書籍目録

『マロニエ第一歌集』

パリ短歌会

『マロニエ第一歌集』

手書私家版(板東俊男旧蔵書?) 1944年(8月) パリ刊

<AB201918>

Sold

15.5 cm x 19.5 cm, not paged leaves, Contemporary vellum.
表表紙の背付近に痛みが見られるが、それ以外は概ね良好な状態。

Information

第二次世界大戦末期激動のパリで作成された歌集 湯浅年子ら著名在仏邦人らが寄稿 現存2部のうちの貴重な1部

「マロニエは巴里及びその郊外に非常に多く巴里在住の歌人には最も親しまれ歌に詠まれている。従ってわれら同人が歌誌の名に選んだのも当然である。このマロニエ㐧一歌集は昭和十九年一月の創刊号から六月号までの出詠歌と巴里短歌会詠草(自昭和十八年二月 至昭和十九年二月)及び雑誌「巴里」投稿歌の中から大凡四十首を自選して集成したものである。尤も時間の都合で予定通り再び同人間に諮って互選すべきを省いた。

 これは六月六日米英軍が仏本土ノルマンディーに上陸し戦雲ただならぬ時に当ってマロニエ同人、今友の運命も計り難く又今後別々になり行きはせぬかと思ひ紀念の為め蒼惶として編輯したものである。

 又この歌集は異國に咲いた日本の慰めだと思ったらいい。長年外國に居て祖国とは僅に文字の上での交渉しか持たぬ、それも四年前から殆ど何も入手出来なくなったのにわれわれが十年一日の如く日本の短歌を愛し短歌に親しみつつあることは寧ろ祖國の人には不思議に思はれるに違いない。然し外國に長く居れば居る程祖国を思ふの念は切なるものがある。

 幸巴里には廣庭夫妻のお世話で短歌会が出来たので歌誌マロニエが生れた。今マロニエも小さい乍らここに実を結んだのである。無駄花や余計な青い実は振り落とされても後へ残った実が完全に成熟して行き又他のマロニエの苗木となり親樹は益々繁茂成長して行くならばそれは望外の喜である。

 このマロニエ㐧一歌集を上梓するに当って同人及び会友諸兄姉の幸福とマロニエ誌の将来を祈りつつ序を了る。

昭和十九年八月一日 巴里にて 長島壽義」
(本書序文より)


 この悲痛な序文でもって始まる本書は、1945年8月、パリ在留邦人による「巴里短歌会」によって、私家版として作成された短歌集です。ノルマンディーから上陸した連合軍が、ナチスドイツの占領から奪還すべく迫りつつあったパリにあって最後まで活動を続けていた「巴里短歌会」は、戦前のパリに在住していた様々な邦人によって形成された短歌の同好会で、「巴里短歌詠草」などを同人雑誌として作成していました。この会には、当時のパリ在留邦人コミュニティーにおける著名な人物(後述)が多数参加しており、本書には彼らによる貴重な短歌作品が収録されているだけでなく、寄稿者が「巴里短歌会」に入ることになった経緯や、短歌を始めることになったきっかけなどについて記した小論も収録されており、非常に興味深い書物となっています。おそらく会員向けに限って、極小部数のみが作成されたものと思われ、驚くべきことに、全てのページが寄稿者それぞれの直筆で作成されています。さらに興味深いのは、第二次世界大戦末期というあらゆる物資が欠乏していたと思われる当時のパリにありながら、本書は、極めて上質な用紙を用いているだけでなく、丁寧なヴェラム装丁を施すという、書物として大変に凝った作りがなされていることです。

 戦前のパリにおける在留邦人の文化・学術活動についての研究は、藤田嗣治などをはじめとした様々な角度からの研究の蓄積が多々ありますが、ナチス占領後のパリにおける在留邦人の動向については一転して残された資料が極めて乏しく、その中でも連合軍のノルマンディー進行後の第二次世界大戦最終期までパリに残った日本の民間人の活動については、ほとんど知られていないと思われます。そうした研究状況にあって、本書は、極めて過酷な社会情勢にあっても活動を続けていた「巴里短歌会」の最後の灯火となった書物として、知られざる第二次世界大戦末期のパリにおける在留邦人の文化活動を伝える非常に貴重な一冊と言えるでしょう。

