本書は、ソリエ(François Solier, 1558 - 1638)によって著された、ザビエル来航の1549年から(当時の)現代(1624年)までの日本におけるイエズス会のあらゆる活動と、日本社会の様々な動向が記された書物です。全2巻、合計1,800ページほどにもなる大部の著作で、17世紀前半に刊行された「日本教会史」としては最大の量と最高の質を誇る書物として、現代でも高く評価されている名著です。1627年に第1巻が、そして1629年に第2巻が刊行されていますが、いずれも現在では稀覯文献とされており、特に第2巻は、国内のみならず世界的に見ても残存数がきわめて少ないことで知られています。
著者ソリエは、イエズス会の神父としてリモージュのコレッジで教鞭をとる傍ら、数多くの歴史書、神学書を著したことで知られています。当時のイエズス会における最高峰の水準にあった学者でもあり、イエズス会が発行、所蔵する膨大な史料にアクセスすることが可能であった著者によって著された本書は、その記述が、浩瀚かつ史料によって裏付けられた質の高い内容を誇っています。序文において彼が述べているように、当時入手可能であった数多くの史料を用いて本書は執筆されており、毎年の活動を記録、公刊した日本年報や、それらをまとめた書簡集などに加え、当時から名著の誉れが高かったグスマン(Luis de Guzmán, 1544 - 1605)の『東方布教史(Historia de las missiones que han heco los religiosos de la Compañia de Iesus,...2 vols. Alcala, 1602)』を参照しています。『東方布教史』は1601年に刊行されているため、16世期末までの記述で終わっていますが、その年代を現代にまで延ばし、さらに多くの史料を用いて記述を全面的に改めることで、本書は当時のヨーロッパで得ることのできる最高水準の日本情報を提供する欧文史料となりました。
本書が刊行された1627年から1629年は、徳川幕府によるキリシタン弾圧が苛烈を極めていく一方で、日本との関係が完全に途絶するまでには至っておらず、毎年のように伝えられる殉教事件の報がむしろ、日本布教への熱意を掻き立てるような状況でもありました。特に、1627年にいわゆる「日本二十六聖人殉教事件」で犠牲となったフランシスコ会士23人が列福され、続く1629年に残る3人のイエズス会士も列福されたことにより、日本への注目と殉教に対する熱情は最高潮を迎えつつありました。このような状況にあったヨーロッパのカトリック界にあって刊行された本書が、高い評価を受け、多くの読者を獲得したであろうことは容易に推察できることでしょう。本書は、17世紀前半に刊行された日本関係欧文史料の中で最も重要な文献の一つとして高く評価され、18世紀に入ってからイエズス会士クラッセ(Jean Crasset, 1618 - 1692)が、『日本教会史(Histoire de l’église du Japon. 2 vols. Paris, 1715)』を執筆するにあたって、本書を大いに参照したことがよく知られており、そのクラッセ『日本教会史』は、数多くの言語に翻訳され広く流布したことに鑑みれば、本書の影響力は刊行後100年以上に及んでいると言ってよいでしょう。
このようにヨーロッパにおける日本関係史料として高く評価されている本書ですが、その詳細かつ質の高い記述が、イエズス会士が活動した当時の日本の様々な社会情勢にも及んでいることから、フロイスによる未完の大著『日本史』と同じく、日本史研究における重要史料としても注目されています。ソリエ自身はフロイスと違って来日することはありませんでしたが、上述のようにフロイスを含むイエズス会所蔵の無数の日本関係史料を駆使して本書を執筆しているため、当時の日本側史料にはない貴重な記述が含まれており、二次資料とはいえ、大変興味深い内容となっています。中でも、細川ガラシャや、信長が重用した黒人奴隷「弥助」に関する記事などは、特に有名なところです。
その一方で、本書は現在では残存数がきわめて少ないことが知られており、上述のように第2巻は特に稀覯本となっています。Cordierをはじめとした著名な欧文日本関係文献目録においても、その記述が混乱していることから、こうした目録の著者たちであってすら、実際に2巻本揃いを実見できなかったであろうことが指摘されています(上智大学ラウレスキリシタン文庫の本書第1巻目録ID: JL-1627-KB2-372-245の解説参照)。世界中の研究機関にあっても2巻本を揃いで所蔵している機関は非常に少なく、まして近年の古書市場に出現することは殆ど無いと言ってよい文献ですので、その希少性からしても2巻揃いである本書は非常に貴重な書物と言えます。
