書籍目録

『イエズス会による日本諸島についての短報(1577年報告)』

フロイス / オルガンティノ / ステファノ / カブラル

『イエズス会による日本諸島についての短報(1577年報告)』

ラテン語訳初版 1582年 ケルン刊

Fróis, Luís / Organitino Gnecchi-Soldo / Stephanoni, Giovanni Francesco / Cabral, Francesco.

BREVIS IAPANIAE INSVLAE DESCRI-PTIO, AC RERVM QVARVNDAM IN EA MIRA. bilium, a Patribus Societatis IE-SV super gestarum, suc-cincta narratio…

Colonia Agrippinae(Köln), Officina Birckmannica, CIƆ. IƆ. LXXXII(1582). <AB201978>

Sold

First edition in Latin.

8vo (9.5 cm x 14.8 cm), Title., 3 unnumbered leaves, 44 numbered(3-46) leaves, Modern vellum bound.
(Alt Japan Katalog: 408)

Information

1577年の大友家家臣の改宗をめぐる騒動や、近畿での好調な布教状況を詳細に記した書簡集

 本書は、日本に滞在していたイエズス会士が1577年の出来事について記した書簡を集めたものです。イエズス会は世界中に宣教師を派遣して伝道活動を強化すると共に、現地の宣教師から定期的に報告書を書簡で送ることを命じており、それらを刊行することで、後続人材の士気を鼓舞し、またヨーロッパにおけるカトリック復興の機運を高めることを意図していました。1577年の日本についての報告書は、まず1579年にイタリア語版(Lettere del Giappone dell’anno M D LXXVII …)が刊行されていて、本書はそれをラテン語に翻訳してケルンで刊行したものです。大友氏が治める豊後における宣教状況や、大友家と家臣内におけるキリスト教の是非をめぐる激しい対立の様子、京都や大阪での順調な布教状況などについて、実際に当地で活動していた宣教師が残した豊かな記録は、日本側資料とあわせ読むことで、当時の日本社会の状況を理解する上で非常に重要な資料となるものばかりです。

 本書には全部で6通の書簡が収録されていますが、そのうちの大半を占める5通が日本関係書簡となっています。収録されている日本関係書簡は、下記の通りです。

①フロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)による豊後(Bongo)発1577年6月8日付書簡(冒頭から32葉まで)
②同氏による短報(33葉まで)

③オルガンティノ(Organitno Gnecchi-Soldo, 1533 - 1609)による京都(都、Meaco)発1577年9月20日付書簡(37葉まで)

④ステファノ(Giovanni Francesco Stephanoni, 1540 - 1603)による三箇(Sanga)発1577年8月付書簡(39葉まで)

⑤カブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)による口之津(Cocinocui)発1577年9月付書簡(44葉まで)

 上記5書簡のうち、最も多くの分量を占めているのが、①②のフロイスによる書簡で、当時彼が滞在していた大友宗麟が治める豊後地方の状況について詳細に記されています。書簡中で大きな話題となっているのが、大友宗麟の正室である奈多夫人の兄弟である田原親賢の養子親虎(Cicatora)のキリスト教への改宗の是非をめぐる騒動についてです。田原親賢の養子である親虎は、聡明で文武に秀でた将来を嘱望される若者として、大友家家臣団の中でも重きをなしていた田原家の後継者、そして大友宗麟と奈多夫人との娘との婚約が約束されていました。田原親賢は、大友宗麟の信頼の厚い家臣である一方で、奈多夫人と並んでキリスト教を酷く嫌悪していたことでも知られていますが、親賢が半分冗談で、親虎に教会で説教を聞くことをすすめたところ、思いがけず親虎はキリスト教の教えに深く感銘を受け、改宗を強く望むようになってしまいます。親賢は奈多夫人とも協力して、なんとか親虎の改宗を食い止めようとしますが、親虎はこれを断固として拒絶したために、大友家と家臣団を巻き込む騒動に発展していきます。騒動は、業を煮やした親賢によるイエズス会関連施設の襲撃の一歩手前となったところで、大友宗麟が介入しなんとか武力衝突事件に至ることは免れましたが、親虎は田原家の相続権と宗麟の娘との婚約を放棄させられることになりました。また、この事件には、大友宗麟の次男である大友親家が深く関与しており、親家は前年のキリスト教改宗をめぐって、実母である奈多夫人と深刻な対立関係にあったことから、この時に生じた大友家内部の分裂が一層深刻なものとなりました。フロイスは、この事件を最も間近で見聞し(直接関与もした)関係者の一人で、この書簡には彼の視点から見た事件の経過が詳細に綴られています。