 本書に寄稿している「巴里短歌会」の会員と寄稿内容は、下記の通りです。

・長島寿義:「序」/「青樫」/「寂しき路」
・湯浅年子;「出:いづる気持、はなるる心」/「歌歴」
・四方忠雄:「春のよろこび」
・若林春子:「雨の巴里」/「私と短歌」
・広庭祐夫:「巴里の春」/「私の小歴」
・浅田すま?:「巴里にてうたへる」/「歌歴」
・窓不濡生(横山正博):「青空」/「歌歴」
・広庭椎子:「まろにえの蔭に」/「私の吐息」
・板東俊男:「口絵」/「我をあはれむ歌」/「かかずもがな」

 彼らについて順に見ていくと、まず長島寿義ですが、彼は戦後になってから、短歌を通じて世界平和と文化交流を促進するという目的で「国際短歌会」を発足させ、特にフランスにおける短歌の興隆に大きく貢献したことで知られています。寄稿者の中では、短歌を本業とする唯一の人物ですので、彼が中心となって「巴里短歌会」ならびに本書が企画されたのではないかと推察されます。本書に彼が寄稿した「寂しき路」によりますと、東京外国語学校を卒業後に日仏銀行に入り、そこで『日仏文壇』という雑誌を発行していたようです。この日仏銀行というのは、日露戦争後の日本政府、ならびに大都市の債券をパリで円滑に発行するために1912年に東京に設立された銀行ですが、単なる銀行としてだけではなく、フランス文化に関心のある人々の交流の場としても機能していたようです。短歌雑誌『アララギ』の編集の中心を担っていた古泉千樫のもとに通い短歌の研鑽を積んだようで、長島は古泉から多くのことを学んだ旨を記しています。また、北原白秋が結成した「多磨短歌会」にも会員として名を連ねていたようです。戦時のパリに翻弄されながら「巴里短歌会」の活動を続けた長島が、戦後に彼が改めて「国際短歌会」を発足させたことを考えると、彼の短歌にかける想いがいかほどのものであったのかがうかがえます。

 湯浅年子は、いうまでもなく戦前、戦後の日本を代表する物理学者で、第二次世界大戦が勃発する中、単身パリに渡り、戦火が広がる中でもパリを離れず、決死の思いで研究を続けたことが知られています。彼女は物理学者としての活躍で知られる一方、生涯を通じて短歌や日記の形で日々の想いを綴っていたことでも知られており、特に歌にかける情熱はよく知られています(この点については、山崎美和恵編『湯浅年子:パリに生きて』みすず書房、1995年が詳しい)。彼女の膨大な研究資料や日記などの資料は、現在お茶の水女子大学図書館に所蔵されていますが、その中に、本書の他に現存する唯一のものと思われる『マロニエ第一歌集』が残されており、湯浅にとって本書が非常に大切な一冊であったことを物語っています。

 若林春子は、1933年に東洋英和女学校を卒業後に、パリに駐在することになった三菱社員の夫(若林卓弥)とともにパリに渡っており、湯浅と同じく激動期のパリに残った数少ない日本の女性と思われます。彼女は後年(2002年)に自伝『幸せに溺れずに不幸に沈まずに』(店主未見)を出版しています。

 広庭祐夫は、若林の夫と同じく三菱の社員で、1943年以降はフランス三菱の代表を務めており、妻椎子とともに、同時期のパリにおける日本の民間人コミュニティの中心的役割を担っていたことがうかがえます。上掲の長島による序文では、「広庭夫妻のお世話で短歌会ができた」とありますので、設立当初から積極的に同会に関わっていたことは間違いないようです。ナチスドイツ占領後にあってもかろうじて活動を継続していた極めて少ない日本法人(ただし、正確にはフランス三菱はフランスで設立された現地法人)の中枢にありながら、「巴里短歌会」のような活動に積極的に参加、支援を行なっていたことは、当時の邦人コミュニティのあり方を知る上で非常に興味深い点です。

