本書は19世紀前半におけるヨーロッパの東洋学者を代表するクラプロート(Julius Heinrich Klaproth, 1783 - 1835)が、フランス王立図書館に所蔵されていた和本『倭漢皇統編年合運図』第1巻を用いて日本の年代記を紹介したもので、1833年にパリで刊行されています。
クラプロートは、ベルリンの高名な化学者であったマルティン・クラプロート(Martin Heinrich Klaproth, 1743 - 1817)の息子で、すでに十代の頃から中国語をはじめとする東洋言語に強い関心を持ち、自らアジア研究雑誌を刊行するなど、当時を代表するヨーロッパの東洋学研究の中心人物として数多くの著作を残しました。1805年のロシアによる中国派遣団に随行した際には、イルクーツクで大黒屋光太夫の同僚だった日本の漂流民で、ロシア漂着後に日本語教師となっていた新蔵から日本語を学ぶ機会にも恵まれました。また、オランダ商館長を三度にわたって務め、ヨーロッパ最高峰の日本研究者であったティツィング(Isaac Titsingh, 1745 – 1812)の旧蔵書や遺稿を得ることができたことで、クラプロートは当時のヨーロッパにおける最新の日本研究を行うことができました。日本から帰国したシーボルトとも(紆余曲折がありながら)深い交流関係があったことでも知られています。
フランスでは、クラプロートと同時代人で、彼も高く評価していた東洋学者レミュザ(Abel-Rémusat, 1788 - 1832)をはじめとした東洋学者らによる研究が19世紀に入ってから急速に進み、1822年には、フランス・アジア協会(La Société Asiatique)が設立されています。この協会は機関誌として、『アジア雑誌(Journal asiatique : ou recueil de mémoires, d'extraits et de notices relatifs à la philosophie, aux sciences, à la littérature et aux langues des peuples orientaux. 1822 - 1827)』を発行し、当時最新の東洋研究に関する様々な研究成果を発表しており、クラプロートもしばしばこの雑誌に寄稿しています。本書は、この雑誌の後継雑誌である『新アジア雑誌(Nouveau journal asiatique : ou, Recueil de mémoires. 1828 - 1835)』にクラプロートが1833年に発表した論文を、独立した書物としてパリの王立印刷所から出版したものです。
クラプロートが本書執筆のために用いたフランス王立図書館に所蔵されていた『倭漢皇統編年合運図』というのは、日本と中国の年代記を上下に分けて併記したものです。クラプロートが本文中で、所蔵されているのは1巻(上巻)だけであることや、全54葉であること、出版地や刊行年の記載がないこと(これは上巻のみしかクラプロートが見ることができなかったためと思われます)を記していますが、これらの特徴に合致するものは、日性が編纂した『重撰倭漢皇統編年合運図』(寛永7(1630)年、京都の本能寺前の刊記)だったのではないかと思われます。
クラプロートは、『重撰倭漢皇統編年合運図』の概要を解説しながら、この書物が中国の歴史と日本の歴史を併記したもので、日本の王朝年代記を理解する上で有用であることなどを紹介して、テキストの翻訳を一部行いながら、『重撰倭漢皇統編年合運図』の記述に沿って日本の年代記を解説しています。『重撰倭漢皇統編年合運図』は、六十干支を最上段に示し、上段に日本、下段に中国の王朝を併記しており、クラプロートも六十干支を頼りにしながら本文中で西暦年を算出して解説しています。一例を挙げますと、「辰丙 53e du Même cycle; 28e du Même régne; 1025 avant J. C.」(本書11ページ)とあり、これは「53番目の干支に当たる辰丙(ひのえたつ);同王朝の28年年目、キリスト生誕以前1025年」ということになります。クラプロートが読むことができた上巻では西暦22年までしか記載がなかったということですので、それ以降の年代についてはクラプロートが別の情報源で得られた内容を簡単に記して西暦814年までを本書では扱っています。クラプロートは、ティツィングによる、林鵞峯が編纂した『日本王代一覧』の翻訳原稿を元にして、本書を刊行翌年の1834年に『日本王代一覧: Nipon o daï itsi ran, ou annales des empereurs du Japon. 1834』を刊行していますので、本書はこの著作に先行したクラプロートによる日本史研究の一つに数えられるものでしょう。
クラプロートの著作は日本研究に限らず極めて多岐にわたっており、またその出版形態も実に多様であったため、彼による日本研究がどれほどの分量があり、またどのようなものがあったのかについては、現在でも不昧なところが多々あるようです。本書も、彼による著名な『日本王代一覧』以前に、彼がそれ以外にどのような日本の歴史に関する情報を得ることができていたのか、またその理解はどの程度にあったのかを知る上で、大変重要な資料になると思われますが、これまであまり知られていない文献になっているようです。