書籍目録

『星図(天球図譜)』

フラムスティード

『星図(天球図譜)』

初版第2刷 / フラムスティード直筆と思われる文書付属 1753年 ロンドン刊

Flamsteed, John.

ATLAS COELESTIS.

London, M.DCC.LIII.(1753). <AB2018171>

Donated

First edition, second impression.

Folio (40.0 cm x 55.3 cm), 1 leaf(blank), Front., Title., Dedication., pp.[1]-9, 27 numbered double pages (1 folded) plates, 1 leaf(blank), Contemporary full calf.
表紙ヒンジ部分に痛みがあるが、全体としての状態は非常に良好。

Information

 本書は、グリニッジ天文台創設の提案者にして初代天文台長となったフラムスティード(John Flamsteed, 1646 - 1719)が遺した星図で、近代天文学史においてはもちろんのこと、航海史上においてもメルクマールとなった記念碑的作品です。フラムスティードがグリニッジ天文台において観測した精確な記録に基づいて、南北それぞれの天球図と25枚の星図が、極めて大判のフォリオ大で描かれています。フラムスティード の星図は現存する部数が極めて少ない世界的に見ても大変貴重な書物で、図表が全て揃っている本書は特に高い価値を有しています。また、付属するフラムスティードの直筆と思われる文書は、長きに渡ってグリニッジ天文台でフラムスティードの助手を務めたクロスウェイト(Joseph Crosthwait, 1708 - 1719)の助手任用に関する行政書類で、フラムスティードの没年である1719年に認められていることから、フラムスティード最晩年の直筆資料として極めて重要なものです。

 1675年のグリニッジ天文台創設の経緯は、西洋近代天文学史においてのみならず、ニュートン(Isaac Newton, 1642 - 1727)らが革新を進めつつあった西洋科学の発展、そして海上帝国を築きつつあったイギリスの航海事情と切り離せない関係にあります。ニュートンは『プリンキピア(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica. 1687)』において古典力学の基礎となる万有引力の法則を打ち立て、その成果に基づいて月の運動を数学的に解析する研究に従事していました。そのためには精確な月の観測データを整備する必要があり、フラムスティードがグリニッジ天文台で蓄積していた観測記録に大きな期待を寄せていました。

 この傑出した科学的能力を有していた二人が取り組んだ課題は、当時の遠洋航海において最大の課題であった「経度の測定」という難問でした。17世紀末の時点においては、経度の測定は、実現の可能性がほとんど見込めないような夢物語と考えられていて、経度の測定は「実現不可能なこと」の比喩表現ですらありました。こうした状況に対して、フラムスティードが、天文学からのアプローチによって経度測定を可能にすることを目指して設立を提言し、設立されたのがグリニッジ天文台でした。その意味で、グリニッジ天文台は、天文学の研究機関であると同時に、なによりも経度測定という難問の解決を世界に先駆けて実現するという極めて実践的な課題が課せられた機関でもありました。こうした背景を有するグリニッジ天文台において、当時の傑出した科学者であるニュートンとフラムスティードが相見え、本書が誕生する歴史が紡がれていくことになります。
 
 遠洋航海にあって船の現在位置を精確に把握することが重要であることは言うまでもないことですが、そのためには緯度と経度をその都度精確に測定することが必要となります。緯度の測定は古くから比較的容易であったのに対して、経度の測定は非常に困難なもので、このことによる悲惨な海難事故が繰り返し数多く発生しました。経度を精確に把握するためには、陸上の基準点の時間(標準時)と、船が現在いる地点の時間(地方時)の時差を基に空間上の距離を求めることが必要となりますが、そこで問題となるのが、二地点の時間を精確に把握する手段をいかにして確保するか、ということになります。現在ですと電波時計などで簡単に精確な測定が可能ですが、当時の技術では誤差が少なく、しかも激しい揺れや気候上の変化にも影響を受けない精度の時計を製造することは不可能とされていました。そのため、古くから経度測定の方法として、天文学上の知識に基づく方法が様々に考案されてきており、代表的なものとしては、日食や月食といった二地点で同時に観測しうる天体現象を観測して、その時間差から経度差を導き出すという方法がありますが、日食や月食といった天体現象は頻繁に起こるものではないことから、航海時の測定方法としては実用性がありませんでした。こうした日食や月食といった特異な天体現象の測定に拠らない経度測定のアプローチとして古くから知られていたものの代表として、「月距法」というものがあり、これは、ほぼ日常的に観測が可能な月の運動と、見かけ上ほとんど動きが見られない恒星との位置関係から経度を導こうとするものでした。月距法による経度測定を実現するためには①数学的に解明された月の運動理論と、それに基づく精密な月運動表の作成②恒星の位置を正確に記した星表が必要となります。月距法自体は古くから知られていた方法であるにもかかわらず実用化されなかったのは、こうした条件を満たすことが極めて困難だったからですが、ニュートンが万有引力の法則によって月の運動理論を打ち立て、1676年以降グリニッジ天文台におけるフラムスティード の正確な観測記録が蓄積されるようになったことによって、実現への期待が大きく高まりました。