 筆名、「窓不濡生」を用いている横山正博は、先に触れた日仏銀行支配人としてパリに駐在していたことが知られており、広庭と同じく、極めて少なくなったパリに駐在する日本の民間商社員の一人として、「巴里短歌会」に参加していたものと思われます。長島の出身が日仏銀行であったことも鑑みると、日本国内のフランス愛好家コミュニティだけでなく、パリにおける邦人コミュニティにおいても、日仏銀行が人的ネットワークの一端をになっていたと見ることができそうです。

 板東俊男は、徳島出身の洋画家で、1922年にパリに渡ってからは藤田嗣治とも親しい時期があったことが知られており、藤田と同じシェロン画廊と契約して以降、終生パリで活躍し、渡航以来最期までパリから離れなかった数少ない日本の画家として、近年再評価の機運が高まっている人物です(彼については、芦屋市立美術博物館『知られざる画家 上山二郎とその周辺–1920年代パリの日本人画家たち』1994年を参照)。本書を彩る、美しい花々が咲き誇るマロニエを描いた口絵は板東の作品で、絵の下部に「板東」のイニシャルを示すと思われるBというマークが確認できます。

 寄稿者のうち、四方忠雄と浅田すま?については、今のところ詳細が明らかになっていませんが、第二次世界大戦終結寸前までパリに残った数少ない邦人ですので、彼らがどのような経歴で本書に寄稿することになったのかという点は非常に興味深いことでしょう。

 なお、本書は2019年にフランスのリールで店主が発見したものですが、おそらく板東俊男の旧蔵書だったのではないかと思われます。先に触れたように、本書は冒頭の口絵も含めて、全てのページがそれぞれの寄稿者による手書(描)きによるもので、その極めて上質な作りから見ても、おそらく寄稿した会員分しか作成されなかったものと思われます。お茶の水大学図書館が所蔵している湯浅年子旧蔵本が、店主の知る限り、本書の他に現存する唯一のものですが、こちらと本書とを比較したところ、それぞれの文字組みや筆致が微妙に異なっている(つまり本書は謄写本ではなく、一冊一冊全てが直筆で作成された)ことが分かっただけでなく、冒頭の口絵も、両本は全く異なるものであることがわかりました。湯浅旧蔵本に収録されている口絵(後掲写真参照)が、比較的簡素に描かれたモノクロ画であるのに対して、本書は丁寧な着色を施した、非常に手のこんだ作品であることから、板東が自分自身の一冊のために、特別にこの口絵を描いたのではないかと推察されます。また、上記の寄稿者のうち、板東は生涯に渡ってパリを活動の場としていましたので、パリで板東が没したのち、本書がフランス国内において出現したという来歴についても合点がいきます。こうしたことから、本書はおそらく板東旧蔵本ではないかと店主は推察しています。

 本書は、第二次世界大戦最末期のパリに残り続けた日本の民間人が決死の思いで作成した唯一無二の一冊として、非常に興味深い歴史を物語る書物といえるものです。その作成の経緯や、当時のパリにあって、いかにしてこのような書物の製作が可能であったのかも含めて、第二次大戦末期の日本の民間人コミュニティーと文化活動を知る手がかりとなる、大変重要な書物と思われます。

極めて手のこんだヴェラム装丁が施されている。
見返しのデザインにも意匠が凝らされている。
板東敏男による口絵。おそらく本書は板東自身の旧蔵書で、マロニエの花が咲き誇る、この美しい絵を自身の一冊のために描いたものと思われる。
目次
(参考)お茶の水女子大学図書館に所蔵されている湯浅年子旧蔵本。スリップケースに入っており、背表紙にラベルがあったことがわかる。
(参考)左が本書、右が湯浅旧蔵本。
(参考)湯浅旧蔵本に収録されている板東敏雄による口絵。