書籍目録

『インド群島、中国、日本近海水路誌』

フィンドレー

『インド群島、中国、日本近海水路誌』

初版 1870年 ロンドン刊

Findlay, Alexander George.

A DIRECTORY FOR THE NAVIGATION OF THE INDIAN ARCHIPELAGO, CHINA, AND JAPAN, FROM THE STRAITS OF MALACCA AND SUNDA, AND THE PASSAGES EAST OF JAPAN, TO CANTON, SHANGHAI, THE Yellow Sea, AND JAPAN, WITH DESCRIPTIONS OF THE WINDS, MONSOONS, AND CURRENTS, AND.

London, (Published for) Richard Holmes Laurie, 1870. <AB201943>

Sold

First edition.

4to (14.8 cm x 24.7 cm), Folded 2 maps, pp.[I(Title.)-iii], iv-xliii(Verso: ADDENDA), pp.[1], 2-817, 118[I.e.818], 819-980, 781[I.e.981], 982-1103(Verso: blank), Title. of Supplement(JAPANESE ARCHIPELAGO), pp.[1105], 1106-1202, (some folded) Maps: [7], Original embossed purple leather boards.
ところどころページが外れかけていたり、破れがある箇所があるが、テキストそのものは欠落なし。見返し部分やテキスト余白のごく一部に書き込みあり。見返しノド部分にイタミあり。

Information

明治初期に日本近海を航海した多くの船舶が海図と共に用いていたと思われる水路情報誌

 本書は、明治に入って間もない1870年に刊行された、日本を含めた東アジア、東南アジア海域の航行に際して必要とされる情報をまとめた水路誌で、当時最も信頼できる権威ある情報源として、当時の多くの船舶に備えられていたと思われる書物です。1878年に第2版、1889年に第3版と改訂版が出されています。

 著者であるフィンドレー(Alexander George Findlay, 1812 - 1875)は、当時世界最大の海洋帝国を築いていた大英帝国を代表する海事情報出版のパイオニアで、海事関係を中心とした著作を精力的に数多く出版しています。大英帝国を代表するということはつまり、世界で最も信頼できる海事関係の情報源となっていたということができ、その意味において、彼の著作が当時の航海事情にもたらした影響は実に多大なものがありました。王室地理学協会のフェロー会員であったことが示すように、フィンドレーの海図製作者としての評価は極めて高く、当時のほとんどの航海士が彼の著作の影響を受けていたのではないかと思われます。フィンドレーによる海事関係の出版物は、海図、水路誌をはじめとして、灯台設備に関するものも含まれており、世界のあらゆる地域、あらゆる関連する事項を扱っています。本書の出版社であるローリー社(Richard Holmes Laurie)は、18世紀に遡る歴史を有する、地図、海図出版を中心に活躍していた老舗ですが、1858年にフィンドレー自身がローリー社の事業を継承しており、フィンドレー自身と彼による企画著作は全てこのローリー社から出版されています。

 フィンドレーは、本書の扱う海域が、イギリス東インド会社をはじめとしたヨーロッパ諸国の多くの船舶が航行していた、希望峰をまわってインド洋へと至る海域に続くものであることを述べています。インド洋までの海域については、フィンドレーはすでに『インド洋水路誌(A Directory for the Navigation of the Indian Ocean, 1866)』を刊行しており、本書はこれに続いて、当時需要が急速に高まっていたと思われる中国沿岸や日本近海、現在の東南アジア海域を対象とした新しい水路誌として刊行されたものです。フィンドレーは本書の序文中で、海図や水路誌については、英国海軍水路部が随時発行している出版物がよく使われており、本書もそれらに負うところが多いことを述べつつも、必要に応じて適宜編集を加えているだけでなく、それ以外の様々な情報源(特にオランダ)から最新の情報を追記していることも述べています。

