書籍目録

『外科医術の歴史、その起源から今日に至るまで』

デュジャルダン

『外科医術の歴史、その起源から今日に至るまで』

初版 第1巻(全2巻中) 1774年 パリ刊

Dujardin, Peyrilhe.

HISTOIRE DE LA CHIRURGIE, Depuis son origine jusqu’à nos jours.

Paris, Imprimerie Royale, M. DCCLXXIV (1774). <AB2019130>

Sold

First edition. Vol. 1 only of 2 vols.

4to (18.5 cm x 24.8 cm), pp.[i(Title.)-vi], vii-xix, pp.[1], 2-104, 4 leaves(Plates), pp.105-528, pp.j-xxix, Contemporary ? Half leather on marble boards.
タイトルページのみ後年のファクシミリか? Sf(s)-1の下部余白に破れ(テキスト欠落なし)あり。小口は三方とも赤く染められている。

Information

文化的背景にまで踏み込んで日本と中国の鍼灸を独自の視点で紹介

 本書は、フランスの外科医で科学者、デュジャルダン(Peyrilhe Dujardin)が1774年にパリで刊行した書物で、主としてヨーロッパを中心とした外科医術の歴史を紹介する内容で、日本と中国の外科医術が一節を割いて図版と共に詳細に紹介されています。医学史の文脈において鍼灸を紹介したヨーロッパで最初の文献であるだけでなく、著者独自の比較文化的な視点に基づく考察がなされており、日本関係欧文図書として大変興味深い書物です。

 本書が非常に興味深いのは、前書き(Preface)においてデュジャルダンが述べているように、外科医術の歴史を単なる事実の羅列や無味乾燥な年代記的に記述するのではなく、それぞれの時代、地域における外科医術の歴史が相互に連関しながら展開してきたことを浮かび上がらせようとしていることです。ここで著者が提示しようとする視点は、いわば比較文化、文明論的な視点で、外科医術の歴史を進歩の歴史とする一方で、その背景にある文化的側面や、連関を積極的に捉えようとするユニークな視点が見て取れます。こうした著者特有の興味深い視点に基づいて日本の外科医術が紹介されていることから、本書における日本の外科医術の紹介記事は、単なる技術的紹介だけにとどまるものではなく、そのような特異な外科医術が成立している社会的、歴史的背景の考察もを含む、非常に興味深いものです。 

 本書は、全2巻、800ページ近い分量からなる非常に大部の著作で、全体を六書に分けて構成されています。その構成を簡単にまとめますと下記のようになります。

第一巻

鍼灸図

第一書(45頁〜)
・最古の人々の外科医術(フェニキア、アッシリア、エジプト、ギリシャなど)
・中国と日本の人々の外科医術

第二書(105頁〜)
・ギリシャと幾人かの人々の外科医術

第三書(159頁〜)
・ローマの外科医術に至るまでのヒポクラテスとその後継者の影響下におけるギリシャの外科医術

第四書(341頁〜528頁)
・ギリシャとアラブの外科医術導入以前と以後におけるローマの外科医術。ローマにおける外科医術の数々の革命。(ケルスス)

索引

(第二巻

第五書(1頁〜)
・ケルススからガレノスに至る外科医術の進歩を含む、アウグストゥスの治世からマルクス・アウレリウス・アントヌスの治世の時代までの外科医術。

第六書(507頁〜749頁)
・ガレノスからポール・デジーヌに至るまでの外科医術、すなわちマルクス・アウレリウス・アントヌスの治世からサラセンによるアレクサンドリア陥落までの外科医術。

索引)

