この銅版画は、ロレーヌ公国が生んだ稀代の版画家ジャック・カロ(Jacques Callot, 1592 - 1635)が、いわゆる「二十六聖人殉教事件」を題材にして、長崎で刑に処せられた23人の殉教者を描いたものです。同事件を描いた版画作品の中でも「芸術的に最も優れた作品のひとつ」(越宏一「美術における日本26殉教者−その作品カタログ」『国立西洋美術館年報』第8巻、1972年所収、18頁)と言われるほど高い評価を受けた作品でありながら、国内での所蔵機関が極めて限られている、美術史上、キリシタン研究上において、非常に貴重な史料です。
版画家カロについては、日本国内でも歴史教科書の「三十年戦争」の記事で頻繁に掲載される「戦争の惨禍」がよく知られており、2014年には国立西洋美術館において大規模な特別展が開かれています。その展示目録(「中田明日佳ほか編『ジャック・カロ:リアリズムと奇想の劇場』(国立西洋美術館、2014年)では、カロについて下記のように端的に紹介されています。
「ジャック・カロ(1592ー1635)は、ロレーヌ公国(現在はフランスの一部)が生んだ西洋美術史を代表する版画家である。若い頃に赴いたイタリアでは、ローマ、次いでフィレンツェで修行したのちにメディチ家に仕え、1621年の帰郷後もロレーヌ公のみならず諸国の貴顕たちからも登用を受けるなど、華やかなキャリアを築いた。僅か40年あまりの生涯に残した作品は、現在知られるだけでも1400点以上にものぼる。カロは、それらの作品において、当時の社会の関心を掬い取りつつ、新奇なものも含めて多岐にわたる主題を取り上げた。そして、時に鋭く現実を見据え、時に奇想に溢れた世界を創り上げ、あるいはこのふたつの混淆する画面を斬新な表現を駆使しつつ構築してみせた。(後略)」
(中田明日佳「ジャック・カロ–リアリズムと奇想の劇場」上掲書所収、11頁より)
カロが、ロレーヌ公国から遠く離れた日本で起きた殉教事件を題材に選んだ背景には、ロレーヌにおける対抗宗教改革の熱狂的な高まり、特に聖人や、殉教に対する崇敬の念が高まっていたことがあるようです。1597年に長崎で26人の信者が処刑されたいう「大事件」は、フロイスによる報告をはじめとしてヨーロッパにすぐに伝えられ、大きな衝撃を与えたことで知られていますが、この事件で犠牲となった26人は、1627年と1629年に相次いで「福者」と認定され、教皇ウルバヌス8世によって列福されたことで、1627年以降には、事件を題材とした書物、版画、絵画が数多く作成されることになりました。こうしたムーブメントは、当然カロが当時活動の中心としていたロレーヌにも波及したものと思われ、こうした事情を背景に、カロは本図の作成に取り組んだものと考えられます。
本作品は、「二十六聖人殉教事件」を題材とする作品ですが、不思議なことに、描かれている人物の数を注意深く数えてみると23人と3人足りません。また、図下部のキャプションにおいても、「23人の殉教者(23 Martire)」と記されていることから、これがはっきりと意図されたものであることが分かります。これは、この事件で犠牲となった26人のうち、23人がフランシスコ会に属する人物で、3人がイエズス会に属する人物であったという事情に起因するものです。日本で最初に布教活動を開始し、修道会派の中でも最大規模を誇ったのはいうまでもなくイエズス会ですが、日本における布教活動をイエズス会が独占していることに不満を抱いた後発のフランシスコ会の日本進出が、殉教事件の一因になったことはよく知られています。秀吉による「バテレン追放連」によって緊張感が高まっていた日本で、フランシスコ会が大々的に布教活動を展開したことが殉教事件の一因ともなり、その結果、事件ではフランシスコ会に属する者が主として処刑の対象とされることになりました。事件の背景にあったイエズス会とフランシスコ会との緊張関係は、事件後も継続されたため、殉教事件の評価においては、犠牲者がいずれの修道会に属していたのかが大きな関心事となっており、先に触れた列福の時期が1627年と29年とに分かれているのも、フランシスコ会士23人が1627年に、イエズス会士が1629年とに分けて列福されたためです*。こうした両会派の緊張関係が影響して、事件を題材とした絵画、版画作品のほとんどは、本作品に限らず、フランシスコ会士とイエズス会士とを別個に扱っており、26名全員が主題となっている作品はむしろ非常に稀だと言われています。ですので、本作品において26人全員ではなく、フランシスコ会士23名しか描かれていないということは、ある意味一般的な作例として考えることができます。