 しかし、精確を期すフラムスティードとより早い完成を目指すニュートンとの性格上の不一致や、論争によって生じた個人的な諍いも災いし、両者の関係は次第に悪化するようになります。ニュートンとしては彼の理論を完成させるために、より豊富な観測データの迅速な公開を必要としていたのですが、フラムスティードとしては精確なデータの蓄積とそれらの精査こそが何より重要と思われたため、その公表になかなか応じることがありませんでした。そこで業を煮やしたニュートンはハレー(Edmond Halley, 1656 - 1742)と協力して、フラムスティードの観測記録を無断で持ち出して、フラムスティードの許可を得ずに1712年に星表(Historie coelestis…)を出版してしまいます。これに対してフラムスティードは激怒して訴訟を起こし、その結果出版された400部のうち、回収できた300部全てを焼却処分するという強硬策で応じたため、両者の関係は決定的に破綻することになりました。

 こうした不幸な諍いの最中にも経度測定に対する切実な要請は、止むどころかますます大きくなる一方で、1714年には経度測定の問題を解決した者には多額の報奨金を出すという通称「経度法」が成立することになります。この経度法を契機に、現在でもクロノメーターと呼ばれる精確な時計の開発が進み、当初は遥かに実用見込みが高いと当時の知識人達に信じられていた天文学的アプローチを凌駕する成果をあげ、ついに経度測定という難問の最終解決を実現に至ったことは非常によく知られています。ただし、これはフラムスティード 、ニュートン両人の没後からなお多年の歳月を必要とするものでした。


 フラムスティード自身は、ニュートンとの断絶後もグリニッジ天文台において観測を続けますが、王立科学協会の中心であったニュートンとの破綻も影響して、ついに生前自身による星表と星図の出版を果たすことなく1719年に亡くなりました。しかし、フラムスティードの没後に助手のクロスウェイトに残されていた観測記録をもとに出版の準備が進められ、1725年に『星表(historiae coelestis)』、続いて1729年に『星図(Atlas coelestis)』が出版されることになりました。これらは、フラムスティードが長年をかけて積み重ねた精確な観測記録にもとづいて生み出されたもので、それ以前にあった類似の先行を質、量ともに凌ぐ天文学史上における記念碑的作品となりました。

 本書は、このフラムスティードが残した記念碑的作品のうち、特に視覚資料としても高い評価を得ている『星図(Atlas coelestis)』の第二刷に当たるもので、1753年に刊行されたものです。フラムスティードの観測記録に基づいて描かれた数々の星座とそれらを構成する約3000にもなる恒星の位置を精確に描いた星図で、近代的な観測機器による精確な記録という点での科学史的重要性のみならず、当時を代表する画家ソーンヒル(James Thornhill, 1675 - 1734)が描いた数々の美しい星座絵は、視覚資料としての美術史的重要性も認められているものです。フラムスティードが観測した恒星はそれまでの肉眼観察によるものよりも、より暗い恒星も含めた点や、その位置を極めて精確に描いた点に特徴があるほか、それまでの星図が地球の外側から描く構図(つまり実際に地上から見ることができる星座の背面から描く構図)であったものを改め、実際に地上から見える視点から描く構図に変更した点に大きな特徴があるとされています。また、フラムスティードの『星図』は、こうした内容上の数々の重要な特徴だけでなく、書物としての完成度の高さも特筆すべきもので、極めて上質な大判の用紙に高品質の印刷技術で作成されていて、この点でもそれ以前の星図を凌駕する書物でもあります。その製作費用が膨大なものであったことが推察されますが、その結果、発行部数自体が非常に限られることになったものと思われます。

