「最後の戯作者」仮名垣魯文が描く、那勃列翁(ナポレオン)超活劇
本書は、明治初期にナポレオン(那勃列翁)を題材として作成された戯作で、幕末から明治にかけての日本におけるいわば「ナポレオン流行」を象徴する作品ともいうべきものです。幕末から明治にかけて活躍し、「最後の戯作者」とも言われる仮名垣魯文がテキストを、数多くの異国絵で名を馳せた歌川芳虎が画を作成したもので、ナポレオンを主人公とした冒険活劇が描かれています。
幕末のペリー来航をきっかけに、江戸の大衆読み物である草双紙も海外情報を題材とした作品を生み出すことになりますが、本書は明治初期に刊行された最後期にあたるもので、江戸と明治をつなぐ作品ともいうべきものです。仮名垣魯文は、海外情報を題材とした作品を歌川芳虎とのコンビで幕末から複数刊行しており、アメリカ史を題材にした『童絵解万国噺』(1861年)などは特に有名なものとして知られています。本書は、幕末から明治にかけて日本で絶大な人気を誇ることになるナポレオンを題材にしたもので、筋書きは史実からかけ離れたものではありますが、ナポレオンの日本における人気ぶりを象徴する作品と言えるものです。
初編上下の表紙。合わせることで1枚の絵となる作り。「左がコルシカ島の少年ナポレオン。『白縫譚』初編の漁師春吉のような姿で、いかり綱を肩に掛けて見得を切ったところ。右は船首フロヂの娘ポテンニヤ。派手なスカートに風呂敷のようなガウンをまとい、紙は島田髷で、不思議な形のいかりを突く。背景をよく見ると怪しげなローマ字をちりばめ、洋風の印象作りに努めているらしい。」
第二編上下の表紙。初編と変わって、背景のローマ字はかろうじて読めるものとなっている。
登場人物紹介① ヨーロッパ州フランス国第一世帝ナポレオン・ボナパル(右)と、イギリス国女王アンナ(左)
登場人物紹介②コルシカ島の天主道人(右)海女のモカアル(右)、鯨漁師リュウス(左)、海賊ヤアミドル(左)
登場人物紹介③とテキスト冒頭箇所。豪商フルチの娘ポテンニャ(右)とコルシカ島の下役人ガラパス(左)。左ページにはパリを描く。
「15歳のナポレオンが大鰐鮫を仕留める」
「文明」を象徴する、蒸気船や電信についての紹介も挿入されている。
帝都パリにて王との謁見にのぞむナポレオン。
「船首の娘ポテンニヤに恋し力と権力で結婚を迫る下役人ガラバス」
「下役人ガラバスを、ナポレオンが成敗する」
保存用の袋。上掲は第二編のもの。「満月と飛雁の列を下に見て大空に浮かぶ軽気球は、新時代を象徴し、やがて新聞小説へと発展的に解消していく草双紙の未来を暗示するようである。」
草双紙研究の名著とされる木村八重子氏の『草双紙の世界:江戸の出版文化』(ぺりかん社、2009年)には、本書についての詳しい解説があり、そこでは下記のように紹介されています。
「最後の戯作者といわれる仮名垣魯文は、新時代の動向にも敏感で、前話(『童絵解万国噺』を解説している52話のこと;引用者註)にも紹介したように画工の芳虎と組んで「万国物」の合巻を作った。明治5年(1872)刊行の『倭國字西洋文庫』は、フランスに続いてイギリス、アメリカ、プロシャ、トルコ、ロシアの国々の珍しい話をつづると予告したが、副題にある「那勃列翁(ナポレオン)一代記」だけで終わったらしい。
カラー口絵10(上掲写真を参考;引用者註)はその初編の表紙。左がコルシカ島の少年ナポレオン。『白縫譚』初編の漁師春吉のような姿で、いかり綱を肩に掛けて見得を切ったところ。右は船首フロヂの娘ポテンニヤ。派手なスカートに風呂敷のようなガウンをまとい、紙は島田髷で、不思議な形のいかりを突く。背景をよく見ると怪しげなローマ字をちりばめ、洋風の印象作りに努めているらしい。
本文は「世界の形は丸く、地球という。海陸があり、陸を分けて五大州という」と始まり、文明開化の「ヨウロツパ」も大昔は野蛮だったが、国が開け、学問が盛んになって今日のようになった。その真ん中にフランスがあり、都ハリスの西にコルシカ島がある、と説明する。
物語は、15歳のナポレオンが大鰐鮫を仕留める話、船首の娘ポテンニヤに恋し力と権力で結婚を迫る下役人ガラバスを、ナポレオンが成敗する話、大蝦蟇の魔物、天主道人がナポレオンに法力を授けることなど、旧来の合巻そっくりで、ところどころ黒船や西洋建築めいた絵もあるが、人物の描法、鰐鮫退治などはまるで武者絵本のようである。「絵組みはわが国振りに描かす」と断っているが、手本がなくて旧来の絵しか描けなかったのだろう。
図(上掲写真参照;引用者註)は二編の袋。第43話でも説明したが、合巻の袋は各編上下二冊を入れる保護包みで、これにもさまざまな優れた意匠が施される。満月と飛雁の列を下に見て大空に浮かぶ軽気球は、新時代を象徴し、やがて新聞小説へと発展的に解消していく草双紙の未来を暗示するようである。」
(木村八重子氏『草双紙の世界:江戸の出版文化』ぺりかん社、2009年、183,184ページより)
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初編上の奥付、広告も兼ねている。
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初編下の冒頭。
