書籍目録

『日本の神話』

ムニクウ / パジェス(序文)

『日本の神話』

(『東洋、アルジェリアと植民地雑誌』掲載記事を独立した書物として刊行したもの) 1863年 パリ刊

Mounicou. P(Pierre). / Pagés, Léon (preface).

MYTHOLOGIE JAPONAISE.

Paris, Benjamin Duprat, 1863. <AB2019117>

Sold

(Extrait de la Revue de l’orient, de l’Algérie et des Colonies.)

8vo(16.0 cm x 24.5 cm), pp.[1(Title.)-3], 4-30, Original paper wrappers.
旧蔵者の蔵書票が表紙裏に貼り付け、旧蔵機関の押印が表紙ににあり、タイトルページに旧蔵者のサインあり。背表紙を後年のテープで補修。テキストにはシミ、ヤケが見られるが、全体として良好な状態。

Information

「プティジャン版」第1号を手掛けたフランス人宣教師による日本書紀の解読

 本書は、幕末に来航した宣教師ムニクウ(pierre Mounicou, 1825 - 1871)によって著された『日本書紀』の批判的考察です。わずか30頁の小冊子ですが、ムニクウは、日仏修好通商条約の締結後に来日した最初期のカトリック宣教師の一人として、非常に重要な役割を果たしたことで知られていることから、彼による「日本の神学論」は、開国後最初期のカトリック布教活動においても極めて大きな影響力を有する書物であったと思われます。また、本書の冒頭には、フランスを代表する東洋学者、日本学者であったレオン・パジェス(Leon Pages, 1814-1886)による序文が寄せられており、日本研究としても高い評価を受けていたことがうかがえる興味深い小著です。

 ムニクウは、パリ外国宣教会の宣教師として1848年から6年にわたって香港で布教活動に従事する傍ら中国語の学習に努め、香港を訪れていた人物から日本語も学習していたと言われています。1856年に来日するフランス軍艦付き司祭として、函館を訪ね、一旦香港に帰港したのち、再び那覇へと向かい、同地で本格的に日本語の学習を開始します。日仏周航通商条約が締結された後の1860年にフランス領事通訳として横浜に入り、以後禁教下の日本における困難な布教活動に精力的に従事しました。ムニクウの功績として、特によく知られている横浜天主堂の建築指揮と並んで、漢語での布教書の出版活動が挙げられます。いわゆる「信徒発見」の当事者として知られるプティジャン(Bernard-Thadé Petitjean, 1829 - 1884)の名をとって「プティジャン版」と呼ばれる幕末から明治初期に刊行された60種を越える布教関係の書物群の嚆矢となった『聖教要理問答』(1865年)は、ムニクウが漢籍の教理書を日本向けに読み下したもので、プティジャンが司教となる(1866年、これ以降プティジャンは司教として出版物の出版許可を出す権限を有することになった)のに先駆けて出版されており、以後陸続と刊行されることになる同種出版物の先鞭をつけた書物として、非常に高く評価されています。また、後年1868年には、開校したばかりの神戸に赴き、教会と大聖堂の建築指揮に尽力し、その地で没する1871年まで神戸や大阪での布教活動の中心であり続けました。

 こうした幕末の日本におけるカトリック布教において極めて重要な役割を果たしたムニクウによって著された本書ですが、元々『東洋、アルジェリアと植民地雑誌(Revue de l'Orient et de L'Algérie et de colonies)』第15号(1863年2-3月号)に掲載された論考を、独立した書物として同年に改めて刊行したもので、内容は両者とも同一のようです(ただし、雑誌掲載論文には末尾に「1862年8月2日横浜にて」との記載あり)。ムニクウは、日本での布教活動を進めるためには、日本の宗教観、神学観に対する深い理解が必要と考えたものと思われ、その根幹をなす書物の一つとして『日本書紀』を選び、これを批判的に考察することが、本書の目的とされています。本書は、小著であったせいか、これまでほとんど知られることすらなかった文献のようですが、近年の研究において下記のように紹介されています。

