この絵巻物は、文化甲子(きのえね)年、すなわち1804年に長崎に来航したロシア遣日使節団の主だった人物を描いたもので、初期の日ロ交流において日本側が残した視覚資料として大変興味深いものです。公式の日ロ交流の発端となったのは、1789年に根室に来航したラスクマン(Adam Laxman, 1766 - ?)使節団で、日本の漂流民で10年近くロシア領内に滞在していた大黒屋光太夫らを日本に送還する名目で、日本との通商関係樹立を求めてやってきました。この際、日本側は交渉には応じず、国書の受け取りを拒否したものの、正式に交渉を求める際には長崎に改めて来航するよう求め、長崎入港を許可する信牌をラクスマンに渡しています。ラクスマンはこの信牌を持って帰国し、続く使節団が送られるはずでしたが、フランス革命に伴うヨーロッパの混乱もあって、二度目の遣日使節の派遣が遅れ、ようやく1804年にレザノフ(Nikolai Petrovich rezanov, 1764 - 1807)が、クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern, 1770 - 1846)によるロシア発の世界周航と合わせて、遣日使節として長崎を訪れることになりました。この絵巻物は、レザノフやクルーゼンシュテルンといった主だったロシア人使節一行と、その服装、装備を彩色で描いたものです。
レザノフによる長崎来航については、大槻玄沢が、送還された漂流民である津大夫からロシア国内の事情なども含めて聞き取り、自身の蘭学の知見を加えることで『環海異聞』という書物にまとめており、この中にレザノフをはじめとした使節一行を描いた絵が含まれています。『環海異聞』は、様々な形でその写本が作成されたことでも知られており、レザノフら使節一行を描いた絵も当時それなりに流通したものと考えられています。この絵巻物も、おそらく元は写本の形で流布したこうした文献の一つだったと思われ、それが後年巻物の形に設えられたものと考えられます。
ただし、現存する『環海異聞』それぞれの写本は、それを筆写した人物の(学問的、絵画的)力量や、底本とした写本の品質によって、その出来栄えに大きな差があるだけでなく、収録されている絵の点数、構図、色彩にも違いがあるため、同じ『環海異聞』、あるいはそれに範をとったと思われる類書といっても、かなりの違いがあります。この絵巻物についていえば、用いられている紙の質の高さ、描かれた図の技巧の度合いや彩色の丁寧さなどから推察する限り、相応の力量を持った者が、一定の地位にある人物のために作成されたのではないかと思われます。また、この絵巻物で、それ以上に大変興味深いことは、ロシア初の世界周航を達成した艦長クルーゼンシュテルン(「船長クルウセンステル」)が描かれていることです。レザノフやその従者については、『環海異聞』やこれに類する各種資料のほとんどにおいて(絵のレベルに相違があるとはいえ)描かれていますが、クルーゼンシュテルンを描いている資料で伝わっているものは極端に少なく、早稲田大学図書館が所蔵する『文化元年魯西亜国使節団』や市立函館図書館が所蔵する『異国人之絵』など、ごくわずかではないかと思われます。また、この絵巻物に描かれているクルーゼンシュテルンは赤い長手のコートのような衣服をまとった姿で描かれていて、『文化元年魯西亜国使節団』や『異国人之絵』に描かれているクルーゼンシュテルンの姿とも異なっています。
数多く現存する『環海異聞』やそれに関連する資料は、初期の日ロ交流とそれが当時の日本社会に与えた影響の大きさを物語る資料として、いずれもが大変貴重な資料と言えるものですが、その中でもこの絵巻物は、その品質の高さだけでなく、類似資料ではあまり見ることのできないクルーゼンシュテルンをも描いているという点で、非常に興味深い資料ということができるでしょう。
なお、レザノフによる通商関係樹立交渉は、日本側の体制変更の影響もあって、半年以上長崎に留め置かれたあげく、ほとんど何も成果を上げることができず、レザノフは失意のうちに日本を離れることになりました。このことは、その後ロシア極東関係者の一部がサハリンなどを襲撃するといういわゆる「フヴォストフ事件」を引き起こす遠因となり、日本側のロシアに対する危機感を急速に高め「ゴローニン事件」に至ることとなります。