 本書において、日本は巻末の補遺(SUPPLEMENT)として、独立して取り上げられています。冒頭では、日本と西洋諸国との歴史について簡単に触れており、マルコ・ポーロのジパングから始まり、近年に至るまで近づくことが容易でなかった日本が開国したことの意義とともに、両者の関係が新たな段階に入ったことが述べられています。この転換点は、アメリカの初代駐日公使ハリス(Townsend Harris, 1804 - 1878)によって日米修好通商条約が締結されたことで第二段階へと進められることになり、今日に至る活発な交易が開かれることになったとされています。こうした歴史的経緯に続いて、日本の気候や霧、地震、近海を流れる黒潮についての概略が説明されています。日本近海の情報については、九州(Island of Kiusiu)、瀬戸内(The Setouchi or Inland Sea)、火山小島群、日本の東南(Volcaning Islets, South-East Japan、伊豆諸島のことか)、江戸湾(Gulf of Yedo)、津軽海峡(The Strait of Tsugar)、蝦夷諸島(Island of Yeso)、本州西岸(The West Coast of Nipon、日本海側のこと)、九州西岸(The West Coast of Kiusiu)とに分けて、それぞれの地域にある重要な寄港地や条約開港場、航海について注意すべき点などが説明されています。当然ながら、1851年の『太平洋航海水路誌』にあった記事からは全面的に書き換えられており、長崎、神戸、横浜、新潟、函館といった主要な開港場を中心に船舶の往来が急増していることを受けて、最新の情報が提供されています。ちなみに、先述した本書と同年に刊行されている『北太平洋航海水路誌(A Directory fot the Navigation of the North Pacific Ocean. 1870)』にも、本書に収録されている記事とほぼ同じとみられる日本近海についての記事が見られます。

 ところで、本書が扱っている日本や中国近海といった海域は、多くのヨーロッパ船舶が採用していた東廻り航路の終着点であると同時に、北米の多くの船舶が採用していた太平洋航路の終着点でもありました。特にアメリカを中心として船舶の往来が急増していた太平洋海域の重要性の高まりに応えるためのための水路誌として、フィンドレーは、1851年に『太平洋航海水路誌(A Directory fot the Navigation of the Pacific Ocean. 2 vols. 1851)』を刊行していますが、本書が刊行された1870年は、それからすでに約20年近くが経過していました。そこで、フィンドレーは本書の刊行と同時に、『太平洋航海水路誌』の構成を大きく変える改訂を行い、太平洋を南北に分けてそれぞれ別個の水路誌として再構成しました。南北に分割した太平洋編のうち、『北太平洋航海水路誌(A Directory fot the Navigation of the North Pacific Ocean. 1870)』は、本書と同じ1870年に刊行されています。日本近海に関する情報は、本書だけでなく、この『北太平洋航海水路誌』にも記事が収録されており、二つの海域が交差する結節点に日本が位置していたことを改めて認識させられます。『北太平洋航海水路誌』に収録されている、日本に関する記事の多くは、本書とほぼ同じものを再録したものと思われますが、太平洋航路を想定していることに起因する収録記事の相違も見られるようです。ですので、本書と『北太平洋航海水路誌』を合わせ読むことで、東回りと西回り双方の船舶がどのような日本近海に関する情報を得ていたのかについて、より複眼的に理解することが可能になるものと思われます。

 本書が刊行された1870年は、海洋帝国イギリスを代表する海図出版社であったイムレイ社から、九州から東京湾までを含めた長辺2メートルを超える大海図「日本 南部(沿海図): 同縮尺にて二枚の海図に編纂された日本列島(Japan. [South Part] The Islands of Japan are comprised in two charts…)」が刊行されており、当時日本近海を航海する船舶の多くは、こうした海図と本書を併せて用いていたものと思われます。幕末から明治にかけて日本が体験した世界変動は、急速な航海技術の発展によってもたらされたものでもありますが、蒸気船の登場といった船舶の劇的な変化だけでなく、実際に列強各国の船舶がどのような情報を共有して、航路を選択し世界を行き来していたのかについては、これまであまり注目されていないようです。海図や水路誌といった海事関連文献は、当時の航海にとって(つまり、各国、各地域、各商社、各人の政策立案にとっても)必要不可欠であった最重要の情報が、何によって、どのようにもたらされていたのかについて、重要な示唆を提供してくれる興味深い資料と言えましょう。

 なお、英国海軍水路部による公式の水路誌に日本が登場するのは、1855年に刊行された中国沿岸地域を対象とした水路誌 The China Pilot (初版)が最初だとされています。The China Pilot は、1858年(第2版)、1861年(第3版)、1864年(第4版)と改訂を重ねており、その都度最新の情報に基づいた増補修正が行われています。The China Pilot は1873年に The China Sea Directory という全4巻構成の新しい水路誌に全面改訂されており、さらに1884年には第2版へとさらなる改訂を重ねています。こうした細かな改訂は、この海域に対する関心の高さに応じたものと思われます。本書は、1864年のThe China Pilot 第4版刊行と、それが全面改訂される1873年の間に当たる時期に刊行されており、英国海軍の水路誌において、当時5年以上にわたって改訂がなされていなかった同海域の情報を、最新のものにアップデートする狙いもあったのではないかと思われます。