*上記解説執筆後に、小俣ラポー日登美氏による非常に示唆に富む論文「聖性の創り方:いわゆる日本二十六聖人の列福過程(1627)」(名古屋大学文学研究科附属人類文化遺産テクスト学研究センター編『HERITEX』第3号、2020年所収)において、フランシスコ会士の列福を1627年とし、イエズス会士の列福を1629年とする見解が、列福制度成立過渡期の当時の列福過程に対する誤解に基づくものであると指摘されていることに気付きました。同論文によりますと、両会いずれの関係者も1627年に列福そのものはなされていたとのことです。ただし、この時には殉教者に対するミサと聖務日課を行える地域が限定されていたため、イエズス会士はイエズス会士の列福者の地域的限定解除を求め、それが認められたのが1629年ということです(同論文330頁、及び脚注165参照)。また、同論文ではイエズス会士がそもそも彼らを殉教者として認めること自体に積極的でなかったことやその背景、他修道会との対立状況なども詳細に論じられており、本書の意味を理解する上でも非常に重要な論文です。同氏による単著『ヨーロッパにおける日本宣教の殉教者ー遠き「インド」から学校演劇まで(16〜18世紀)』(Rappo, Hitomi Omata. Des Indes lointaines aux scénes des colléges: Les reflets des martyrs de la mission japonaise en Europe (XVIe - SVIIIe siécle)(Studia Oecumenica Friburgensia 101). Aschendorff Verlag, 2020. ISBN:9783402122112)も本書理解に不可欠な文献と思われます(店主取り寄せ中)(2020年12月追記)
また、上述の目録における本作品の解説(作品128番)によると、カロが活躍したロレーヌではフランシスコ会の活動が非常に活発だっただけでなく、カロの両親もフランシスコ会の聖堂に埋葬されるなど、カロ自身が同会との関係が深かったのではないかとされています。こうしたカロ自身の個人的事情も含めて鑑みますと、カロがフランシスコ会の依頼を受けてこの作品に取り組んだ背景と作品において23名しか描かれていないという事情は非常によく理解できるものと思われます。
さて、本作品は、事件を描いた数多くの絵画、銅版画作品の中でも極めて高い評価を受けていることで知られており、キリシタン研究においては当然のこと、美術史的な観点からも非常に重要な作品として位置づけられています。先述の越宏一による論文「美術における日本26殉教者−その作品カタログ」(『国立西洋美術館年報』第8巻、1972年所収)では、本作品の評価と、図像学的な解説が下記のようになされています。
「ナンシー(ロレーヌ)のフランシスコ会のために制作されたジャック・カロの一枚刷エッチング(国立西洋美術館蔵)も、そこに表された23殉教者たちがニンブスをつけているので、恐らく1627年の列福式を記念したものと思われる。この作品は、17世紀から今世紀に至るまで制作された数多くの、1597年の殉教者を表す作例中、芸術的に最も優れた作品のひとつであり、すでに当時から広くゆき渡っていたものと思われる。この作品において図像学的に注目されることは、棕櫚の枝と月桂冠とを殉教者たちに用意する天使ケルビムが洗者聖ヨハネに導かれていること、および、十字架を、他の多くの作例のように横一列に並べるのではなくて、二列に分けて遠近法的に重ねている点などである。これと同じような十字架の配し方は、すでに触れた1628年・ミラノ版のフロイスの著作(Luis Fróis. Relatione della gloriosa morte di XXVI..., Milan, 1628のこと;引用者注)に添えられたジョバンニ・ピエトロ・ビアキの銅版画や、北イタリアの画家タンツィオ・ダ・ヴァラロ(1635年頃歿)の油彩画にも見られるが、特に後者は、二列の十字架の中央に、1597年の殉教者の頭ペドロ・バプチスタを配する点でカロ作品により類似し、おそらくその影響を受けたと思われる。