 フラムスティードの『星図』は、日本でもフラムスティードの『天球図譜』として広く知られているものですが、日本語訳の底本となったものがフラムスティード自身によるものに大きな修正を加えたフランス語版であることも影響してか、書誌情報については混乱が見られるようです。店主が知りうる限りの情報をまとめますと下記のようになります。

①1729年 初版初刷 フォリオ判
②1753年 初版第二刷 フォリオ判(①にあった予約者名簿の削除以外は全く同じ)
→本書にあたるもの

③1776年 フランス語改訂縮刷版(Atlas Celeste de Flamsteed, 自称第二版)八折判
 →第二版をうたうが、単にフランス語に翻訳されたものではなく、原著の優れた特徴であった大判の星図を大幅に縮刷し、ソーンヒルによる星座絵も全く異なるものに変更、南半球図をラカーユ(Nicholas Louis de Lacaille, 1713 - 1762)によるものに変更し、原著刊行以降に発見された星座の追加を独自に行う等々、数多くの変更がなされており、実質的には第二版というよりも「フランス語改訂縮刷版」というべき内容。現在知られている「フラムスティード番号」も、③において登場するもので、①②④には存在しない(ただし、上述のフラムスティードの許可を得ずに出版した『星表』1712年版には存在する)。

④1781年 初版第三刷(最終刷)フォリオ判(②と同じ)
→原著の最終刷となったもの。

⑤1795年 フランス語改訂縮刷第二版 八折版
→③にさらに増補改訂を加えたもので、江戸時代に日本にもたらされた蘭書『ラランデ暦書(Astronomia of Sterrekunde. 2nd ed. vol. 1-3, 1771.)』の著者でもあるフランスの天文学者ラランド(Joseph-Jérôme Lefrançais de Lalande, 1732 - 1807)らによる改訂版。

 上記のうち、相対的に入手しやすいものは、③ないし⑤のフランス語改訂縮刷版で、日本語訳された『天球図譜』もこれらを底本としていますが、上記の通り本書も含めた原著とは相当の違いがあり、見方によっては別作品とすら言えるものです。しかし、原著である①②④は、いずれの刷であっても古くから大変な稀覯本となっていたため、日本語訳本が原著を底本とし得なかったことは止む得ないものがあり、フランス語改訂縮刷版も現在では完本を入手することが難しくなっている状況を見ますと、厳しい資料的な制約下にあったにも関わらず古くから日本語訳版が世に出されていたこと自体がむしろ驚くべきことでしょう。原著については、世界的に見ても貴重な書物となっており、2011年にフラムスティードの生地であるデルビーの博物館(Derby Museum and Art Gallery)が、本書と同じ②を収蔵することになった際には、BBCが取り上げるほどの話題となりました。(国内研究機関における原著所蔵は殆ど確認できませんが、広島経済大学図書館が貴重な①を所蔵しているようです。)

 こうした書物の貴重性、重要性に加えて本書には、フラムスティード直筆と思われる文書が付属しているという、特筆すべき点があります。もちろん、本書刊行当時にフラムスティードは既に亡くなっていますので、書物そのものと、文書との直接的な関係はないと思われますが、前所有者が書物と共に大切に保管していたもので、最晩年のフラムスティードの動向を伝える大変貴重なものです。この文書は、グリニッジ天文台で長年フラムスティードの助手と務め、フラムスティード没後には本書刊行実現に尽力したクロスウェイトの助手としての勤務状況をフラムスティードが証し、行政機関に報告する内容となっています。フラムスティードの自筆書簡やこうした文書類は、フラムスティード没後にまとめられ。それらを編纂した文書集が何度か刊行されており、最新の書簡集(Eric G. Forbes (eds.). The correspondence of John Flamsteed, the first astronomer Royal. 1995-2002)において、この文書と類似のものが収録されているようですが、この文書そのものに当たるものは収録されていないようです。同書によりますと、フラムスティード は助手の勤務についての任命報告書を定期的に政府に提出していたようですから、それらのいくつかが残されていたものと考えられます。この文書はフラムスティードの没年である1719年に認められたことがその内容から分かりますので、同様の文書の中でも最後のものと思われます。筆跡にはかなりの震えが確認でき、作成時点でかなり体力的な衰えがあったことが伺えます。解読しうる限り、翻刻してみますと次のような内容です。

Office of the Ordnance,

I doe hereby certify, Joseph Crothwait has been employed as an extraordinary Laboratory under me from the last day of June XXX(判読できず) past to the last day of September of this present year 1719 at the observatory in Greenwich Park by order of the board.
Being 92 days at 18 a day —-6. 18.00

John Flamsteed MR.

