書籍目録

『日本の冬季軍事演習について』(『軍事週報1912年第1号』補遺)

ハウスホーファー

『日本の冬季軍事演習について』(『軍事週報1912年第1号』補遺)

1912年 ベルリン刊

Haushofer, K(arl).

Eine japanische Winterübung. (Beiheft zum Militär-Wochenblatt herausgegeben von v. Frobel, Generalmajor a.D. 1912 Erstes heft)

Berlin, Ernst Siegfried Mittler und Sohn, 1912. <AB2018131>

Reserved

16.0 cm x 23.0 cm, pp.[1], 2-23, with a folded map, Original paper wrappers.

Information

知日派にしてドイツ地政学の祖と呼ばれたハウスホーファーによる1910年1月、2月に(京都)第16師団が行なった軍事演習についての考察

 本書の著者である、ハウスホーファー(Karl Haushofer, 1869 - 1946)は、ナチス政権の対外政策の要となった「生存圏Lebensraum)」概念の形成と発展に大きな影響を与えた「地政学の祖」として知られている人物です。軍人出身で実質的には在野の研究者として地政学に関する著作、雑誌を次々と発表し、また知日派として、東アジア情勢に関する著作を数多く刊行しています。ナチス政権と日本の政界人、軍人の要人との広範、かつ深いネットワークを通じて、両国の対外政策に強い影響を及ぼしました。終戦後は連合国軍によって、ナチスイデオロギーの黒幕、戦争犯罪人と見なされ、1946年3月に悲劇的な自死を夫妻で遂げています。

 ハウスホーファーは、1909年から1910年にかけて日本に滞在しており、その際の経験が元となり、帰国後の1913年には、日本を手本にして日独双方の地理学と軍事学を架橋することを試みた博士論文(Der deutsche Anteil an der geographischen Erschließung Japans und des subjapanischen Erdraums, und deren Förderung durch den Einfluß von Krieg und Wehrpolitik)を提出し、同年に日本滞在記をまとめて『大日本(Dai Nihon)』を刊行しています。帰国後も、日本の要人との関係を維持、発展し続けており、大変な親日家、ドイツにおける東アジア情勢の専門家としての側面でも知られています。

 第二次世界大戦における日独両国の外交政策、思想を研究する上で、ハウスホーファーが両国に与えた影響の内実については欠かすことのできないテーマと思われますが、地政学を扱うこと自体が戦後の日独両国において半ばタブーとされたことから、ナチスイデオロギーの生みの親としての側面以外からは、あまり研究がなされてこなかったと言われています。こうした点を指摘し、近年ではクリスティアン・シュパング氏が、1930年代から40年代にかけての日本の地政学、外交政策にハウスホーファーが与えた影響についての研究を精力的に進めています。

「カール・ハウスホーファー博士は、ドイツ地政学の大成者であり、ナチス・ドイツの重要な外交政策顧問の一人として、アドルフ・ヒトラーをはじめ、ルドルフ・ヘスやヨアