書籍目録

『国際会議集』(英国外務省歴史部門の企画によってパリ講和会議への英国派遣団のために準備されたハンドブックシリーズ第151巻)付属「1908年1月8日付 ホイラー宛 サトウ直筆書簡」

サトウ / プロセロ(書籍編者) / (ホイラー)(書簡受信者)

『国際会議集』(英国外務省歴史部門の企画によってパリ講和会議への英国派遣団のために準備されたハンドブックシリーズ第151巻)付属「1908年1月8日付 ホイラー宛 サトウ直筆書簡」

書籍と直筆書簡からなるコレクション 1920年(書籍) / 1908年(1月8日)(書簡日付) ロンドン刊(書籍) / オタリー・セント・メアリー(書簡発信地)

Satow, Sir Ernest. / Prothero, George (Series Editor) / Wheeler, Edwin (Addressee).

INTERNATIONAL CONGRESSES. (HANDBOOKS PREPARED UNDER THE DIRECTION OF THE HISTORICAL SECTION OF THE FOREIGN OFFICE. No.151) [together with] Autograph Letter to Wheeler Signed by Satow dated on January 8, 1908.

London / Ottery Saint Mary, H(er). M(majesty’s). Stationary Office (HMSO), 1920 / (January 8) 1908. <AB2018220>

Sold

8vo (14.0 cm x 22.0 cm) / Folded paper (Folded: 11.3 cm x 17.8 cm), Title., 4 leaves, pp.[1], 2-168. / Written in 4 pages, Original paper wrappers wrapped in preservation clear cover stored in marble card box with a letter.
書籍は透明の保護シールでカバーが施されている。書簡と併せてマーブル紙があしらわれた専用保存箱に収納されている状態。

Information

外交官引退後のサトウの動静を物語る、書籍と直筆書簡からなる貴重な資料コレクション

 本コレクションは、幕末から明治初期にかけて英国の外交官として日本の政治状況に多大な影響を及ぼしただけでなく、古今の日本語に精通して英国における日本研究の基礎を築いたことでも知られるアーネスト・サトウ(Sir Ernest Mason Satow, 1843 - 1929)が、外交官引退後に記した欧米史における代表的な国際会議とその特徴をまとめたハンドブックです。このハンドブックは、第一次世界大戦終結に向けたパリ講和会議に赴く英国派遣団のために英国外務省が企画した全162巻からなるハンドブックの第151巻として刊行されたもので、サトウの外交官引退後の世界における最大の惨事の一つとなった第一次世界大戦の講和会議という重要な場面において、サトウの豊富な経験に基づく知見が必要とされていたことを物語る大変興味深いものです。

 また、このハンドブックには、さらに興味深いことに、サトウが1908年1月8日付で、日本在住のイギリス人医師ホイラー(Edwin Wheeler, 1840 - 1923)に宛てて認めたサトウ直筆書簡が付属しています。ホイラーは1870年に海軍医として1870年に来日し、来日後はイギリス公使館付医師となり、1871年からは日本の工部省の医師としても活躍した人物で、サトウの日本時代に交流があった人物です。書簡の内容は、サトウが明治政府による外国人移民制限の可能性と背景について論じたもので、正確な事情は分かりませんが、当時問題となっていたアメリカにおける日本人移民排斥に関する紛争に関連してホイラーがサトウに今後の明治政府の対応如何や、アメリカの対応の是非について尋ねたことに対する回答ではないかと思われます。現存するサトウの書簡の大部分は大英図書館や横浜開港資料館などの公共機関に収蔵されており、これらを用いた書簡集も複数刊行されていますが、未発見と思われるこのような書簡が出現することは大変珍しく、外交官引退後もサトウが日本時代の友人と日本の政治や社会情勢について書簡でのやり取りを行なっていたことを明らかにする非常に興味深い資料です。
 
 ハンドブックと直筆書簡は、それぞれ別々の経緯で保管されてきたものと思われますが、いずれも外交官引退後のサトウの活動に関わる貴重な資料と思われます。

 ハンドブックは、上述したように英国外務省が第一次世界大戦終結のための講和会議への英国派遣団の手引きとなるように企画されたシリーズの第151巻にあたるもので、シリーズ編者には当時の歴史学の大家であったプロセロ(Sir George Walter Prothero, 1848 - 1922)が任命されています。本書の冒頭にはプロセロによる序文が付されており、このハンドブックシリーズの当初の目的と、それを果たした現在(1920年1月)において、その知見を一般に広く公開することの意義を説明しています。このハンドブックシリーズは160巻を超える非常に大部のもので、世界各国地域の地理歴史と現在の政治状況、各国間の主要な紛争を各巻でそれぞれ扱っており、パリ講和会議時点での英国から見た世界情勢の見取り図をそのまま表すような構成で、会議に臨む英国派遣団の強力な情報源となるようまとめられています。第73巻は日本を扱っており、サトウの友人で外交官として長らく日本で活躍したガビンズ(John Harington Gubbins, 1852 - 1929)が執筆しています。この第73巻ならびに本書である第151巻は、このように著者名がわかるように明記されていますが、大部分は匿名とされており、英国外務省が著者名を公表するに足る人物によると判断した僅かな巻のみが、その著者名を明らかにされているものと思われます。