一部誤りがあるかもしれませんが、概ね上記の内容となっています。内容から見て、1719年10月以降に認められたものと思われますが、1719年12月にフラムスティードは亡くなっていますので、おそらくこの文書が最後のものとなったのではないでしょうか。


 本書は、上述のようにフラムスティードの『天球図譜』として、これまで日本でも広く知られる存在でありながらも、原著を所蔵する国内機関が皆無に近かったため、その実像を知る機会がほとんどなかった大変貴重な資料です。また、付属する文書も今後の研究と精査が必要とされますが、フラムスティード最晩年の様子を伝える第一級の未公刊史料の可能性が高いものです。極めて貴重な原著と文書とが同時に市場に現れることは、今後ほぼあり得ないと思われるもので、世界史上において大きなインパクトをもたらした記念碑的作品を国内機関で所蔵、研究、展示を今後行なっていくことには、大きな意義があるものと思われます。
 
 本書は、日本の愛書家の方が60年ほど前にイギリスにて入手されたもので、ご遺族の方より当店にお譲りいただいたものです。このような世界的に見ても貴重な資料を長年にわたって大切に保管されてきた前所有者様ならびにご家族の皆様のお気持ちに鑑みて、地図、航海史の稀覯本の蒐集と保存、研究、展示棟の活動において国内を代表する研究機関様に寄贈させていただくことにしたものです。当該の研究機関様は、フラムスティード以前を代表するバイエル(Johann Bayer, 1572 - 1625)による『星座表(Uranometria. 1603)を所蔵されており、これまで展示会などで公開されてきた豊富な実績がありますので、今後、バイエルの『星座表』とフラムスティードによる本書の同時公開など、これまで国内のみならず世界的にも開催が難しかった展示企画や研究が期待できます。全所有者様ならびにご家族の皆様、そして寄贈をお受けいただきました研究機関様に、心より御礼申し上げますとともに、この資料を用いた今後の研究、展示企画などの展開を期待したいと思います。

フラムスティードの肖像画。
タイトルページ。
フランス語改訂縮刷版を底本にして、ほぼ同じサイズで出版されている日本語訳本(下)と比べると、本書が格段に大きいことや星図の描き方が全く異なることがよく分かる。がよく分かる。
本書の一角獣座ほか
フランス語改訂縮刷版を底本にした日本語版の一角獣座ほか
星図1 雄羊座ほか
星図2 牡牛座ほか
星図3 ふたご座ほか
星図4 蟹座ほか
星図5 獅子座ほか
星図6 おとめ座ほか
星図7 天秤座ほか
星図8 射手座ほか
星図9 水瓶座ほか
星図10 魚座ほか
星図11 くじら座
星図12 エリダヌス座とオリオン座ほか
星図13 いっかくじゅう座、おおいぬ座、こいぬ座ほか
星図14 うみへび座、コップ座、からす座、ろくぶんぎ座ほか。この図のみ折り込み図版となっている。
星図15 カシオペア座、ケフェウス座、こぐま座、りゅう座ほか
星図16 アンドロメダ座、ペルセウス座、さんかく座ほか
星図17 きりん座、ぎょしゃ座ほか
星図18 やまねこ座と小獅子座ほか
星図19 おおぐま座
星図20 髪の毛座、うしかい座、猟犬座ほか
星図21 ヘルクレス座、かんむり座、琴座ほか
星図22 へびつかい座、へび座ほか
星図23 わし座、矢座、こぎつねとガチョウ座、いるか座
星図24 琴座、白鳥座、とかげ座、こぎつねとガチョウ座、矢座ほか
星図25 
星図26 北半球
星図27 南半球
ジョージ二世への献辞
序文冒頭。
序文②
序文③
序文④
序文⑤
刊行当時のものと思われる革装丁。
フラムスティード直筆と思われる文書。長年フラムスティードの助手を務め、フラムスティード没後に本書出版に尽力したクロスウェイトに関する行政文書。内容から見て、1719年10月以降に認められたものと思われるが、1719年12月にフラムスティードは亡くなっているため、最晩年のものと思われる。