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第二編上の奥付。
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第二編下の冒頭。
明治初期に広く読まれながらも読み捨てられる草双紙でもあった本書は、現存するものがあまりなく、全体でどのような構成になっていたのかについても不明瞭なところがあります。おそらくこの作品は未完に終わったようで、少なくとも第三編までは刊行されたようですが、それ以降は刊行されなかったものと推察されます。本書は第二編までとなっていますが、上記にあるような販売当時の袋も付属している大変状態の良いもので、視覚資料としての側面が強い資料だけに大変貴重なものと言えます。
初編の袋。
いずれの巻も裏表紙まで鮮やかな装飾が施されている。
ところで、本書は、上記で解説されているように、ナポレオンを題材とした、江戸時代の戯作の技法で作成された大衆読み物と言えるものですが、では、なぜ当時「ナポレオン」が題材にされたのでしょうか。
これは突如として仮名垣魯文が思いついたものではなく、幕末から明治に続く、日本における長いナポレオン情報の流布の歴史が背景にあります。ナポレオンから遠く離れた江戸期の日本においても、その影響はいわば玉突き的に伝わっており、特にナポレオンがオランダを併合したことに伴う、長崎出島貿易への影響や、外国船来航などは非常に深刻なものでした。江戸時代におけるナポレオン情報伝播の歴史については、岩下哲典氏の『江戸のナポレオン伝説:西洋英雄伝はどう読まれたか』(中央公論社、1999年)において非常に詳しく紹介されていますが、本書を中心にして、追補をしながら江戸から明治初期にかけての日本におけるナポレオン情報の伝播をまとめますと、下記のようになります。
江戸時代
1805年
フェートン号事件
→フェートン号水夫の一人が、フランス皇帝の弟がオランダ国王になっている、という情報を阿蘭陀通詞にもたらしたとされる。
1807年
大槻玄沢『環海異聞』
→レザノフのもたらした漂流民、津太夫らへの尋問からオランダがフランスと同国になったことを報じる。
↑ヨーロッパにおける政変についての断片的な情報は比較的早くから日本にもたらされていたが、ナポレオンという個人についての情報はもたらされず。オランダ風説書でもナポレオンについての情報は巧妙に秘匿されていたとされる。
①1812年
ゴロウニンとともに日本に捕縛されたロシア人、ムールによる『模烏児(モウル)獄中上表』がナポレオンについて言及。
②1813年
リコルドが日本にもたらしたロシア語新聞にナポレオンの記事あり。オランダ商館に問い合わせるも曖昧な返答しか得られず。
③1818年
頼山陽が長崎を訪れた際にナポレオンのロシア遠征に従軍したオランダ人から、ナポレオンについての話を聞き、それをもとに漢詩「仏郎王歌」を詠む。
日本国内でナポレオンが広く知られるきっかけとなる。
④1825年
ゴロウニンの『日本幽囚記』ドイツ語版からの重訳オランダ語版が1821年日本にもたらされ、『遭厄日本記事』として出版される。
ドイツ語版はロシア語版よりも日本批判の程度が強かったと言われており、①の内容とも相違があったため、高橋景保が①をオランダ語に翻訳してヨーロッパでの出版を試みる。
⑤1826年
A) 高橋景保がオランダ商館長スチュレルから聞いた情報をもとに、ナポレオンの伝記『丙戌異聞(へいじゅついぶん)』をまとめる。
B) 高橋景保が部下の吉雄忠次郎と蘭学者の青地林宗に命じて、ワーテルローの戦記『別埒阿利安設戦記 (ベレアリアン戦記)』を訳述
→いずれもナポレオン没落後に勝者の側にあったオランダの立場に拠って書かれたもの。
1828年
シーボルト事件で高橋景保が失脚したため、天文方を中心としたナポレオン情報の流布が停滞。
⑥1829年
天文方蛮書和解御用であった小関三英が、ナポレオンの略伝を邦訳し、『卜那把盧的戦記』(原本は現存せず僅かな写本のみ伝わる)としてまとめる。
大槻西磐が漢文に翻訳し、『卜那把盧的紀略』(写本)とする。
⑦1832年
小関が、リンデンによるナポレオンの伝記の邦訳を開始、『ブオナパルテの生涯』(草稿原本は現存せず)としてまとめ始めるが、未完に終わる。
(原著?:Linden, J. van der. Het Leven van Buonaparte. Naar het Fransch, door Mr. J. Van der Linden, Advocaat te Amsterdam. Amsterdam: J. Allart, 1801.(ただし直接の底本は第4版(1803年)とされる。))
1839年
蛮社の獄において小関が自死を遂げる。
*年代は不明だが、この頃に作成されたと思われる安田雷州によるナポレオンの肖像やナポレン戦闘図が残されている。
1845年
箕作阮甫『西史外伝』(写本)にナポレオンの伝記が収録される。
箕作省吾『坤輿図識』本編の刊行開始。
⑧1847年
箕作省吾『坤輿図識』補編刊行。ナポレオンの伝記が収録されている。日本で刊行されたナポレオンの伝記として最初のものか?
