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1889年? ハンブルグ刊
Allers, C(hristian). W(ilhelm).
The Mikado Sketches behind the scenes.
Hamburg, F. A. Dahlström, 1889?. <AB2018208>
Sold
25.0 cm x 33. 5 cm, 24 plates pasted on cards, cased in folded pictorial cloth covers.
Information
このユニークなスケッチ集は、1885年にロンドンで上演された大ヒット舞台作品『ミカド』の舞台風景や役者を描いた24枚のスケッチを収録したものです。舞台『ミカド』は、日本への関心が高まりジャポニスムが熱を帯びつつあった当時のロンドンで空前の大ヒットとなった舞台作品で、その内容には賛否両論があるものの、現在に至るまで再演が繰り返されている作品です。このスケッチ集は、当時の舞台やその裏側の様子を知ることができる貴重な視覚資料で、生き生きとしたタッチで描かれたそれぞれのスケッチ作品からは、当時の雰囲気が存分に伝わってきます。このアルバムは、ドイツのハンブルクで刊行されたもので、刊行年の記載はありませんが、『ミカド』は特にドイツ語圏でも好評を博したことが知られていますので、ドイツでの上演時に刊行されたものではないかと思われます。このスケッチを手がけたのもアレーズ(Christian Wilhelm Allers, 1857 - 1915)というドイツの画家で、これらの作品に見られるようなスケッチ画や書籍の挿絵等の分野で活躍したことが知られています。 「《ミカド》は、何しろ日本というほとんど未知の国を舞台にしたために、舞台装置、衣装、振りなど何かと困難な点が多かったに違いない。リハーサルも念入りに行われた模様である。例の日本人村(1885年にロンドンのナイトブリッジで開催されていた「日本人村」展示のこと;引用者注)から二人の日本人が借り出され、そのうちの一人は芸者であったという。そして彼らから、日本のいろいろな作法(扇子の扱い方も含む)やメーキャップまでも入念に聞き取った当ことである。なお、初演のプログラムに、日本人村の支配人と日本人の貴重な援助に対して、感謝の辞を載せるという気配りも示した。 その甲斐もあって、1885年3月14日のサヴォイ劇場での《ミカド》の初演は、大当りとなり、なんと672回という記録的なロング・ランとなった。成功の原因は、題材の新規さとサリヴァンの音楽の魅力にあったことはまちがいない。しかもその人気は、イギリスに留まらず、ヨーロッパ本土からアメリカ大陸にまで及んだ。これは、ギルバート・サリヴァンのオペレッタの中で、事実上ヨーロッパでレパートリーに残った唯一作品であった(特にドイツ語圏で受けたといわれている)。(後略) 《ミカド》がこのように欧米でもてはやされていた頃、日本はこれをどう迎えたであろうか。(中略)1885年(明治18年)には、パブリック・ホールが開かれ、1887年に訪日したイギリスのサリンジャー一座が、サリヴァンの《ペンザンスの海賊》《軍艦ピナフォア》《ペーシェンス》そしてこの《ミカド》を上演した。驚いたことに、《ミカド》は初演のわずか2年後の上演であった。ところが、《ミカド》に関しては、主催者がかなり気を使ったようである。つまり、その台本が日本の当局を刺激することを懸念して、主催者が領事館と協議をし、台本の一部を変更したり削除してしまったのである。おまけに題名までも、《ミカド》から、劇中の歌からとった《卒業した3人の乙女》へと変更してしまったのには一層驚かされる。1907年の日本の皇族のイギリス訪問に際しても、日本政府は、折からロンドンで上演されていた《ミカド》の上演の中止を申し入れたといわれている。(中略) 戦後まもなく、《ミカド》は、アーニー・パイル劇場(GHQを対象。総監督は、国際的な舞踏家伊藤道郎)で上演され、その際ココ役で、往年のヴォードビリアンのトニー・谷が出演したことはあまり知られていない。その後、長門美保歌劇団も、日比谷公会堂や名古屋の御園座などで《ミカド》を公演した。(中略) 余談になるが、《ミカド》のロンドンでの初演の際のコスチュームは、デザイナーのウィリアム・ピッチャーという人が担当したが、これが意外な反響を呼んで、キモノをデザインして仕立てることが流行し、さらに仮装舞踏会でも、キモノを着る人が増えたということである。西洋風にアレンジしてのこととはいえ、《ミカド》がファッションにまで影響を与えたというのは、《ミカド》の反響の大きさを物語っている。》 (岩田隆『ロマン派音楽の多彩な世界:オリエンタリズムからバレエ音楽の職人芸まで』朱鳥社、2005年、151-153ページより)