書籍目録

「ある日本の物語(柳亭種彦『浮世形六枚屏風』)について」「日本の仮名文字についての覚書」ほか『アメリカ東洋学会雑誌』第2巻所収

アメリカ東洋学会 / ターナー / ウィリアムズ / (プフィッツマイヤー) / (柳亭種彦)

「ある日本の物語(柳亭種彦『浮世形六枚屏風』)について」「日本の仮名文字についての覚書」ほか『アメリカ東洋学会雑誌』第2巻所収

1851年 ニューヨーク / ロンドン刊

American Oriental Society / Turner, William W. / Williams, Samuel Wells / (Pfitzmaier, August) / (Riutei, Tanefiko)

Account of a Japanese romance, with an Introduction, / Note on Japanese syllabaries…etc. IN JOURNAL OF THE AMERICAN ORIENTAL SOCIETY. SECOND VOLUME.

New York & London, George P. PutnamGeorge P. Putnam, MDCCCLI. (1851). <AB201925>

Sold

4to(14.0 cm x 22.2 cm), 1 leaf(blank), pp.[i(Title.)-ix], x-xlii, pp.[1-3], 4-342, 1 leaf(ERRATA), Folded plates, maps: [2], Original publishers embossed dark brown cloth.

Information

ペリー来航直前のアメリカにおける日本文学・言語研究の水準を示す

 本書は、アメリカで最も古いアジア研究機関であるアメリカ東洋学会(American Oriental Society)が発行している学会誌の第2巻で、1849年にニューヨークで刊行されています。日本との関係で非常に興味深いのは、本書の中に「日本の物語について(Account of a Japanese romance, with an Introduction)」、「日本の仮名文字についての覚書(Note on Japanese syllabaries)」という2本の論文が掲載されていることです。いずれも日本の文学、文字(活字)に関係するものですが、前者にはある和本(後述)から採った折り込みの図版が、後者には、後にペリーと共に日本使節の通訳として来日することになる著者ウィリアムズの依頼によって試作された日本の仮名文字の金属活字で印刷された仮名文字一覧表が含まれており、非常に興味深い内容となっています。
 
 19世紀に入ってしばらくしてから、イギリスを中心とした欧米各国においてアジア地域を専門的に研究する学会が相次いで創立されており、アメリカでもその流れを受けて1842年にアメリカ東洋学会が創立します。これは、太平洋を渡った先にあるアジア諸国に対するアメリカの関心が急速に高まりつつあったことを反映しており、学会誌には、日本を含むアジア地域に関する当時最新の知見が次々と発表されることになりました。

 「日本の物語について(Account of a Japanese romance, with an Introduction)」は、ターナー(William W. Turner)によって、1849年10月24日に行われた講演に基づいた原稿とされています。著者のターナーについて、詳しいことはわかりませんが、日本の歴史、言語、文学についての見識が相当のものであったことが本論文から伺えます。ターナーは、論を始めるに際して、まず、日本の開国に向けたアメリカの機運と取り組みが極めて具体的な行動に結実しつつある時期であることを強く意識しており、ポルトガルに始まるヨーロッパと日本との交流史、特に、モリソン号に代表されるような近年のアメリカによる日本との交渉の試みが、着実に進展してきたことを述べています。その上で、信頼に足る日本研究者が極めて限られていることを嘆き、その数少ない例外として、ウィリアムズ(Samuel Wells Williams, 1812 - 1884)、ギュツラフ(Karl Friedrich August Gützlaff, 1803 - 1851)、プフィッツマイヤー(August Pfizmaier, 1808 - 1887)の名をあげます。
 
彼らのうち、ターナーの論文で主題となるのはプフィッツマイヤーで、彼が、イギリスの雑誌『アテナイオン(Athenaeum)』に寄せた文章を紹介しています。そこでは、日本には極めて豊かな文学があるが、これらを学んだヨーロッパ人がほとんどいないことをプフィッツマイヤーが痛感し、自身で日本語の簡易辞書を作成(これは1851年に刊行された辞書Wörterbuch der japanischen Spracheに結実しました)し読解を始めることにしたこと、日本語で書かれた文学作品に多用されている「ひらがな文字(Letters of Firakana Alphabets)」の活字をウィーンで作成し、活版印刷で印刷できるようにして、ある日本語の物語が数週間以内にウィーンで印刷される見込みであることを述べています。ここでプフィッツマイヤーによって言及されているウィーンで印刷された日本語の本とは、1847年に刊行された(Sechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Welt.)のことで、これは、1821年に柳亭種彦(Riutei Tanefiko)によって書かれた『浮世形六枚屏風』をウィーンで特殊な金属仮名活字を使って翻刻したものです。
 