本書は、第1巻が、第1章から第10章まで、第2巻が、第11章から第20章までと、各巻10章構成となっており、どの記事も非常に興味深いものばかりです。簡単に各章の内容を紹介しますと、下記のようになります。
第1巻
序文
日本とキリスト教、特にイエズス会との関係の重要さが強調されており、本書執筆の目的と意義が解説されています。また、ザビエル書簡集や、トルセリーノ(Horatius Ursellinus, 1545 – 1599)、ルセナ(João de Lucena, 1549? - 1600)によるザビエルの伝記、グスマンの布教史(Historia de las missiones qve han heco los religios de la Compa˜ia de Iesus,...1601)、エボラ書簡集(Iesus. Cartas que os Padres e Irmãos da Companhia de Jesus escreverão do reynos de Japão & China...1598)など当時を代表する日本に関する数多くの先行文献、資料を駆使して本書を編纂していることなどが説明されています。
第1章(1-54)
日本の概要 マルコ・ポーロ以来の西洋人との関係の歴史、地理的位置と本州、四国など多くの島々からなる列島であること、ヨーロッパ(そしてマカオ)からの航海の難しさ、気候条件などが記されています。また日本の人々の気質や道徳、政治、経済状況についても詳述しており、まとまった「日本論」としても注目すべき内容です。内裏(天皇)の存在が日本の歴史を理解する上で極めて重要であったことや京都(都)との関係なども解説されています。当然ながら、日本における諸宗教については非常に詳しく解説しており、仏教、神道の区分は当然のこと、仏教諸派についてもそれぞれ分類して概説しており、それぞれの教義や教団の体制などについても論じています。また、仏教勢力にとって奈良が重要であることにも着目しており、奈良における仏教と京都との関係について論じるなど、類書にはあまり見られないような考察があり、当時のイエズス会における日本の宗教情勢の把握と理解の状況を示す史料としても非常に興味深いものです。
第2章(55-147)
1542年のポルトガル人の日本来航とザビエルによる精力的な布教活動
まず、ポルトガル人が1542年に日本に漂着したことや、ポルトガル商人アルヴァレスを介しての日本のアンジローとザビエルの出会いに始まる日本宣教への決意など、日本への布教前史が詳細に語られています。そこから日本へ実際に赴くまでのザビエルの準備、布教の目的、ヴィジョンなどが述べられてから、ついに実際に日本へと赴く過程が解説されます。鹿児島に到着してからのザビエルの精力的な布教活動をそれぞれのエピソードを時系列に論じつつも、見聞した日本の文化、人々の気質についての分析なども盛り込まれています。鹿児島での藩主島津貴久との謁見と布教許可の獲得、福昌寺(島津家の菩提寺)の忍室との霊魂不滅をめぐる議論を経て、平戸へと赴き、領主松浦隆信との謁見と布教、さらに山口へと渡り、大内義隆とも謁見してから、念願であった京都へと赴く過程が解説されています。京都では天皇の布教許可を得られるような状況ではないことに失望しつつも、すぐさま平戸へと戻り、山口を拠点に定めて日本での本格的な布教活動を再開するなどの非常に精力的なザビエルの活動を生き生きと描き出しています。第2章は、ほぼ全ての紙幅が、ザビエルの日本での活動の記述に割かれており、ソリエ(あるいは当時のイエズス会)がザビエルの活動こそが日本での布教の礎となったことを強く意識していたことがうかがえます。
第3章(148-199)
ザビエル亡き後の1550年代の日本における布教活動の様子が記されています。ザビエルと共に日本に来航し、ザビエル離日後の日本での初期布教活動を長きにわたって支えたトーレス(Cosme de Torres, 1510 - 1570)を中心とした山口と豊後での様々な布教活動と共に、不安定な政治情勢に翻弄される様子が描かれています。中国での布教活動を目指したザビエルと共にゴアを出発し、その後ザビエルとは別れて豊後に1552年に到着したガーゴ(Balthazar Gago, 1520? - 1583)の豊後での活躍、特に大友宗麟と良好な関係を築き、府内で教会を建設できたことなども記されています、その一方で山口では、それまでの布教活動を支援(教会建設を許可した文書として有名な大道寺裁許状の発行など)してきた大内義長が陶晴賢によって討ち取られたことで、山口の教会も焼亡するという危機的状況も発生し、これを機に布教活動の中心が豊後に移っていく経緯も記されています。インド管区長ヌーニェス(Melcior Barreto Nunes, 1520 - 1571)の来日と日本での布教活動の視察、トーレスによって京都に派遣され、将軍(公方)足利義輝と謁見を果たし、ザビエルからの念願であった、日本の首都京都での布教許可を得ることに成功したヴィレラ(Gaspar Vilela)の活動など、ザビエルに続いて来日した数多くのイエズス会士の活動とそれに関連する当時の目まぐるしく変転する日本各地の社会情勢が記されています。元商人で膨大な財産をイエズス会に捧げ、豊後での病院建設とミゼルコルディア設立の礎となる活動に尽力したアルメイダ(Luis de Almeida, 1525 ー 1583)の活躍についても、ここで触れられています。