カロの殉教図は殉教当時長崎にいた報告者たちの記述と必ずしも一致していないが、しかし却ってその故にこそ芸術的魅力を備えているともいえるだろう。(後略)」
(前掲論文18頁より)
「このエッチングは、ロレーヌ(ナンシー)のフランシスコ会のために制作されたもの(この修道会とカロとの関係については、E. Martin, J. Callot et l’ordre de Saint François, semaine religieuse du diocèse de Nancy, 1929 を参照)で、É. マールのいうように1627年の列福式後間もない頃の作品と考えられる。J. リウールは1628年の初め、Th. シュレーダーは1629年ごろの制作としている。レニングラード(エルミタージュ美術館)には、このエッチングのための部分習作のデッサンが4点残っている(D. Ternois, Catalogue de dessins de Jacques Callot, Paris 1962, 1102-1105; Th. Shröder, Jacques Callot, München 1971, Bd. 1, 651 を参照)。(中略)」
(前掲論文34頁より)
上記引用文中で指摘されている、「ニンブス」とは、磔刑に処せられている殉教者の頭部の背後に見える丸い輪のことで、キリスト教の図像において、聖性を象徴的に表すものとして描かれます。ニンブスは、福者や聖者を描く際に用いられますので、本作品の殉教者にニンブスが描かれていることは、すなわち本作品が、事件におけるフランシスコ会の殉教者23名が列福された1627年以後に制作されたことを意味しています。また、「棕櫚の枝」とは、常緑樹であることから、生命と繁栄のシンボルとされ、そこから転じて殉教者の勝利を表すものとして、殉教者を描く絵画作品で多く用いられているものです。同じく「月桂冠」も常緑樹である月桂樹で作られた冠のことで、勝利、栄光のシンボルとして用いられます。本作品の上部を見てみますと、月桂冠や棕櫚の枝を手にした多くの天使が、殉教する人々に向けて天上より無数の棕櫚の枝や月桂冠を舞降らせている姿を確認することができます。
このように、本作品は「日本二十六聖人殉教事件」を題材とした数ある版画、絵画作品の中でも極めて高く評価されており、後年の類似の作品にも強い影響を与えたことが指摘されていることがわかります。(なお、同論文では、カロの本作品と並ぶ「1597年の長崎の殉教者を表す最も優れた版画作品」として、イエズス会士3名の殉教場面を描いたボルスウェルト(Schette Adams Bolswett, 1581 - 1659)による作品(PRIMITIAE MARTYRUM SOCIETATIS IESU IN ECCLESIA JAPONICA…)が挙げられています(同論文、21頁, 46〜47頁参照)。)
ところで、同論文では、この作品の伝存に関することで、次のような非常に興味深い指摘がなされています。
「なお、本図は後に、アントニオ・フランシスコ・カルディム著『日本殉教精華』(ローマ・1646年刊)の挿図として使われたらしい(これについては J. Lieure, Jacques Callot, Paris 1927, V, 89参照)」(同上)