 大友親家の改宗が引き起こした騒動については、本書の前のイエズス会日本報告書(Lettere del Giapone de gli 74, 75, & 76…1578)において、カブラルが詳細に報告しており、本書はカブラル報告に続く、日本の為政者階層にある高位人物の改宗をめぐる一連の騒動の重要な記録ということができます。また、フロイスはこの騒動については後年の『日本史』においても詳細に論じていますが、騒動当時に書かれた本書の記述内容と、後年の推移を見聞した上で改めて記された『日本史』中における当該記事における記述内容は、看過し得ない相違点が見られることから、フロイスの騒動と関係者に対する評価の変遷を理解する上でも、本書の記述は重要なものと言えます。

 ③④は、京都や大阪の機内における布教状況が順調に進みつつあることを報告したもので、「うるがんばてれん(宇留岸伴天連)」の愛称で呼ばれ、多くの日本人に慕われました。織田信長にも重用されたほか、豊臣秀吉とも交流が深い宣教師でもあったオルンガンティノを中心とした当時の機内の布教活動は、紆余曲折を経ながらも極めて順調に進んでおり、前年の夏には京都で教会(いわゆる被昇天の聖母教会)が建立されていますので、ヴァリニャーノ来日以前の一つのピークを迎えつつあった畿内の布教と社会状況や、イエズス会と信長との関係等を理解する上での最重要文献となりうるものです。

 最後の⑤の書簡を認めたカブラルは、1570年から日本での宣教活動を率いる立場にあり、同年日本に赴いたオルガンティノ(Organitno Gnecchi-Soldo, 1533 - 1609)と共に1570年代の日本宣教活動の中心を担っていた人物です。オルガンティノや後任のヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)が採用したような、布教先の現地文化への順応を是とするいわゆる「適応主義」とは反対に、ヨーロッパ「本来の」教義と布教を徹底することを重んじる方針をとったことで知られており、あからさまな日本に住む人々や文化に対する蔑視的な見方があったとされている人物で、これにより後任のヴァリニャーノに更迭されることになりました。しかしながら、布教活動そのものには非常に熱心で、人員の配置や布教体制の充実を図るだけでなく、自らも各地を訪れ精力的に活動を行っており、各地の事情の把握に努めていたことが、本書簡からも窺い知ることができます。

 本書は、ラテン語に翻訳されたものですが、ドイツ語圏であるケルンにおいて刊行されており、同地域における日本関係欧文刊行資料の初期文献としても高く評価されているものです。近年では古書市場に流通することもほとんどなかったことに鑑みても、本書のように状態の良い一冊は極めて貴重です。

①フロイス(Luís Fróis, 1532 - 1597)による豊後(Bongo)発1577年6月8日付書簡(冒頭から32葉まで)
①末尾
②同氏による短報(33葉まで)
③オルガンティノ(Organitno Gnecchi-Soldo, 1533 - 1609)による京都(都、Meaco)発1577年9月20日付書簡(37葉まで)
③末尾と、④ステファノ(Giovanni Francesco Stephanoni, 1540 - 1603)による三箇(Sanga)発1577年8月付書簡(39葉まで)
④末尾と、⑤カブラル(Francisco Cabral, 1529 - 1609)による口之津(Cocinocui)発1577年9月付書簡(44葉まで)
後年のヴエラム装丁が施されており、状態は良好。