 ハンドブックは170ページ弱からなるコンパクトなもので、導入部、第一部(国際会議の一般的な特徴について)第二部(大小様々な過去の国際会議の分析)補遺と参考文献、という大枠で構成されています。主要となる内容は第二部で、12章に分割して、第1章(国際会議の開催地)第2章(休戦協定)第3章(予備交渉、草案)第4章(各国代表)第5章(議長の選出)第6章(事務局の任命)第7章(委員会の形成)第8章(記録)第9章(条約)第10章(署名者と署名順序)第11章(批准と交換)第12章(承認)という内容となっています。長年外交の最前線において様々な難交渉をこなしてきた豊富な経験と、東西の膨大な書物の渉猟によって培われてきた見識に基づいて、サトウが欧米各国巻で開催されてきた過去の国際会議の特徴を簡潔に整理して解説しており、当時の英国派遣団に資するところが大であったことはもちろん、現代の我々の視点から見ても非常に有用な内容と思われます。なお、巻末の参考文献一覧にはサトウ自身による渾身の力作『外交実務ハンドブック(A Guide to Diplomatic Practice, 1917.)』をはじめ、派遣団員が最低限目を通しておくべき古今の基本文献が掲載されています。

 ハンドブックに付随するサトウの直筆書簡は、サトウが1906年に駐清公使を辞して外交官を引退してから、居を定めていたことで知られるオタリー・セント・メリーから1908年1月8日付で認められたものです。書簡の用紙には BEAUMONT, OTTERY ST. MARY. という空押しが裏面からなされていて、オタリー・セント・メリーに隠栖後のサトウはこの書簡用紙を用いていたのではないかと思われます。宛先人であるホイラーは先述したように、サトウの駐日英国公使館時代からの付き合いがあった医師で、当時は横浜で開業医として活躍していたものと思われます。ホイラーがサトウに対してどのような書簡を送ったのかは不明ですが、この書簡のサトウの文面から推測すると、日本が主に中国人労働移民を制限(禁止)するような法律や条約を定める可能性について、サトウに問うたのではないかと思われます。その正確な背景はわかりかねますが、1908年はアメリカ西海岸をはじめとした日本人移民排斥運動が激しさを増していた時期にあたり、日本からアメリカへの移民を自主制限することを取り決めた日米紳士協約が結ばれていますので、これに関連して、明治政府が逆に外国からの移民を制限するようなことがありうるのかどうかについて、ホイラーがサトウに尋ねたということも考えられます。書簡は、サトウ独特の比較的読み取りやすい筆致で、二つ折りの書簡用紙の両面にわたって書かれており、試みに解読してみますと下記の通りとなります。


January 8, 1908.

Dear Wheeler.

As you know, I left Japan in 1900, and therefore am ignorant of the legislation that has taken place since that date.
I do not know of any laws forbidding the importation of foreign laborers into Japan.
The only country from which labors, as distinguished from artisans, would be likely to come to Japan is China, and I am under the impressions that in the commercial treaty between China and Japan negotiation in 1896 or 1897 I have is some provision regulating the access of Chinese subjects to the interior of Japan, which would have the same effect as a prohibitory laws.
Japan does not allow foreigners to own mines or agricultural land or forests, and I think the prohibits their ownership of railway shares.
These sources of wealth are reserved for Japanese.
In countries like the United States, Canada and Australia their labors is the principal source of wealth for the large majority of the population, and it does not seem unreasonable that those countries should desire to reserve it for their own people.
This seems to me the real answer to all those who would insist on the propriety of allowing unrestricted competition on the part of alien laborers with the native-born population.

Yours sincerely
Ernest Satow.

 サトウ自身は、日本を1900年に離れて以降、当地の法律には通じていないと断りながらも、海外からの労働移民を禁止するような明治政府による法律というものは知らないと述べています。日本への労働移民として想定されるのは主に中国であろうと推察し、日中間でそうした移民を制限(禁止)する商業条約がそれに当たるかもしれないとして、何れにせよ日本は農業、森林、鉱物資源や土地、鉄道といった重要な資源については外国人がそれらを所有することを認めないであろうとしています。また、アメリカやカナダ、オーストラリアのような国々は自国民の労働力こそが富の源泉であるので、彼らを保護すること(外国人労働者との無制限な競争を望まないこと)は非合理とは言えないであろうという所見を述べているようです。店主自身はこの書簡前後のサトウの詳細な動静や日本への言及について、詳細な知識を持ち合わせていませんが、少なくとも1908年初頭時におけるサトウの日本の状況に言及した書簡として、本書はこれまで発見されている他の史料と対照しながら用いることができる、未発見史料として非常に興味深い資料であると思われます。

書籍と書簡は専用の保存箱に収納されている。
保存箱外観
ハンドブック表紙。透明の保護テープカバーが施されている。
ハンドブックのタイトルページ。
ハンドブックシリーズ編者プロセロによる序文冒頭。
本文冒頭箇所。
日露戦争の休戦交渉についても言及されている。
巻末にはサトウ自身の著作を含む参考文献一覧が掲載されている。
ハンドブック裏表紙。
書簡冒頭箇所。二つ折りの厚紙の書簡用紙。オタリー・セント・メアリーの空押しが施された特別な用紙に記されている。
前掲続き
書簡末尾、サトウ自身の署名もある。