⑨1853年
時々夢斎『海外人物小伝』が刊行される。
ナポレオンだけを扱っているわけではないが、かなりの紙幅を割いてナポレオンの伝記が挿絵入りで紹介される。日本で刊行された挿絵付きのナポレオンの伝記として最初のものではないかと思われる。
⑩1854年
作者不明、原著不明の『仏蘭西偽帝那波列翁一代記』が、木版活字本として刊行される。
本書には、日本におけるナポレオン情報普及の契機となった③も収録されている。
ただし、内容は、⑧の巻一から巻三までをほぼ写したもの。表題が表すように著者のナポレオン評価は否定的。
→日本最初の独立した刊本としてのナポレオンの伝記となる。
11. 1857年
松岡与権が、未完となっていた⑦を完成させ、『那波列翁伝初編』として刊行する。
本書には、日本におけるナポレオン情報普及の契機となった③と、ナポレオンの肖像を描いた木版画が掲載されている。
*特に⑤⑧⑩11は、幕末の志士(佐久間象山、吉田松陰、西郷隆盛)らに影響を与える。
12. 1867年
福地源一郎がナポレオンによる兵法書の英訳書を翻訳し、『那破倫兵法』として刊行する。
(原著?:D’Aguilar, Colonel. Mapoleon’s Maxims of War. 1845?)
明治時代
那波列翁、那波烈翁、那勃列翁、那翁、などの名称で様々な書物が刊行される。
これらを大別すると、
①伝記(英雄譚含む)
②軍記(陸軍学校による兵法書含む)
③戯作等、ナポレオンを題材、テーマにした読み物
に分類できる。
一般に広く流布したものでは、①と③の影響力が強い。
①については、欧文の定評あるナポレオンの伝記を翻訳したものと、日本の著者が独自に著したものとに分けられる。
前者(翻訳書)を代表するものとして
栗原古城訳『奈翁実伝』(1920)
→ナポレオンの伝記として最も有名な作品の一つである、Mémoires de M. de Bourrienne, ministre d'etat sur Napoléon, le directoire, le consulat, l'empire et la restauration(1829).を翻訳したもの。
前田長太訳『聖ヘレナにおけるナポレオン回想録』(1912)
→ナポレオンの伝記として最も有名な、Le mémorial de Sainte Hélène par le Comte de Las Cases.1823,24.を翻訳したもの。
また、ナポレオンのみを扱っているわけではないが、明治初期の注目すべき翻訳伝記作品として、西洋の英雄譚が纏められた下記の書物がある。
山内徳三郎『西洋英傑傳』(1872)
→三編上下は「佛朗西帝都那勃列翁之傳」で、ナポレオンの肖像も収録している。
後者の日本独自の本格的な伝記作品としては、下記がある。
長瀬鳳岡『縮刷奈翁全傳』(1916)
→ナポレオン研究会である「奈翁會」によって編纂、出版された全7巻のナポレオンの伝記を縮刷してまとめたもの。
③については、本書が最も代表的なものだが、より後年に刊行された絵入り読み物としては下記がある。
清水市次良『那波列翁軍記』(1887)
このようにして見てみますと、日本とナポレオンとの関係は、想像以上に歴史的にも書誌上においても長く、また深いものである事に改めて気付かされます。このような日本におけるナポレオン受容史において、幕末から明治にかけて「英雄ナポレオン」「名将ナポレオン」としてのナポレオン像は、民衆レベルにまで様々な形で浸透していくことになりました。本書は、こうした文脈において、江戸期の草双紙の技法でわかりやすく「英雄ナポレオン」を(荒唐無稽ながらも)民衆に広く伝えた文献として、他の作品にない独自の重要性を占めているものと考えられます。その意味で、ナポレオン生誕250年となる2019年にこうしたナポレオンと日本との関係について改めて考察してみるための研究、展示資料として本書は様々に活用することができるものと思われます。
第二編上巻より。イギリスの大海賊フバリア。
第二編下巻より。コルシカ島の民を苦しめる大蝦蟇の魔物。
第二編下巻より。下役人ガラバスが大蝦蟇の魔物を成敗せんと乗り込むが…
保存用の秩が付属する。