 ターナーは論文において、プフィッツマイヤーによって刊行されたばかりのこの著作を非常に詳しく紹介しています。絵師が歌川豊国(Utakawa Toyokuni)であることや、原著の出版年、といった基本情報だけでなく、日本語で書かれた書物をヨーロッパで翻刻することがいかに困難を伴うことであるかについて、活字鋳造や印刷、用紙といったプフィッツマイヤーが直面した様々な問題についてもの説明しています。また、当然翻訳に伴う苦労が並外れたものであったことを強調しており、中国語の理解が日本語読解の一定の助けとなることを認めながらも、基本的には日本語はそれ自身を専門的に学習する必要があり、ひらがなの理解や、同一音で異なる意味を表すことが多々あること、格変化がないことや、人称変化がないことなどを具体的に説明して、ヨーロッパ人にとって日本語が非常に難解な言語であることを説明しています。その上で、プフィッツマイヤーによってドイツ語に翻訳された『浮世形六枚屏風』に依拠して、物語の概要を紹介しています。ターナーはプフィッツマイヤーの努力が並外れたものであることを十分に認めた上で、それでもなお日本一般についての欧米での知識が十分でないことに起因する曖昧さ、不明瞭な点が残ってしまっていることを指摘しています。また、この論文には同書に収録されている絵を折込図版として1枚収録しています。この絵についても、ターナは非常に詳細な注釈を加えており、物語中のどの場面を表しているものかだけでなく、そこから読み取れる日本の風俗についても言及しています。
 
ターナーの論文は、プフィッツマイヤーによる『浮世形六枚屏風』の画期的な翻刻、翻訳作品に対する詳細な論評となっているだけでなく、当時のヨーロッパやアメリカにおける日本研究の水準と状況を浮き彫りにしている点に非常に大きな意味があるものと思われます。そして、こうした日本研究の状況が、来るべく日本遠征へと結実する熱気の渦中にあったことを示している大変興味深い論文ということができるでしょう。

 続く、ウィリアムズの論文は、先のターナー論文で、ヨーロッパにおける日本のかな文字の金属活字がプフィッツマイヤーの尽力によって初めて成功したことを言及した際に、ほぼ同時期にアメリカでも、ウィリアムズの要請によって(プフィッツマイヤーが作成したものとは異なる)日本語のかな文字の金属活字が作成されていたことが報告されており、その関係で、ウィリアムズの要請によって作成された金属活字で印刷されたかな文字の一覧を添えて、彼による、日本のかな文字誕生と発展の歴史が紹介されています。

「ウィリアムズは中国の広東でペリー自身に頼まれ、通訳者としてペリーと一緒に日本に向かった。彼はもともと中国語が達者だったが、広東まで漂着した日本人漂流民から日本語を習い、ある程度の会話はできる、と本人は断っている。漢字はもちろん不自由がなく、その「日本渡航日記」には漢字が散在する。なお、1847年に一時帰国した際、ニューヨークでカタカナの活字の制作を業者に注文した。」
(ピーター・コーニツキー『海を渡った日本書籍』平凡社、2018年、54頁)

 ウィリアムズは、日本が近隣アジア諸国と同様に、文化面、言語面においても中国の強い影響下にあることを指摘し、その影響で文字についても、中国の漢字が書き言葉として日本でも長く用いられてきたことを説明しています。その上で、日本語における漢字の用いられ方そのものが、中国語とは非常に異なっていることや、日本独自の文字として、かな文字が生まれ、発展していった歴史をかなり詳細に論じています。