第4章(200-293)
1560年代前半の日本における布教活動の様子が記されています。アルメイダによる度島や生月島といった島々への巡回と平戸での布教活動、そして何よりこの時期に大きな成果をあげた大村での布教活動に多くの紙幅が割かれています。1563年に島原半島に赴いたヴィレラは口之津で布教活動を行い、多くの人々に受洗を施し島原での信者獲得に成功します。この成功に続いて同年には、トーレスが大村純忠にも受洗を行い、これにより大村は、豊後と並ぶ布教活動の拠点としての地位を確かなものにしていきます。その一方で、平戸に代わってポルトガル船の来航による発展を期していた横瀬浦が襲撃されるなどの事件もこの時期には勃発しており、確実に布教活動の成果が積み上げられていくと同時に、不安定な政治、社会情勢に翻弄される様もここでは描かれています。また、1563年には襲撃を受ける直前の横瀬浦にフロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)が到着し、翌年1564年末からアルメイダと共に豊後を発って京都へと向かっています。この章ではフロイスの到着とその後の足跡についても詳しく説明されています。
第5章(294-377)
1560年代半ばから1570年代初めにおける出来事が記されています。1565年に境を経て入洛したフロイスとヴィレラは足利義輝との謁見に成功しますが、その直後に義輝は暗殺され、フロイスらは境への退却を余儀なくされるという大事件が起きており、この間の記述から第5章は始まっています。またこの頃には五島列島での本格的な布教がアルメイダによって始められており、五島列島での布教活動の様子も詳しく記されています。1568年に新築された大村の教会でトーレスがミサをあげたことや、ヴィレラが長崎で有名なトードス・オス・サントス教会を建立するなど九州各地での布教が順調に進展していっていることを記した記事が多く目につきます。しかしなんといっても第5章において最も大きな話題となっているのは、やはり織田信長とフロイスとの謁見とその後のイエズス会との関係の深化についての記事で、1565年に追われて以来戻ることのできなかった京都に凱旋し、二条城の建築現場でフロイスが信長と会談、布教を許可する朱印状を得るなど、信長の登場によって京都でのイエズス会の活動が大きく前進していく様子が記されています。フロイスは二条城での会見の際、信長に「宗論」の実施を依頼しており、これは後日、天台宗上人日乗と信長と家臣臨席の場で実現し、成功を収めたことによって、フロイスは信長からの信頼を一層確かなものにすることになりました。この一連の出来事についても本章では詳しく記されています。また、信長とイエズス会との橋渡し役として大きな力となった和田殿こと和田惟政に関する記事も、本書で頻繁に目にすることができます。1571年には、「うるがんばてれん(宇留岸伴天連)」の愛称で呼ばれ、多くの日本人に慕われた、オルガンティノ(Organtino Gnecchi-Soldo, 1533-1609)も入洛して信長との謁見を果たしており、そのことについても本章では記されています。本章の後半では、1570年にオルガンティノと共に日本に到着したカブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)が日本での布教活動の責任者となり、九州方面だけでなく京都にも足を伸ばし、信長、足利義昭と謁見した際の出来事も記されています。また、1571年の信長による比叡山(日枝山、ひえのやま)の焼き討ちについて言及した記事もあります。
第6章(378-457)
