本図は、幕末の1859年1月にロンドンで刊行された大型の英文日本地図で、安政五カ国条約によって決められた開港場の情報など、当時の日本と西洋諸国との関係を視覚的な地理情報として反映した大変ユニークな地図です。元来折りたたみ式の地図であったものを、当時の所有者によって、折り目の隙間をなくすように広げて厚紙に直接貼り付ける処置が施されています。
西洋諸国による日本地図作成の発展は、この頃までには一定の完成の域に達しつつありましたが、開国によって西洋諸国人の日本への現実的な来航機会が急増することが見込まれるようになったことから、実際の渡航において有用となる日本図の作成が必要とされる新たな段階を迎えることになります。日本への来航に際しては、何よりも船舶による安全な航路の確認と普及が欠かせなかったことから、イギリスを中心とした西洋諸国は日本沿岸諸地域の測量を進め、それらの情報を反映させた最新の海図の作成、出版を精力的に行なっています。本図はこうした西洋諸国との交流機会が激増することが見込まれつつあった幕末日本の状況を反映した日本図で、貿易に際して有用となる日本全体の概観、安政五カ国条約で定められた開港5港や沿岸諸都市に関する最新情報を記しています。
沿岸の輪郭には不正確なところがまだ見られますが、本州、四国、九州、蝦夷の輪郭は、それぞれ別色で彩色され、当時の日本の概観を把握しやすいように工夫されています。本州、四国、九州の沿岸輪郭は、クルーゼンシュテルン(Adam Johann von Krusenstern, 1770 - 1846)による「日本帝国図」(Cart de L' empire du Japon, 1827)を踏襲しているように見受けられますが、北海道についてはクルーゼンシュテルンによる「蝦夷図」を採用せずに、より正確な他図を参照しているようです。沿岸諸都市についてはその地名をできるだけ多く記載するように努めているようで、おびただしい数の地名が書き込まれています。沿岸海域には黒潮など航海にあたって重要となる海流とその向きが記されており、海図的な側面も有した実用面に配慮して作成されていることも伺えます。また、ブロートン(William Robert Broughton, 1762 - 1821)やラ・ペルーズ(Jean-François de La Pérouse, 1741 - 1788)といった18世紀後半以降の著名なヨーロッパ航海者の採った航路も破線で描かれています。地図下部には、「開港場(FREE PORTS)」は、四角で囲んで表記する旨の注意書きがなされています。ただし、本図が刊行された1859年1月時点ではいずれの港も開港されていませんでしたので、それぞれの予定を記す形式が採られています。すなわち、神奈川(KANAGAWA TO BE OPENED 1ST JULY 1859.)、函館(HAKODADI, TO BE OPENED 1ST JULY 1859.)、長崎(NANGASAKI TO BE OPENED 1ST JULY 1859)、新潟(NEE-E-GATA TO BE OPENED 1ST JANUARY 1860)、兵庫(HIOGA, TO BE OPENED 1ST JANUARY 1863)という形で記されています。
本図を作成したワイルド(James Wyld Jr., 1812 - 1887)は、19世紀半ばのイギリスを代表する地図製作者、出版者で王室地理学者としても活躍した人物で、いわば大英帝国公認の地図製作者として権威と信頼ある地図を制作、出版したことで知られています。ワイルドは王立地理学協会の設立者の一人でもあった父の事業を相続し、社会や政治状況の変化を敏感に察知し、必要とされる地域(例えばアヘン戦争勃発時における中国地図など)や主題(例えば次々と路線を拡大していくイギリス本土の鉄道地図など)の正確な地図をいち早く刊行することで事業を拡大することに成功しました。ワイルドの機敏な動きは風刺雑誌「パンチ」において風刺されるほどであったと言われています。こうした商業的な機会を捉えることに極めて敏感であったワイルドであったからこそ、1858年の安政五カ国条約による日本との通商関係増大という出来事の重要性をいち早く察知し、1859年1月という非常に早い段階でその情報を盛り込んだ本図を刊行することができたものと思われます。当時の欧米諸国による日本図のほとんどは、世界地図帳などの一部として収録されたものばかりで、ワイルドによる本図のように独立した日本図は非常にユニークなものであったことが推察できます。
なお、本図は、幕末、明治初期の日本にもたらされていたようで、山口県立図書館毛利家文庫には、本図と同じ1859年図(絵図28番、未装丁、購入地の記載なし)と改訂版である1868年図(絵図35番、軸装、横浜弁天通93番ハルトリーの大阪16番の支店にて購入と記載)とを確認することができます。また、ワイルドと当時の日本との関係で言えば、イギリス軍人ホーズ(Albert George Sidney Hawes, 1842 - 1897)による「横浜周辺外国人遊歩規定図(Descriptive Map Shewing The Treaty Limits Round Yokohama. 1867?)」の出版をワイルドが行なっていることも興味深い事実として挙げることができるでしょう。
ワイルドは本図の改訂にも余念がなかったようで、店主の知る限りでは1869年、1873年に改訂版を出版しており、それぞれの時期を反映した情報のアップデートがなされています。しかしながら、ワイルドの息子(James John Cooper Wyld, 1844 - 1907)の頃になると次第にワイルド社自体の影響力が失われていったものと思われ、スタンフォード(Edward Stanford, 1827 - 1904)などの日本図などに取って代わられていったようです。また、御雇外国人であるブラントン(Richard Henry Brunton, 1841 0 1901)による日本図(Nippon, 1876 / 1880)やクニッピング(Erwin Knipping, 1844 - 1922)による日本図(Stanford’s Library Map of Japan)といった実際に来日して欧米人による地図が新たに作成されたことや、日本自身による地図作成が進んだこともあって、1873年の改訂版以降は作成されなかったようです。その意味では比較的短命な日本図であったと言えますが、西洋諸国との関係が激変する時期にあって、いち早く最新の情報を盛り込んだ独立英文日本図として本図が果たしたユニークな役割は、非常に大きかったものと思われます。
本図は、国内における所蔵機関が極めて少なく、上述した当時入手していたと思われる毛利家文庫によるもの以外を確認することができないことから、本図の存在自体がこれまで認識されたことがほとんどなかったようです。その点においても今後の新たな研究、展示における活用が期待される重要な地図資料と言うことができるでしょう。