 上掲の通り、日本と中国の外科医術の紹介は、第一書の後半に掲載されています。これは、著者の考えによると、日本と中国では、古来から続く迷信に基づく医学が今なお発展しており、その意味では古代の外科医術として検討することが適切であるとされているためです。著者は、ライネ(Willem ten Rhijne, 1649 - 1700)の著作(後述)とクライアー(Andreas Cleyer, 1634 - 1697)の『中国医学概論(Specimen medicinae sinicae,...1682)』をはじめとした多くの先行文献を参照、引用しながら論を進めており、典拠となる資料を明示していることからも、学問的な態度で記述にのぞんでいることがわかります。最初から外科医術の技術的な紹介を始めるのではなく、最初に日本と中国の関係が説明されており、そこでは日本は中国の植民地で文化的にも大きな影響を受けているが、風習や気質はかなり異なっており、全く別の国として考える必要があるとされています。中国では非常に専制的な統治がなされており、民衆が極度の統制と伝統的な思考に対する敬意を強いられているのに対して、日本にもその傾向があるものの、中国よりは幾分穏やかであり、外科医術を含めた学問や文化がより自由に発展する余地があるとしています。その一方で、医学については両国の間においてそれほど大きな相違点は見られないとしており、両国とも非常に厳しい気候条件下にあるだけでなく、人々が政治、文化的にも過酷な状況に置かれているため、医学の発展が必要不可欠であったと説明しています。そして、それらは伝統文化や宗教に根ざした独自の世界観、身体観を基礎として構築されていると述べています。その一例として、陰陽道に基づく身体観を説明しており、陽(yo あるいは yam)と陰(yn)の概念の説明と、身体を陰陽に分けて把握する独特の思考法を詳細に解説しています。

 ここで解説されている日本と中国の外科医術における身体観は、著者ひいては当時のヨーロッパ医学における身体観とは大きく異なっており、前者が身体を全体の有機的連関において一種のシステムとして捉えようとするのに対して、後者は身体の部分と部分とが明確な因果関係において説明されるべきであると考えるものです。そのため、治療を必要とする患部から全く離れた別の箇所に処置を行うという、日本と中国の鍼灸による治療は、著者にとってその実用的効果はもちろんのこと、その背景にある全体論的身体観に強い関心を持ったものと思われます。この点については、アラン・ブリオ(Alain Briot )が、論文「フランスにおける鍼灸の発展史」(『全日本鍼灸学会雑誌』第54巻第1号、2004年所収)において本書を取り上げた箇所で、次のように説明しています。

 「1774年版のデュ・ジアルタン編の『外科全史』は鍼灸の知識をまとめたものである。中国との交流が中断された当時(のフランス;引用者注)にあって成功を収めた。この本は、19世紀初期に初めて鍼療法実験を行った人々に影響を及ぼしたという。なぜ鍼灸のことが『外科全史』に扱われているのかというと、次の一説から理解できる。「日本においては外用療法を施す者は外科医である。その名称はGecgua(ゲクワという)・・・」とある。デュ・ジアルタンは正確に内臓の相互関係および身体の各部との繋がりを記述した上で次の考察を加える。「わが国においては、人体各部のみを研究していたので、ヒポクラテスその他全ての真の医師が、深く観察した人体の全般またはその各部の相互関係の実践的知識を無視してしまった。これらの点から鑑みて中国人の医学がいかほど不完全で理屈に立たないとしても、その全体観には注意を引く価値がある。」
(前掲論文79頁より)

 ここで説明されているように、デュジャルダンは、日本と中国の外科医術が基礎としている、身体を部分ではなく、相互の影響関係と連関に基づいて捉えようとする全体論的身体観が、古代のヒポクラテス以降の伝統的な重要な視点であったにもかかわらず、当時のフランスをはじめとしたヨーロッパにおける医学において軽視(ないしは否定、忘却)されていることに警鐘を鳴らし、日本と中国の医学が科学的な理論に基づかない迷信的なものと批判しながらも、重要な視点を提供するものとして高く評価しています。こうした評価は、外科医術を単なる技術的側面からのみ捉えるのではなく、その背後にある自然観、身体観、それらを可能とする文化や風習までを考慮した上で、様々な地域と時代における外科医術を比較的に考察しようとする、著者のユニークな視点があってこそ、可能なものではないかと思われます。(ちなみに、本書では上掲で紹介されている外科医(Gecgua)の他に、内科医にあたる医者本道(Isiaphondo)、眼科医にあたる(Méesja)が紹介されています。)