1570年代半ばから1580年代初めにおける出来事が記されています。この間は信長の後ろ盾もあり、イエズス会の日本における布教活動は極めて精力的になっており、本章で扱われる事項も非常に多岐にわたっています。カブラルの第2回巡察や、大村領での信者と勢力の拡大についての報告や大村純忠による長崎の寄進、大友親家や田原親虎の改宗に伴う、大友家と家臣団を巻き込んだ騒動の経緯などの主だった出来事が記されています。また、1577年には京都のいわゆる南蛮寺が建立されており、京都での布教活動が非常に順調であることが解説されています。国内のキリシタン大名をめぐる事件としては、高山右近が荒木村重の織田信長に対する謀反に対して、高槻城を開城し、その後信長によって再び高槻城主として安堵された一連の出来事が詳細に記されています。この時期に来日したイエズス会士に関する記事としては、なんといってもヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)の来日と、その後の精力的な活動に関する記事が多く、通信制度の改革や、布教体制の再編、信長との会談、府内のコレジョ(学院)、臼杵のノヴビシャド(修練院)設置といった教育機関の拡充など多方面に渡るヴァリニャーノの活躍が数多く記されています。第6章は、信長とヴァリニャーノという日本とイエズス会双方にとっての強力な人物の影響力によって、日本での布教活動が華々しく進展していく過程が最も多彩に記されていると言えます。
第7章(458-506)
この章では、ほぼ全ての記述が天正遣欧使節についてのものとなっています。1582年にヴァリニャーノと共に長崎を発ってから、翌年のゴア到着を経て、1584年のリスボンへの到着からスペインを経てのローマまでの行程、そしてローマでのグレゴリオ13世との謁見をハイライトに、教皇の崩御とシクストゥス5世の即位と謁見、ローマを辞してからののイタリア各都市歴訪とゴアまでの帰路を時系列に沿う形式で詳細に記されています。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名による書簡も本章に収録されています。天正遣欧使節は渡欧当時に膨大な出版物の刊行を呼んだことがよく知られていますが、それらを精査した上で記されている本章の記録は、渡欧当時の記録との比較考察という点でも興味深い記事と言えそうです。
第8章(533-587)
天正遣欧使節出発後から1587年頃までの記録が中心となっています。この章で最も重要と思われる出来事の一つは、いうまでもなく1582年の本能寺の変による信長の死でしょう。それまでのイエズス会の活動の中軸であった信長の突然の死は、イエズス会の特に機内近辺での活動に深刻な影響をもたらしたことが、第6章とは一転する形で記されています。ヴァリニャーノを欠いた状態での当時の混乱ぶりとその後の秀吉の台頭という、目まぐるしい変遷がこの章では記されています、秀吉による支配体制がある程度確立してからも、1586年の島津兵の豊後領への侵入とそれに伴う混乱、長きにわたって活動を支えていた大友宗麟、大村純直の死、日本のイルマンであったダミアンの下関での死など、次々とイエズス会にとって困難な出来事が生じたことが記されています。また、九州に赴いた秀吉とコエリョとの謁見に続いて、博多に停泊していたイエズス会の船舶への秀吉の訪問があったこと、大村や有馬の旧領地の安堵を行なったことなども記されています。ヴァリニャーノが整備した布教区ごとに概ね整理して記された第8章の一連の記述からは、この章で扱われる時代が、イエズス会にとって困難を極めた時期であったことが見て取れます。
第9章(588-687)
1587年の記録の続きから1590年までを扱う第9章は、イエズス会にとってさらなる苦難の象徴となった秀吉によるバテレン追放令の突然の発布による衝撃に関する記述から始まっています。第8章に続いて、この章でもイエズス会にとっての苦難の出来事が数多く記されており、ほとんどの紙幅が秀吉によってもたらされた事件や迫害、戦争に関することに費やされています。突然発布されたバテレン追放令は、ヴァリニャーノを欠いたイエズス会に多大な混乱をもたらし、日本各地で活動していた全ての宣教師がいったん平戸に集結し、その後各地に潜伏するという方針が立てられ流ことになりました。この間の経緯について本章では詳しく記されています。また、追放令によって、高山右近が追放されただけでなく、京都の南蛮寺も破却を余儀なくされ、畿内での布教活動が極めて困難な状況になっていく様子が記されています。機内だけでなく、九州各地でも大友義統による宣教師の追放や、天草種元が呼応した天草合戦において敗退するなど混乱が各地で生じていたことが記されています。こうした悲惨な状況の中で光明となっていたのが、天正遣欧使節の帰国と共に再来日が予定されていたヴァリニャーノの存在だったようで、ヴァリニャーノの動静が詳しく記されており、本章ではヴァリニャーノが使節と共に長崎に到着するまでの経緯が記されています。本省において特に興味深いのは細川ガラシャに関する記述(主に第7節)で、彼女がイエズス会の教会に赴き、のちに受洗することになった経緯を詳細に記しています。
第10章(688-802)
