. ISTITUTO DI STUDI SUPERIORI PRATICI E DI PERFEZIONAMENTO IN FIRENZE. SEZIONE DI FILOSOFIA E FILOLOGIA. ACADEMIA ORIENTALE. COLLEZIONE SCOLASTICA.)

Firenze, Sucessori le Monnier, 1882. <AB2019153>

¥66,000

8vo (14.8 cm x 22.3 cm), pp.[I(Title.)-III(dedication to Rosny)-V], VI-XIII, pp.[1-5], 6-85, 1 leaf, Original paper wrappers.
刊行当時の紙装丁。表紙に書き込み(著者によるものか不明)、旧蔵機関(本書発行元)の押印、傷みあるが全体として良好な状態。

Information

イタリア屈指の日本学者によって日本語教科書として翻訳された幕末横浜紹介本

 本書は、19世記イタリアにおける日本学の第一世代を代表する学者セヴェリーニ(Antelmo Severini, 1828 - 1909)よる、『美那登能波奈(みなとのはな)横濱奇談』(文久・元治頃?)のイタリア語訳と注釈です。『美那登能波奈横濱奇談』は、幕末の開港間もない横浜における外国人や舶来品を絵入で紹介した和本ですが、セヴェリーニは、この本がイタリアにおける日本語学習のテキストになると考えて、本書の注釈と翻訳に挑みました。「第二部、第三部」とあることから分かるように、「第一部」が1878年に刊行されており、本書はその続きとなるものです。ただし、単なる続編ではなく、この間におけるセヴェリーニの日本語研究と学習方法に対する考え方の違いが反映されており、大変興味深い内容となっています。

 19世紀イタリアにおける日本と日本語研究は、古くからある布教史の再版や伝道報告を別とすれば、19世記半ばに政府主導で始まった東洋語研究に端を発しています。ヨーロッパ諸国と東アジア諸国との貿易の隆盛を背景として、1860年、イタリア政府は東洋語研究を進めるために、奨学生試験を実施しました。この試験に合格したのが、本書の著者セヴェリーニです。セヴェリーニは、当時、東洋語研究の最先端であったフランス、パリに留学し、ロニー(Léon de Rosny, 1837 - 1914)から日本語を学んでいます。セヴェリーニはそれ以降、ロニーを日本語の詩として仰ぎ、本書もロニーに捧げる旨の献辞文が掲載されています。帰国後は、フィレンツェ大学の前身である高等科学研究所(Istitutio di Studi superiori)で東洋諸言語の講座を担当し、イタリアにおける最初の東洋語講座教員となりました。セヴェリーニはこの研究所において教鞭を取って後進の日本研究者を数多く育てただけでなく、東洋研究雑誌『イタリアにおける東洋研究雑誌(Bollettino italiano degli Studi orientali)』を1876年に創刊するなど、研究成果の発表、公開にも極めて精力的に取り組みました。1877年には高等科学研究所内に「東洋研究アカデミー(Accademia Orientale)」を設立し、東洋諸言語に関する文献の収集、研究、翻訳書籍の刊行を行い、イタリアにおける東洋語研究の基礎を多方面に渡って築き上げました。本書も「東洋研究アカデミー」の出版物として刊行されていることが、表紙に明記されています(タイトルページには高等科学研究所の押印があり、研究所旧蔵本出会ったことが伺えます)。

 本書は、『美那登能波奈横濱奇談』という、西洋文化の急激な流入に沸いた幕末の横浜を題材とした和本を翻訳したものですが、序文においてセヴェリーニは、なぜこの書物を翻訳しようとしたかについて述べています。彼によりますと、日本語の学習は大変に難しいもので、また日本語の書物を読み解くことは容易ではないことが述べられており、書物の読解には日本語の理解だけでなく、その背景にある独自の文化的歴史的文脈に対する理解が必要とされることを述べ、通常の日本の書物を読み解くことが、いかに難しいかが強調されています。それに対して、彼がテキストに選んだ『美那登能波奈横濱奇談』は、著者である日本の作家よりも西洋人の方がよく知っている西洋の事物を扱った内容であるため、西洋人にとっても理解しやすく、しかも日本から見た西洋文化がどのようなものであるかも知ることができるという点で、日本語学習のテキストとして最適であると説明しています。

 先述のように、「第二部、第三部」である本書は、1878年に刊行された「第一部」の続編にあたるものですが、「第一部」と本書の間には少なからず、書物の構成に変化があり、そのことについてもセヴェリーニは序文で説明しています。1878年に刊行された「第一部」は、本書と同じく『美那登能波奈横濱奇談』の最初の部分のイタリア語訳と注釈ですが、本書にはない原著を再現したリトグラフ も収録されていました。それに対して、本書は、原著のリトグラフに替えて、原著テキストをローマ字表記にして活字で掲載しています。その理由についてセヴェリーニは、原著を再現したリトグラフの有用性を認めつつも、それだけでは初学者が実際にテキストを読み解くことが容易でないことを述べ、まずは、ローマ字表記に変換された日本語テキストと、訳文とを読み比べる方が、初学者向けのテキストとしては効果的であると説明しています。理想的には、漢字と仮名の活字を十分に作成し、それらを用いて日本語テキストを構成して掲載できることが望ましいが、本書においてはそこまで実現することができなかったことも序文では述べられています(漢字活字は既に東洋研究アカデミーにおいて作成されていましたが、原著テキストを全て再現するにはまだ十分でなかったようです。このように、本書は「第二部、第三部」とはなっているものの、「第一部」刊行当時以降のセヴェリーニの日本語教育に対する考え方の変化を示しており、日本語テキストとして一層工夫された構成となっていることは注目すべき点と言えるでしょう。

