書籍目録

「日本の酒」/「日本の醤油」/「日本語彙集」

ティツィング

「日本の酒」/「日本の醤油」/「日本語彙集」

(雑誌『バタヴィア学芸協会論叢』第3号から) (1787年) (ロッテルダム / アムステルダム刊)

Titsingh, Isaac.

BEREIDING VAN DE SACKI. / BEREIDING VAN DE SOYA. / EENIGE JAPANSCHE WOORDEN.

(Rotterdam / Amsterdam), (Reiner Arrenberg) / (Johannes Allart), (MDCCLXXXVII. 1787). <AB201946>

Sold

(Extracted from Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Wetenschappen. 3de deel, 1787)

8vo (14.0 cm x 22.5 cm), pp.[237], 238-254, 155(i.e.255), 256-270, Modern paper wrappers.
Cordier: 448.

Information

ティツィングの生前唯一の公刊論文

 本書は、ティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)が日本の酒と醤油の製法、日本語彙について論じた小論集で、雑誌『バタヴィア学芸協会論叢(Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Wetenschappen.Verhandelingen van het Bataviaasch Genootschap der Kunsten en Wetenschappen) 』の第3号(1781年)に掲載された記事です。ティツィングが生前に発表したおそらく唯一の論考であるだけでなく、日本酒と醤油といったユニークなテーマを取り上げており、またティツィングによる日本語研究の一端を垣間見ることができる日本語彙集といった非常に興味深い主題が論じられていることからも、日本研究文献として重要と思われるものです。


 著者ティツィングは、アムステルダムで外科医となった後、ライデン大学で法学を修め、1765年にオランダ東インド会社の商務員としてバタフィアに派遣され、1779年8月から1784年11月までの間、3度、述べ3年半にわたって日本商館長を務めました。ティツィングが日本商館長を務めた時期は、いわゆる「田沼時代」と称される政治的に寛容な時代であり、蘭学勃興期にあたる時期でもありました。商館長在任当時から、多くの日本人と学術交流を深め、膨大な書物や美術品、地図を蒐集し、しかも後のシーボルトと異なり、幕府から正式にそれらをヨーロッパに持ち帰る許可までをも得ています。離日後の1785年から1792年の間は、オランダ東インド会社のベンガル貿易総監を務め、その後同社評議会員外参事としてバタフィアに赴任し、遣清大使を務めたことで、日清双方の宮廷を訪問した稀有なヨーロッパ人となりました。

 ティツィングは日本滞在時から蒐集を続けていたコレクションと、それらを用いた様々な日本に関する論説を執筆しましたが、それらは生前ほとんど刊行されることはありませんでした。ティツィングが生前刊行物として発表したのは、店主の知る限り本書の他にはありません。

 この論文が掲載された雑誌『バタヴィア学芸協会論叢』は、東インド植民地や交易地の学術研究を推進し、オランダ東インド会社の利益増大に貢献することを目的にバタヴィア政庁が支援して1778年に設立された「バタヴィア学芸協会(Bataviaasch genootschap van kunsten en wetenschappen)」の機関誌として発行されていた雑誌で、ティツィングが日本に滞在していた時期に当たる1779年に創刊されています。

 ティツィングは、本書において酒と醤油の醸造方法や利用法などを論じていますが、単に醸造方法だけを論じるのではなく、日本において酒が発見されたとされる物語や語源の考察も行なっており、多方面にわたる日本研究を重ねたティツィングならでは射程の広さを感じさせるものです。3本目の日本語の語彙については、アルファベット順に、オランダ語を左に、それに対応する日本語を右に掲載する形で列挙しています。これらの語彙集はティツィングの日本語理解の水準を図ることができるだけでなく、当時の(おそらく長崎を中心とした)日本語の発音や、そのローマ字への転写の仕方を知ることができる、日本語研究資料として非常に貴重なものと思われます。

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