 本書に収録された日本の文学、文字に関する2つの論文は、ペリーによる日本遠征が目前に迫っていたアメリカにおいて、政治、経済面だけでなく、こうした文化研究においても、日本に対する関心が非常に高まっていたこと、そしてその水準が非常に高度なものであったことを示しています。ペリー遠征直前には、その熱気の高まりを背景にアメリカ国内でも日本についての書物が様々に出版されており、その中には17世紀頃の文献を無批判に紹介しただけのものも散見されますが、本書に収録された論文を見ることによって、そうした表層的でない日本文化理解のための研究が同時に進行していたことに改めて気付かされます。雑誌収録論文のゆえに、これまであまり言及されることがなかった論文ですが、ペリー遠征前のアメリカにおける日本理解の多様な側面を理解する上で、改めて研究されるべき資料ではないかと思われます。



*上記解説文作成後に、牟田おりえ氏が、ご自身のウエブサイト Andrew Lang Essay 上で、プフィッツマイヤー『浮世形六枚屏風』の英訳史、ならびに『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された英訳と日本語原著との比較といった詳細な分析をなされているのを拝見しました(サイト内記事「英米に伝えられた攘夷の日本」5-2-1「『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月)に紹介された絵草紙。」〜5-2-6まで)。牟田氏はこの記事(5-2-1)において、本書に収録されたターナー論文についても丁寧に言及されており、下記のように記されています。

「プフィッツマイヤーのは『浮世形六枚屏風』を翻訳した経緯をイギリスの文芸誌『アテナイオン』(The Athenaeum)の評者に宛てた手紙で述べ、その手紙が『アテナイオン』の1846年4月25日号に掲載されています。イニシャルMの署名入り記事(p.423)で、「ウィーンの文芸サークル以外ではほとんど知られていない、活躍中の外国人セレブの価値を高めよう」(以下英語原文の引用略:引用者注)と、プフィッツマイヤーの経歴と業績を紹介してから、プフィッツマイヤーからの手紙を掲載しています。

 1845年付のこの手紙は1842年に設立されたアメリカ東洋学会(The American Oriental Society)の学会誌第2巻(1851年)に再掲されました。ウィリアム・ターナー(William W. Turner)という人物が、1849年10月24日にアメリカ東洋学会で発表した原稿で、フィッツマイヤーのドイツ語訳『浮世方六枚屏風』を英語に抄訳紹介しています。このターナーという人については、学会員名簿にニューヨーク在住とあるだけで、職業などはわかりません。20ページの発表の内容は16世紀からの日欧交流の歴史、プフィッツマイヤーの略歴、彼の1845年書簡、プフィッツマイヤー訳『浮世方六枚屏風』の英訳梗概です。」
(上掲サイト「英米に伝えられた攘夷の日本(5−2−1)「『イラストレイテッド。ロンドン・ニュース』(1857年1月)に紹介された絵草紙」より)

 牟田氏による詳細な調査によりますと、ターナーによる英語抄訳文は、後年の明治になってからの1869年に、Account of Japanese Romanceというタイトルで国内でほぼ同じ内容で再版されているそうです。また、それ以前の1851年には、『大衆とホイットのジャーナル(People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress)』第4巻に掲載されたドイツ語からの英語訳や、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された英語抄訳文は、ターナーによる英語抄訳文とは異なっているそうです。

 また、牟田氏が参照されている論文(佐藤文樹「『浮世形六枚屏風』の仏訳本:柳亭種彦の海外紹介」『ソフィア』18(2)、1969年所収)においても、上述の1869年に日本国内で出版された Account of Japanese Romance の底本を調査される過程で、ターナー論文の存在を突き止めており、「プフィッツマイアーの独訳は、ペリー来航2年目のアメリカに、日本の小説を知らしめるという反響があったことになり、これはかなり注目すべき反響ということができるだろう」と評しています。

巻全体のタイトルページ
全体目次①
全体目次②
ターナー「ある日本の物語について」タイトルページ
本文冒頭
プフィッツマイヤー独訳した柳亭種彦『浮世方六枚屏風』から採った折込図版。ターナーは文中でこの図の注釈を詳細に行なっている。
ウィリアムズ「日本の仮名文字についての覚書」冒頭。
ウィリアムズがプフィッツマイヤーとほぼ同時期にニューヨークで完成させた日本のかな文字の金属活字を用いて印刷したかな文字表。