 本文は、左ページにローマ字表記の日本語テキストが掲載され、右ページにセヴェリーニによるイタリア語訳が掲載されています。下部欄外には、細かな注釈が掲載されており、これらの解説をあわせ読むことで、日本語に対する理解や文化的背景なども同時に学習できるよう工夫されています。日本語テキストのローマ字表記に際しては、『和英語林集成』の著者であるヘボン(James Curtis Hepburn, 1815 - 1911)を参照した旨が序文で説明されており、仮名文字一覧表も掲載されています。また、テキスト本文の前には、見開き大の大きな地図が掲載されていることも非常に興味深い点で、この地図は原著に収録されていた横浜港の鳥瞰図をもとにした図と思われます。原著収録図は、当然全ての地名、解説が日本語表記ですが、セヴェリーニはこれをイタリア語に翻訳するだけでなく、イタリアの読者にとって理解しやすいように地図の構成そのものにも手を加えており、原著図の雰囲気を残しつつも、日本語初学者にとって理解が容易になるように工夫されているのが伺えます。なお、原著収録図は、もともと、幕末の横浜を数多く描いた、歌川貞秀の『横濱開港見間誌』に収録されていた図を転載したものですので、貞秀の作品がイタリア語に翻訳され、イタリアの読者に理解できるように改変された図ということもできるでしょう。

 19世期イタリアにおける日本語、日本研究は、セヴェリーニを嚆矢として、実に多彩な、語学、文学、文化、歴史研究を生み出しましたが、その多くが本書のように100ページに満たない小冊子であったことも災いしてか、国内研究機関における所蔵状況は、極めて乏しいものとなってしまっています。戦前から戦後にかけてこの分野の文献を収集し、詳しく紹介した、吉浦盛純による『日伊文化史孝:19世紀イタリアの日本研究』(イタリア書房、1969年)では、こうした数多くのイタリアにおける日本研究が紹介されており、パリやロンドンにおける日本研究とはまた違った日本研究がイタリアにおいても豊かに展開されていたことを知ることができる貴重な書物となっています(店主も上記執筆に際して大いに参考にしております)。しかしながら、同書で紹介された多くの文献は、今も国内研究機関において未所蔵となっているものが多く、こうした所蔵状況のせいもあって、19世期イタリアにおける日本研究に対する注目は、他国におけるものと比べて低いものとなってしまっているのは、非常に残念なことです。

「私の蒐集した日本文学の翻訳は、ほとんどセヴェリーニ、ヴァレンツィアーニ、プイーニ、ノチェンチーニの4人の手に成るもので、翻訳の範囲は、小説、物語、軍記物、演劇、和歌、往来物などの多方面にわたっている。訳文は正確で、特に語義の研究には力を注いでいるようである。日本の書籍の入手も容易でなく、参考書の類も乏しかった時代に、これだけの業績を残したことは、高く評価さるべきであろう。
 これらの資料探しには、今でも忘れられない数々のエピソードがある。もっとも骨が折れたのは、日本文学の翻訳の蒐集であった。それは、これらの翻訳のほとんど全部が、発行部数も対して多くはなかったろうと思われる大学やアカデミーの紀要や雑誌に掲載され、抜刷りのあるものもあるが、百年近くたつと、どちらも容易に発見することができないからである。しかも大部分は、数頁、数十頁の薄っぺらな冊子で、古書店のカタログに掲載されることは絶無で、古書店に足を運んで探すほかはなく、さらにカードの備え付けもない店では、蜘蛛の巣やほこりと戦いながら、高い書棚の本を上から下まで、一冊一冊丹念にのぞいてみなければならないこともあった。
 第二次大戦後は、この種の文献もほとんど影をひそめてしまったので、これからは余程の幸運に恵まれないかぎり、簡単に入手することは、できないのではないかと思われる。こんな次第で、数年前のローマ滞在中にも、かなり方々探して見たが、どうしても入手不可能に終ったものもある。しかし現在の私には、何時になったら、それらを入手できるか、見当もつかないので、心残りではあるが、一応今までに集めた文献にもとづいて、本書を出版することにした。日伊間の文化交渉研究の上に、多少なりとも役に立つことがあれば、長年の古本探しの苦労も報いられるわけである。」
(吉浦盛純『日伊文化史孝:19世紀イタリアの日本研究』イタリア書房、1969年「あとがき」より)

セヴェリーニが日本語研究の師と仰いだロニーに対する献辞
タイトルページ。本書の発行元でもある高等科学研究所(Istitutio di Studi superiori)の蔵書印がある。
読者への序文冒頭箇所。本書刊行の由来や狙い、意義、不十分な点など、本書の構成や、背景を知る上で興味深い内容。
序文末尾には、ヘボンを参照したというカナ文字一覧表が掲載されている。
原著のローマ字表記が左ページに、イタリア語訳が右ページに配置される構成。上掲はタイトルページ。
歌川貞秀の『横濱開港見間誌』に収録されている横浜鳥瞰図が、『美那登能波奈横濱奇談』に転載され、さらにそれを、セヴェリーニがアレンジして掲載したもの。
(参考)歌川貞秀の『横濱開港見間誌』に収録されていた横浜鳥瞰図
本文。
裏表紙の両面には、アカデミーの教科書シリーズとして出版されている刊行物の案内が掲載されている。
本書第四部も刊行予定として掲載されているが、実際に刊行されたかどうかは不明である。