 また、本書では、ライネを主要な典拠としながら、日本と中国における鍼灸治療について特に詳細に解説していることも注目すべきことです。ライネは、ライデン大学医学部で正規の学位を取得した当時のヨーロッパにおける最高水準の医学的知識と技術を有した医師で、オランダ商館付医師として1674年から76年にかけて日本に滞在しました。日本滞在中に多くの治療を行うと共に、日本の医学や植物についての研究を精力的に行い、離日後にそれらをまとめて発表しており、特に『関節炎論(Dissertatio de arthritide,...1683)』はヨーロッパにおける最初の本格的な鍼灸医療の紹介となり、ヨーロッパでの東洋医学への強い関心を引き起こしました。デュジャルダンは、ライネのこの著作や他の論文も参照しながら、鍼灸治療とその思想を詳細に解説しています。その一方で、ライネ以降の鍼灸治療のヨーロッパへの紹介として著名なケンペルの著作は参照した形跡がなく、これが、ケンペルの解説の不正確さをジャルタンが見抜いていたことによるものかどうかは判りませんが、多くの著作を参照、引用しながら慎重に論を進める著者の姿勢に鑑みると興味深い点と言えるでしょう。また、本書には、ライネの著作で掲載されていた日本と中国の鍼灸図を元に作成された図版が4点掲載されています。これらは、鍼灸治療を行うべき箇所を示した図で、中国と日本の外科医術の基礎であり、デュジャルダンが高く評価した全体論的身体観を視覚的に表現した図であったために、掲載されたものと思われます。これらの図以外に、本書に掲載されている図版は全くないことからも、日本と中国の医療に対するデュジャルダンの関心と評価の高さがうかがえます。

 日本や中国における鍼灸治療をヨーロッパに紹介した書物としては、上述のライネやクライアー、ケンペルらの書物が有名ですが、本書は、医学的側面だけでなく、その文化的背景にまで踏み込んで考察し、且つ古今東西の他の医学とその背景にある文化的側面とを連関させながら歴史的文脈において論じているという、他の書物にない独自の論考が含まれた大変興味深い書物と言えるものです。

タイトルページ。他のページと紙質が異なっており(区別は非常に難しいが)後年のファクシミリの可能性がある。
第1巻の前書き冒頭箇所。著者独自の視点が示されており大変興味深い。
序文冒頭箇所。
テキスト冒頭箇所。第一書の前半は、最古の人々の外科医術(フェニキア、アッシリア、エジプト、ギリシャ)などを解説している。
第一書の後半部分が、中国と日本の人々の外科医術の紹介となっている。
日本と中国の文化比較にまで踏み込んで外科医術の様相を紹介しており、先行文献を精緻に参照しながらも、著者独自の鋭い考察が展開されている。
「気(Ki)」を解説している箇所。
陽(yo あるいは yam)と陰(yn)の概念の説明と、身体を陰陽に分けて把握する独特の思考法を詳細に解説している。
中国と日本に特有の医者の分類として、外科医(Gecqua)と内科医にあたる医者本道(Isiaphondo)、眼科医にあたる(Méesja)が紹介されている。
ライネの著作を中心として鍼灸(Xin-kieu)が詳細に紹介されている。
中国の鍼灸治療を行うべき箇所を示した図。ライネの著作に範を取ったと思われる。
上掲図と同じ趣旨で背面から示した図。
日本の鍼灸を紹介した図版。灸を据えるべき場所を背面から示した図として掲載されている。
上掲図と同じ趣旨で前面から示した図。
巻末には索引が付されている。
当時の装丁、あるいはそれを残して補修を施したものと思われる。
三方の小口は赤く染められている。