ここで言及されているカルディム(António Francisco Cardim, 1596? - 1659)の『日本殉教精華(Franciculus e Iapponicis floribus suo adhuc madentibus sanguine. 1646)』とは、17世期を代表するイエズス会士の著作家による、イエズス会士を中心とした殉教者の記録を主とした、多くの挿図と特徴的な日本図を収録する書物として、キリシタン研究において広く知られている書物のことです。この書物は、ポルトガル人のイエズス会士であるカルディムによる書物であることからも明らかなように、イエズス会の立場から認められた著作ですので、殉教事件におけるフランシスコ会士だけを描いたカロの作品を挿図として用いることは、非常に奇妙なことのように思えます。
しかしながら、カロの作品が含まれた『日本殉教精華』が存在することは間違いないようで、国内に所蔵されている複数の『日本殉教精華』を比較検討し、古書冊学的観点から論じた、森脇優紀・小島浩之「カルディン著『日本殉教精華』の古書冊学的研究(1)」(『東京大学経済学部資料室年報』第8号、2018年所収)において、国内に伝わる同書のうち、2点にのみカロの作品が挿入されているものがあることが報告されています。
「書店本A(調査当時に国内古書店が在庫していた1冊のこと;引用者注)は、第1部のタイトルページの後に、裏–表(版画の面)の順に挿入されている。一方、京都外大本は、第1部のタイトルページの後に、表–裏の順に挿入されている。(中略)
版画A(本作品のこと)が挿入されている例は、現時点では書店本Aと京都外大本のみであるため、本来挿入されるべき銅版画なのか否かは不明である。」(前掲論文50〜51頁より)
現存する『日本殉教精華』のうち、カロの作品を収録しているものは極めて稀だと思われますが、確かに存在しているようです。上掲論文ではカロとカルディムの交流関係の有無については不明とされていますが、この作品が制作されたと思われる1627年から29年頃、カルディムは布教活動のためヨーロッパを遠く離れていたはずですので、少なくともこの作品の制作に直接関与する余地はほとんどなかったものと思われます。また、カルディムの『日本殉教精華』が刊行されたのは1646年ですが、カロは1635年に亡くなっていますので、カロが『日本殉教精華』の刊行に関与したということはあり得ません。カルディムは1618年にインドに向かってから1645年にローマに一時帰国するまでヨーロッパに戻ることはありませんでしたので、両者が直接に本作品や『日本殉教精華』について話し合う機会があった可能性は限りなくゼロに近いと思われます。したがって、カロとカルディムとの両者の交流によって、『日本殉教精華』の中に本作品が収録されるようになったということは考えにくく、第三者が何らかの意図をもって行った可能性が高いと思われます。
いずれにせよ、カロの作品がフランシスコ会の依頼を受けて作成されたものであるのに対して、『日本殉教精華』が、イエズス会の出版物として刊行されていること、「日本二十六聖人殉教事件」が描く作例の大半が、フランシスコ会士とイエズス会士を別個に描いていること、これらに鑑みますと、たとえごく僅かとは言え、『日本殉教精華』にカロの作品を収録したものが確かに(しかも複数部数)存在しているということは、殉教事件に関する書物や版画作品の当時の受容や伝播のあり方、またイエズス会とフランシスコ会との対立関係の影響などを理解する上で、非常に興味深いことと言えるでしょう。
本作品は、非常に優れた作品として当時から高く評価されてきた一方で、それほど大きくない一枚刷の作品ということもあってか、現存するものは決して多くなく、その大半が各国の国立図書館、美術館、博物館に収蔵されているようです。国内研究機関では、国立西洋美術館が所蔵しているほか、前掲論文でも触れられているように『日本殉教精華』に収録されている形で京都外国語大学付属図書館が所蔵しているもの以外には、確認できないように見受けられます。「日本二十六聖人殉教事件」に関する当時から高い評価と影響力を有した作品でありながら、このように国内の所蔵が限られている現状に鑑みますと、本作品は、今後の研究の余地も大いに秘めた大変貴重な学術史料と言えるでしょう。