「(前略)ムニクも日本に関する興味深い著書を残している。それは《Mythologie Japonaise》(「日本の神話」)と題された書物で、Revue de l’Orient, de l’Algérie et des Colonies(『東洋、アルジェリアと植民地雑誌』、第15巻)という雑誌の1863年1〜6月号(上述の通り、2-3月号の誤り;引用者注)に収められた記事である。(中略)フランスにおける日本学の先駆者レオン・パジェス(Léon Pagès, 1814-1886)による紹介のあと、ムニクの書簡によるその作業の意義、過程に関する説明、そして本題、といった構造になっている。この「日本の神話」をまとめてフランス語に翻訳してフランス人に紹介したムニクは、日本人の哲学・形而上学に対する劣等、中国に対する古代からの文化依存、そして「ミカド」の王朝の祖である神武天皇は実は孔子にほかならないという説、を証明しようとしていると述べている。
 本文は26ページで第1巻から第3巻まであり、『日本書紀』の最初の3巻に沿って「天地開闢」から「神武天皇」までの日本の神話をかなり詳しく述べているものである。ローマ字表記法のせいでなかなか分かりづらい名称も幾つかあるが、ほとんどの場合はかなり正確で細かい記述となっている。」
(Le Roux, Brendan 「幕末期に来日した二人の仏人宣教師の日本語ローマ字表記について」東京学芸大学大学院連合学校教育学研究科『学校教育学研究論集』第21号、2010年所収、100頁より)

 上記は、日本語研究の観点からの評価と言えるものですが、開国後初期の日本における布教活動に従事したムニクウが、布教活動のための日本理解の手引きの一つとして著したものですので、ムニクウの日本観を探る上でも重要な書物であることは間違いありません。ムニクウその人については、その貢献の大きさから非常によく知られている一方、彼が著していた書物についての言及はあまりなく、研究がそれほど進んでいないのではないかと思われます(本書の国内研究機関における所蔵は皆無と思われる)ので、その意味でも、1862年8月というムニクウが横浜で活動を始めた比較的初期、しかもプティジャン版の嚆矢となった『聖教要理問答』出版以前に著した書物として、本書はムニクウの日本観を理解するための、また初期の布教活動への影響を考える上での興味深い小著といえるでしょう。


「カトリックの場合は、パリ外国宣教協会が日本への宣教を志して1844年以来琉球で待機していたが、1858年10月19日(安政5年9月3日)に日仏修好通商条約が調印されると、翌年の9月ジラールがフランス総領事ベルクールの通訳として神奈川にやってきた。彼は実際には布教長としての任務を帯びており、1860年11月4日に横浜に到着したムニクーのともに、1862(文久2)年1月、横浜天主堂を建立して宣教師としての活動を開始した。その一環として1865年には、ムニクーがプティジャン版の最初に掲げることのできる『聖教要理問答』を出版している。(後略)」
(高祖敏明『本邦キリシタン布教関係資料1865-1873 プティジャン版集成解説』雄松堂、2012年、6,7頁より)


「ムニクウ Mounicou, Pierre 1825-1871 フランス人 キリスト教(パリ外国宣教会宣教師)
  1823年3月4日フランスのルールド近くのオザンで生まれた。サン・ペード・ビゴルの小神学校で学び、1848年3月18日司祭となった。翌年パリ外国宣教教会宣教師として香港に赴任。1856年フランス海軍の軍艦付き司祭として来日し、函館に上陸して傷病兵を見舞った。のち那覇に転じた。1860年ジラール神父が彼を横浜に招き、司祭館ならびに聖堂建築の監督を委任した。1868年1月開港直後の神戸に赴任し、居留地内に宣教師館を建設した。翌1869年には天主堂の建立に着手し、1870年4月に竣工させた。神戸三宮の「7つの御悲しみの聖母教会」がそれで、禁教下においてキリスト教布教には苦労した。1871年10月16日神戸三宮において死去し同教会の傍らに埋葬されたが、のち市内再度山修法ヶ原外人墓地に埋葬された。」
(竹内博編『来日西洋人名事典』日外アソシエーツ株式会社、1983年、441頁より)

見返しには旧蔵者による蔵書票がある。
タイトルページ
本文冒頭箇所。本書がムニクウより「東洋、アルジェリアと植民地雑誌」編集部に届けられた経緯と、本書の意図についてのムニクウの説明がある。
パジェスによる序文が続く。
テキスト第1部冒頭箇所。
テキスト第2部冒頭箇所。
テキスト第3部冒頭箇所。
刊行当時の紙装丁のままで、背部を布テープで補強してある。
(参考)左が、ムニクウの論考が掲載された、雑誌『東洋、アルジェリアと植民地』第15号(1863年2-3月号)。
巻頭論文がムニクウの論考となっている。
雑誌掲載論文の冒頭箇所。基本的に内容は同一のものと思われる。