書籍目録

『日清戦争版画集』

バルブトー / 久保田米僊 / 梶田半古ほか

『日清戦争版画集』

1896年 東京刊

馬留武薫(Barboutau, Pierre) / Bei-Sen (Kubota) / Han-ko, Kajita…[et. al]

GUERRE SINO-JAPONAISE RECUEIL D’ESTAMPES.

Tokio(東京市築地居留地五十一番館 馬留武薫邸内), 圖畫出版部, 1896(明治廿九年五月二日印刷、五日発行). <AB2019108>

Sold

18.1 cm x 25.3 cm, 14 colored double pages numbered illustrations with 2 double pages illustrations, Folding book.

Information

「外国人」の視点を持ちつつ「日本のなか」から観られた日清戦争

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「この版画集は、日清戦争をめぐる歴史上有名な会談、戦闘場面、日本軍兵士のたてた武勲などをテーマに、見開き2頁で1枚になる14の錦絵を「折本」に仕立てた作品である。折本のサイズは縦横およそ25x18センチである。なおタイトル・ページはつけられていない。」
(高山晶『ピエール・バルブトー:知られざるオリエンタリスト』慶應義塾大学出版会、2008年、104頁より)

「この折本は1896(明治29)年5月、つまり戦後一年ほどたってから、欧米の美術愛好家のために製作された作品である。絵師がこの表紙を描いた日付を特定することはできないが、新聞の一面を飾って国威発揚にために描かれた多くの「戦争報道画」とは異なり、起った出来事をある程度距離をおいてみることのできる時間的な余裕はあっただろう。バルブトーのプロデュースした欧文草双紙には、同じ絵師、梶田半古が表紙を描いている『ラ・フォンテーヌ寓話選』『フロリアン寓話選』のように、表紙がその書物のいわばカタログを構成している傾向が見られる。書物の内容を凝縮して表しているのだ。『日清戦争版画集』の場合にも、7人の子どもたちのイメージを借りて、戦った日本と中国を表現しただけではなく、「三国干渉」のいわば当事者であったロシア・フランス・ドイツや、中立宣言で戦後の交渉に牽制球を投げたイギリス・アメリカを示唆して、日清戦争と戦後の和平会談をめぐる歴史的な展開までその表紙に描かれている、と読むことはできないだろうか。」
(前掲書、105, 106頁より)

「日清戦争は、1894年から1896年にかけてのバルブトーの日本滞在期間にちょうど重なっている。ある程度日本語を解したバルブトーは、この戦争を当時の日本のマスコミによる「大日本帝国」「大勝利」といった報道や「戦争法動画」への人々の熱狂的な支持を目にしながら「日本のなか」で、しかし「外国人」として、観ていたはずだ。この版画集の与えるある種の静謐さは、戦後およそ一年後という製作時期から来る「戦いの後の静けさ」のみではなく、「外国人」の視点を持ちつつ「日本のなか」からこの戦いを観た「著作者 馬留武薫」の、対象に対する微妙な距離感から来るものもあっただろう。そしてもう一つ、日章旗のひるがえっているような国威発揚的版画をあまり組み入れないことで、意図してアレンジされた「静けさ」もあって不思議ではない。(中略)日清戦争当時日本に滞在していたフランス人によってプロデュースされ、欧米の美術愛好家むけに製作されたこの「折本」は、数多い日清戦争版画集のなかでも移植の、そして特筆すべき作品となっている。バルブトーの監修した二つの欧文草双紙、1894年の『ラ・フォンテーヌ寓話選』、1895年の『フロリアン寓話選』と同様に、ブック・アード分野におけるジャポニズムの一例としても評価することができるだろう。
 なお、この版画集の版画には、二つの『寓話選』には見られなかったバルブトーの印章が捺されている。(中略)『寓話選』のケースのようにフラマリオン社の関与した形跡はなく、奥付の印刷所が「圖畫出版部 築地居留地五十一番館 馬留武薫邸内」となっていることからも、二つの『寓話選』とはちょっとちがう経緯で、しかも、欧米や日本の国公立図書館の所蔵している部数の少なさから推察すると、ごく限定的に出版された作品なのだろう。」
(前掲書、110, 111頁)

表紙
見返し
「日本特使の大島は、朝鮮の独立のため朝鮮使節同席のうえ、京城で清国政府の使者と会談した。苔石画」(前掲書108頁)
「半ば沈められた清国艦船、高陞号。研斎永年画。」(同上)
「牙山(朝鮮の要塞)における日本軍の偵察隊。久保田米僊画。」(同上)
「陥落前の平壌。研斎永年画。」(同上)
「日本軍兵士、原田十吉は内部から玄武門を開門するために平壌城の城壁をよじ登った。久保田米僊画。」(同上)
「黄海の大海戦。1894年9月17日、日本艦隊は清国艦隊と激戦を交えた。清国艦隊は7隻を失う。研斎永年画。」(同上)
「1894年10月24日、下士官、三宅兵吉は渡船の渡河援護のため、舫い綱を対岸につなぐ目的で鴨緑江を泳ぎ渡った。研斎永年画。」(同上)
「1894年10月29日、清国軍は鳳凰城砦に火をかけて撤退。研斎永年画。」(同上)
「金州城郭の景観。久保田米僊画。」(同上)
「旅順の市街戦。この戦闘は1894年11月21日に始まり、決着がついたのは翌朝であった。秋香画。」(同上)
「威海衛における日本軍偵察隊の騎兵。日本軍は1895年2月2日、一戦も交えることなく威海衛に入った。苔石画。」(前掲書109頁)
「1895年2月、牛荘城の激戦。研斎永年画。」(同上)
「膨湖島の景観。膨湖島北東に配備された砲台は1895年3月22日に占拠された。他の砲台も時を経ずして日本軍の手に落ちた。松亭画。(同上)
「清国政府特使、李鴻章と下関講和条約について談判する日本側代表。伊藤と陸奥。最後の会談は1895年4月16日に行われた。久保田米僊画。」(同上)
見返し
各画の解説と奥付。
裏表紙