書籍目録

『日本文典』

ホフマン

『日本文典』

初版(英語版) 1868年 ライデン刊

Hofmann, J(Johann). J(Joseph).

A JAPANESE GRAMMAR.

Leiden, (PRINTED BY)A. W. Sythoff (WITH THE GOVERNMENT CHINESE AND JAPANESE TYPES) (SOLD BY) E. J. Brill (AND A. W. Sythoff), 1868. <AB201945>

Sold

First edition in Englilsh.

Large 8vo (17.0 cm x 26.2 cm), Half Title., Title., 5 leaves, pp.[1], 2-348, 2 leaves(APPENDIX & ADDENDA), 1 leaf(Blank), Modern green three-quarter calf on cloth boards.
旧蔵機関の蔵書印が随所にある。一部の紙端に破れ、汚れが見られるが、テキストの欠損なし。

Information

「19世紀半ばに樹立された外国人による日本語学の中の金字塔」

 本書は、シーボルトの弟子で当時のオランダのみならず、ヨーロッパを代表する東洋学者であったホフマン(Johann Joseph Hoffmann, 1805 - 1878)による日本語文法書で、ヨーロッパにおける日本語研究の一つの金字塔とも言える記念すべき著作です。ホフマンは、終生日本を訪れることはありませんでしたが、シーボルトが持ち帰った日本語書物から日本語を独自の方法で研究、習得し、ライデン大学の初代日本語教授となった驚くべき人物で、彼の日本語研究の集大成としてまとめ上げられた書物が本書です。オランダ語版(Japansche Spraakleer)英語版とがほぼ同時にいずれも部数限定で1868年に出版されており、本書は英語版に当たります。出版社はオランダを代表する東洋学研究の出版社であったセイトホフ(Sithoff)社で印刷され、同じく東洋学研究を代表するライデンの出版社ブリル(Brill)社との共同で販売されており、この点も、両社はライデンにおける日本研究をはじめとした東洋学研究の重要な知的結節点となっていた出版社であることから、注目すべき点です。

 ホフマンは、優れた音感の持ち主で声楽の才に恵まれていたと言われており、元々はオペラ歌手を目指していたと言われています。その彼が、日本からライデンへの帰国の途にあったシーボルトとアントワープのホテルで偶然出会ったことをきっかけに東洋学研究の道に入り、日本語研究を開始することになりました。シーボルトの様々な研究に協力する傍らで研鑽を続けた日本語研究は当代随一のものとなり、オランダ政府の日本語翻訳官に任命され、1855年にライデン大学に設置された日本語学講座の初代教授に就任しています。1857年にはオランダ最後の出島商館長となったクルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius, 1813 - 1879) による現地での日本語研究成果をまとめた草稿の編纂を依頼され、これを大幅に増補、修正して『日本文法試論(Proeve eener Japansche Spraakkunst, 1857)』を刊行しています。1862年にヨーロッパ諸国を歴訪したいわゆる文久遣欧使節団がオランダを訪れた際には、通訳として活躍しており、ウィレム国王(Willem III, 1817 - 1890)と使節の謁見時に両国式辞の翻訳も行っています。また、日本からの留学生である西周と津田真道の案内やフィッセリング(Simon Vissering, 1818 - 1888)への仲介役にもなっています(津田は本書にも協力)。こうした日本語話者との直接交流を通じて、ホフマンは自身の日本語能力、研究をさらに高め、それらの成果を集約した著作として、本書を著しました。

 本書については、これまでも様々な研究がすでになされてきていますが、杉本つとむ『西洋人の日本語発見:外国人の日本語研究史』(講談社学術文庫版、2008年)では、次のようにその内容が紹介されています。

「品詞としては名詞以下、代名詞、形容詞、数(数詞)、副詞、動詞、接続詞、関係表現の語(後置詞)、8品詞の分類となっている。とりわけ、動詞、形容詞に関する記述が130ページほどと全体の6割をしめる。これには日本文法でいう助動詞や敬語・丁寧語といった特殊な動詞を取りたてて論じているからで、質量ともに多くなっている。〈助動詞〉は動詞の語尾・接尾辞として扱っている。これは当時の日本の国学者の中にも同様の見解をもつ。
 ホフマンの場合、やはり〈動詞論・形容詞論〉が特に興味あるところながら、〈序論〉(約45ページ)も、クルチゥスの『日本文法試論』の〈緒論〉にのべた自説とも関連があって注目される。まず〈前書き〉で、この日本語文典が〈少しも他人のものを改変したり、模倣したりしたものではない独創的なものである〉こと、〈多年、日本文学を研究した結果として、現代におけると同じく過去の書きことば、文語をあるがままに記述した〉ことをのべる。また当時、フランス、イギリス、とりわけオランダに滞在の日本人と交渉をもつことで、話しことばを観察したことものべる。この日本人とは西周(1829〜97)や榎本武揚(釜次郎。1836〜1908)など、幕末の遣欧留学生や遣欧使節団の随行員などをさす。」(前掲書217,8頁)

