書籍目録

「『百科全書』補遺のために作成された北東アジア地域の最新地図」

ヴォーゴンディ / [ホーマン] / [アブル=ガーズィー]

「『百科全書』補遺のために作成された北東アジア地域の最新地図」

1772年 [パリ刊]

de Vaugondy, Robert / (Homann, Johann Baptist) / (Abu al-Ghazi Bahdur).

NOUVELLE REPRÉSENTATION DES CÔTES Nord et Est DE L'ASIE pour servir d'eclaircissement aux Articles du Supplément de l'Encyclopedie qui concerment le Passage aux Indes par le Nord.

[Paris.], 1772. <AB2018153>

Sold

1 sheet map, 38.8 cm x 42.5 cm, contemporary hand colored.
厚紙による保護台紙付属

Information

 このユニークな地図は、カムチャッカ半島と千島列島を中心とした日本北方海域を描いたものです。この地域の地理情報は、18世紀後半に入ってもなお明らかになっておらず、ロシアやフランス、ドイツなどの様々な地理学者による諸説が混乱しながら唱えられていましたが、本図では当時最新の三つの異なる情報源に基づいて描かれていることが特徴です。

 この地図は、ディドロ(Denis Diderot, 1703 - 1784)とダランベール(Jean Le Rond d'Alambert, 1717 - 1783)らによって始められた『百科全書(L'Encyclopédie...1751 - 1772)』の補遺のために作成されたものです。この地域の地理情報については、古くからはオランダが、17世紀末から18世紀にかけてはロシアによる測量調査が新しい成果をもたらしていましたが、フランスのアカデミーはロシアのそれと深い関わりを有していたことから、この地域を正確に描いた地図の作成に強い関心を寄せており、そうした成果の一つが本図であると思われます。

 オランダ人の航海士フリース(1598-1647)による、伝説の金銀島探索航海(1643年)によって、北海道東岸地域の情報が新たにもたらされ、北海道東岸の輪郭線はそれまでの地図にない正確さで細かく描かれるようになり、また同時に、彼が「発見」した択捉島は「オランダの島(Staten Eylant)」、得撫島は、「オランダ東インド会社の土地(Compagnies Land)」として描かれるようになりました。しかし、北海道が島であるのか、あるいは大陸と接続された半島の一部であるのかは依然として不明のままで、また「オランダ東インド会社の土地」とされた得撫島はフリースによる探索では西海岸のごく一部しか確認できなかったため、非常に大きな大陸のように描かれていたりと不明な点が数多く残されていました。こうした点を改善したのは、17世紀終わりからカムチャッカ半島や千島列島への進出と調査を重ねつつあったロシアで、特にピョートル大帝(Petr Alekseevich, 1672 - 1725)によって主導された1720年に始まる千島列島周辺の調査によってオホーツク海北部やカムチャッカ半島周辺の正確な測量が飛躍的に進むことになります。本図の一番大きな図中でカムチャッカ半島や千島列島が比較的正確に描かれているのは、こうしたロシアによってもたらされた当時最新の情報に基づいているためです。

 ロシアによってもたらされたカムチャッカ半島や千島列島周辺の地理情報は、ヨーロッパで複数の地図に反映されることになり、そうした作例に基づいて描かれているのが、本図中にNo.IとNo.IIと記された二つの地図です。No.Iとされている図については、説明文で簡単に解説されており、アブル=ガーズィー(Abu al-Ghazi Bahadur, 1603 - 1663)によって著された「韃靼人の歴史」をフランス語に翻訳してライデンで刊行したものから採ったとあります。この「韃靼人の歴史」とは、Histoire genéalogique des Tatars. 1726. のことと思われ、この書物に収録されている北東アジア図(Carte de l'Asie septentrionale)こそが、まさにNo.I図の典拠となったものです。このカムチャッカ半島周辺図は、ロシアによる最新の測量調査に基づいて作成されたものと思われ、直接的な典拠は異なるものの、ケンペルの日本図中の部分図にも類似した図が採用されています。

 No.IIとされている図は、「ニュルンベルクで刊行されたカムチャッカ半島周辺図の縮小版」と解説にありますが、これは、ピョートル大帝と深い関係を築いていたニュルンベルクの地図製作者ホーマン(Johann Baptist Homann, 1663 - 1724)による「カムチャッカまたは蝦夷図(Das Land Kamtzadalie sonst Jedso...1725)」のことを指しているものと思われます。この図では、ロシアの測量によってもたらされたカムチャッカ半島の輪郭と、千島列島が描かれており、列島の南端に松前島(Matmanska)があり、そのすぐ南には本州(Niphon Japon)が描かれています。カムチャッカ半島のすぐ東隣には大陸らしきものが描かれていて、ここには名前が付されていませんが、アメリカ大陸を描いたものと思われます。


 しかしながら一方で、ロシアの測量に基づく地図では、No.II図にあるように、千島列島の南端に小さく「松前島」が描かれていて、従来のフリースの測量に基づくヨーロッパの諸地図にあった「蝦夷」が姿を消してしまっており、ここで再び、「蝦夷」がそもそも実在するのか否か、また実在するのだとすればそれは半島であるのか否か、またカムチャッカ半島、あるいは樺太との関係はどうなるのか、等を巡って、議論が生じることになります。また、巨大な「オランダ東イン会社の土地」とされた得撫島も、やはりロシアの測量に基づく地図では姿を消してしまっていましたので、ヨーロッパの地理学者は、両者を折衷してなんとか整合性のある図を描こうと努力しました。本図の一番大きな図を作成した同時代を代表するフランスの地図製作者ヴォーゴンディー(Robert de Vaugondy, 1723 - 1786)もまさにそうした試みを行った地図製作者の一人で、その結果、本図の一番大きな図は、カムチャッカ半島や千島列島についてはロシアの情報に依拠しつつも、巨大で不正確な輪郭で描かれた蝦夷や、「オランダ東インド会社の土地」を組み合わせたものとなっています。結果的に、本図で描かれた三種類の地図は同じ地域を描きながらも、互いに整合性が成り立たないものとなっており、これはそのまま当時のヨーロッパにおける同地域の地理情報をめぐる混乱と議論の状況を反映したものと言えます。その意味で、当時のヨーロッパ最新の知見をくまなく盛り込むべく企画された『百科全書』の補遺を飾る地図としてふさわしくなるよう、ヴォーゴンディは本図を作成するにあたって、あえて独断に基づいて一つの地図を描くことよりも、三つの地図を本図に収めることで、客観的な判断を読者、あるいは今後の調査の進展に委ねるという、学問的な態度を示したのではないかと推察されます。

(日本北部地域の地理情報の発展と書誌情報については、①神崎順一「古き日本北部の地理を読む:ショイヒツァー「日本図」(雄松堂『ビヌス』85号所収)、秋月俊之『日本北辺の探検と地図の歴史』北海道大学図書刊行会、1999年を参照のこと)

地図のサイズに合わせて作成された厚紙の台紙が付属する。
北海道を含む日本北方海域は世界中で最も最後まで地理的に未解明のままだった地域の一つ。それだけ日本図では18世紀後半のヨーロッパにおいて唱えられていた複数の説を見ることができるため興味深い地図と言える。
同じ図面上に3枚の異なる(互いに矛盾さえする)地図を掲載するというユニークなもの。