1590年から1595年までを扱う第1巻最終章となる第10章では、次々と困難が降りかかる中での希望となっていたヴァリニャーノの再来日と秀吉との謁見に向かう記述から始まっています。1591年に聚楽第において、ヴァリニャーノがインド副王使節として、帰国した天正遣欧使節4人と共に臨んだ秀吉との会見について非常に詳しく説明されており、ヴァリニャーノが秀吉に贈ったインド副王からの書簡も掲載されています。第8章、第9章で記された一連の苦難の時期を経て、このヴァリニャーノの会見が非常に大きな意義を有していたことがうかがえます。このヴァリニャーノとの会見には、老齢のフロイスに変わって通詞(通訳)となったロドリゲス(João “Tçuzu” Rodrigues, 1561? - 1633)が同席しており、秀吉はこのロドリゲスをいたく気に入り、翌年1592年に名護屋に赴いた際には彼が長く留まることを望んだほどだったと言われています。本章ではこの間の一連の経緯についても記されています。ヴァリニャーノと秀吉との会見によって、イエズス会と秀吉との緊張関係は一時的に緩和されるかと思われましたが、長崎で教会の破壊が命じられるなど引き続き苦難の時期が続いたことが、様々な出来事を通じて描かれています。また、本章では、秀吉とフィリピンを介したスペインとの交渉が進展する様子や、1592年に始まった朝鮮侵略(文禄の役)といった対外交渉関係に関する記述が数多く見受けられ、前者については、スペインを後ろ盾としたフランシスコ会の日本進出、後者については、イエズス会を庇護する立場にあった多くのキリシタン大名の出兵動員という形で、イエズス会に深刻な問題を新たにもたらすことになったことが記されています。国内事情については、太閤となった秀吉が、関白の座を譲った甥である秀次を切腹に追い込むまでの一連の出来事が詳細に記されていることも注目すべきでしょう。この事件については、日本側史料が乏しいとされている一方で、やや後年の日本関係欧文史料において記されていることが知られていますが、後者の情報源となったのは、おそらく本書であると考えられることから、本書中の記述をより詳細に読み解くことは、興味深い研究課題といえるでしょう。
*第2巻の詳細解説については只今準備中です。今しばらくお待ちください。
なお、本書は特に第1巻にページ付の乱丁が多くみられますが、第1巻の目次を欠いている以外は、テキスト本体は完備しています。詳細な書誌情報については下記を参照してください。
Vol.1:
Title.(a), Lacking 1 leaf(a-ij), 2 leaves(á-iij, [iiij]), Lacking 10 leaves(for TABLE, 4 é leaves, 4 í leaves & ó, ó-ij), pp.1-165, 164[i.e.166], 165[i.e.167], 166[i.e.168], 169-202, 199[i.e.203], 204, 205, 106[i.e.206], 207, 190[i.e.208], 209-212, 199[i.e.213], 214-248, 239[i.e.249], (NO LACKIN PAGES), 252-256, 572[i.e.257], 258-262, 293[i.e.263], 264-302, 330[i.e.303], 304-306, (NO DUPLICATED PAGES), 305-374, 775[i.e.375], 376-381, 682[i.e.382], 683[i.e.383], 684[i.e.384], 385-399, (NO DUPLICATED PAGES), 380-393. 384[i.e.394], 395-398, 398[i.e.399], 400-433, 426[i.e.434], 435-531, 506[i.e.532], 533-612, 631[i.e.613], 614-791, 793[i.e.792], 793-802, 9 leaves.
*P-iij 上部に破れあり(テキストの欠損なし)
*Nmmmm-iij 下部に敗れあり(テキストの欠損なし)
Vol.2:
Title., 11 leaves, pp.1-55, 55[i.e.56], 57-335, 318[i.e.336], 337-419, 402[i.e.420], 421-428, 425[i.e.429], 430-511, 502[i.e.512], 513-551, 545[i.e.552], 553-633, [634(Plate)], 635-840, (NO LACKIN PAGES), 895-909, (NO LACKIN PAGES), 1000-1023, 12 leaves.
*Tttt-iiii上部に破れ(テキストの欠損なし)