「〈序論〉はホフマンの日本語観を示し、内容的につぎのような点をのべている。〈日本とシナの言語交渉、日本語研究にシナ語研究の必要なこと、書記体系の考察、日本語にはいったシナ語、シナ語の書記体系の日本語への応用、そうした中から創造された日本独自の文字体系、片仮名や平仮名、日本語の音声体系と文字、イロハ47音と文字、表記上の記号、子音の観察、アクセントとリズム、一般的な平仮名のこと/書きことば、日本語の中のシナ語、翻訳されたシナ書、日本語の書物、古代日本語と現代日本語、話しことば、会話、方言、手紙の文体、品詞、語の排列構成〉など、考察は豊かである。
 まことにバラエティーに富み、豊かな日本語の世界を描いている。ことに文語と口語、古代日本語と現代日本語という史的観点からの考察など、他の研究者の追随を許さぬところであろう。」(前掲書220,1頁)

 このように、本書は西洋人による日本語研究書としてこれまでも非常に高い評価を受けてきており、「19世紀半ばに樹立された外国人による日本語学の中の金字塔」(前掲書264頁)とまで言われています。

 また、本書を印刷したセイトホフ社は、ライデン出身で、19世紀後半から20世紀初めにかけての出版業、書店業の中心的役割を果たしたことで知られるセイトホフ(Albertus Willem Sijthoff, 1829 - 1913)による出版社で、ライデン大学との関わりが極めて深く、その関係で日本を含めたアジア研究の文献も数多く出版していました。

「「A.W.セイトホフ社(ドゥーザスラート1番)
 A.W.セイトホフ(1829-1913)の印刷所、出版所、書店があった場所。1852年、セイトホフはこの地に建物を新築、印刷所を開くとともに、本のイラストレーター養成のため木口木版学校も併設した。印刷所跡には現在、セイトホフ文化交流センターがある。
 19世紀末、オランダの印刷所と言えばセイトホフであり、セイトホフの名前は品質の証であった。新聞刊行も手がけ、1860年3月からライデン日刊を刊行、1867年のパリ万国博覧会でデルカンブレの植字・解版機を目にすると、それを即注、同年11月には国内で初めて導入している。」
(日本博物館シーボルトハウス編『ライデンと日本:散策ガイド』日本博物館シーボルトハウス、2017年、44頁より)

 セイトホフ社と共同で販売を担当したブリル社もセイトホフ社と同じくライデンを代表する出版社で、特に東洋学研究を専門とする出版社として知られており、現在も質の高い学術書を精力的に出版しています。

「E.J.ブリル社(アウデライン33A番)
E.J.ブリル(1848-1871)社が1838年から1985年まで会社を構えた場所。ブリル社の前身は1683年創業のルフトマンス社で、ライデン市とライデン大学の正式な出版局であった。しかし後継に困ると、1848年からは元従業員のE.J.ブリルが社名を「ブリル」に改め、引き続き会社を牽引した。1871年ブリルが急死すると、遺族は会社を売却、新しくオーナーとなったA.ファン=オールトとF.デ=スットッペラールの2人の若者は社名を「E.J.ブリル」として、とりわけ「東洋学」の分野で出版界をリードするようになった。このアウデラインに転移したのは、ちょうどその頃である。」(前掲書、56頁より)

 ホフマンはライデン大学日本語教授として、両社と深い関係にあり、漢字や仮名文字の金属活字の作成を依頼して、「ホフマン活字」と呼ばれる日本、中国研究の出版に欠かせない重要な役割を果たす活字となりました。本書でもこれらを採用しており、多くの日本語、漢字の活字を見ることができます。ライデンにおける日本学をはじめとした東洋学研究は、ライデン大学とセイトホフ社、ライデン社といった出版社を中心にして行われており、西や津田が教授を受けていたフィッセリングの自宅や津田の下宿先もこれらのすぐ近くにあり、その知的コミュニティの結びつきの強さが伺えます。本書は、こうした当時の東洋学研究や日本人留学生が結びついたライデンの知的営みの結集として出版されており、その意味でも、極めて重要な書物ということができます。

タイトルページ。オランダ国家政策の一環として本書が刊行されていることを記す。
『日本文典』1868年にオランダ語版と本書である英語版がほぼ同時に出版されている。
序文冒頭箇所。本書の独自性や、書き言葉だけでなく、日本語話者との直接の交流から得られた口語の知見も本書に反映されていることなどを述べている。
序論冒頭箇所。
日本の書物では、中国語由来の漢字と日本のかな文字とが混合されていることを具体的な例をあげながら説明している。
数字の解説
度量衡や時間についての解説もある。
後年のものと思われる再装丁が施されている。
(参考)ライデン大学にあるホフマンの肖像画(金箔の背景の肖像画がホフマンのもの)。論文口頭試問やセレモニーなど、ライデン大学にとって非常に重要な行事にのみ用いられる特別な部屋に、大学の知的伝統を代表する他の学者らと並んで今も掲げられている。
(参考)本書の印刷元であるセイトホフ社の建物は現存しており、現在は文化センター兼カフェとして活用されている。ライデン大学からも至近の距離にある。
(参考)セイトホフ社と共同で販売を行ったブリル社の建物もライデン市内に現存している。ただし、この建物にブリル社が移ったのは本書刊行後しばらくしてからのこと。何れにしてもライデン大学やセイトホフ社のすぐ近くである。