書籍目録

「日本の有用な動植物について」

ヴィダル

「日本の有用な動植物について」

(順化協会紀要からの抜刷) 1875年 パリ刊

Vidal, M. Le Dr.

ANIMAUX ET PLANTES UTILES DU JAPON. NOTES ADRESSÈES EN RÉSPONSE AU QUESTIONNAIRE DE LA SOCIÉTÉ SUR LES PRODUCTIONS DE CE PAYS.

Paris, SIÉGE DE LA SIÉGE DE LA SOCIÉTÉ RUE DE LILLE RUE DE LILLE, 1875. <AB201993>

Sold

EXTRAIT DU BULLETIN DE LA SOCIÉTÉ D’ACCULIMATION.

14.8 cm x 23.0 cm, Title(Front cover), pp.[1], 2-45, 1 leaf(blank), Original paper wrappers.

Information

 本書の刊行を企画したのは、「順化協会(Société Nationale d'Acclimatation)」と呼ばれる協会で、これは世界中のあらゆる植民地の植生を調査するとともに、自国やヨーロッパの環境を理想像として、それらをより発展させつつ、植民地の環境を「改良」することを目的として調査、活動を行なっていました。フランス帝国主義を象徴する組織の一つとしても知られていますが、本書は、この「順化協会」紀要(第22号、1875年)において発表された論考を独立した書物として刊行したものです。

 協会の要請に答える形で行われた報告のようで、日本で供給が見込める動植物について簡潔に記されています。食用の動物として、哺乳類、鳥類、魚介類、甲殻類、昆虫類などを分類して報告していて、畜産動物については現状では供給がそれほど見込めない一方で、魚介類などについては比較的豊富である旨が述べられています。これに対して、植物の供給は豊富であるとして、食用、医薬用などの用途に用いることができる多くの農産物について述べています。また、逆に日本に導入することが望ましい品種についても論じており、これについてはごく最近まで日本が西洋諸国との関係を途絶していたため、一概に答えることは非常に困難であるとも述べています。著者の結論として、日本で我々(順化協会)が望むような動植物を得ることはきわめて困難であり、唯一それが可能と思われる方法は、開拓使(Kaïtakouchi)と交渉することではないかと思われると述べています。

 著者についての詳しいことについては不明ですが、フランスにおける日本の農産物や食料品に対する関心は当時から比較的高かったものと思われ、1878年のパリ万博ではこれらが数多く出品され、それらを網羅的に紹介する書物(Edouard, Méne. Des Productions végétales du japon. Paris, 1885)も、本書と同じ順化協会から刊行されています。

(追記)
著者ヴィダルについて、下記論文にて詳細に研究されていることがわかりましたので、伝記的事項について触れた箇所を引用して掲載しておきます。

「ジャン・ポール・イシドール・ヴィダル(Jean Paul Isidore Vidal)は、1830年2月21日にフランス南部のラングドック=ルション地方オード県サル・シュール・レルス村に生まれた。1848年にリール市で外科の研修を受け、1853年にモンペリエ大学医学部で博士号を取得した。その後、フランス陸軍に入隊し、軍医としてベトナムやアフリカなどの植民地に勤務した後、1867年、陸軍大尉で退役した。
 現在確認できている来日以前のヴィダルの動向は、1872年に中国・上海に在住していた事実が判明している。明治5年(1872)7月17日に、アメリカ船で来日したことが確認されており、横浜居留地20番Cに身を落ち着けて、日本での活動を開始したことが知られている。
 明治6年(1873)1月1日から、林欽次(正十郎)により、東京・芝愛宕町に設立されたフランス語と農学を専門とする迎礒塾にフランス語教師として勤務している。(中略)
 明治6年5月、横浜で新潟町戸長の鈴木長蔵から新たに設立される医学校併設の病院の医学教師への就任要請を受け、翌6月に初代外国人医学教師として赴任した。(中略)
 ヴィダルは創設期にある新潟病院の教育面における基盤確立に大きな役割を果たし、明治7年(1874)5月まで勤務した。5月10日、多くの人達に送られて、新潟の地を離れて、次の赴任地である富岡には5月24日に到着したが、F・E・マイエの後任医師として正式な富岡製糸場着任準備のため、翌日には東京へと向かっている。富岡製糸場には明治8年(1875)12月まで勤務したが、首長ポール・ブリュウナの退任に伴い、その職を辞している。
 富岡を離れた後は、横浜のフランス公使館付医師を務めていたが、明治9年(1876)2月からは、横須賀造船所の医師である、P・A・L・サバチェの後任として、明治11年(1878)4月まで勤務したことが『横須賀海軍船廠史 』に記録されている。
 横須賀造船所を離れた後は、フランスに帰国し、一時郷里で開業をしたが、やがてマゼールに移り、1896年1月1日に死去したと伝えられている。」

(須長泰一 「フランス人医師が見た明治初期の日本:私立新潟病院初代外国人医学教師ヴィダルの旅行記「新潟から江戸へ(日本)」『日本医学士雑誌』第49巻第3号、2003年所収、502-503頁より)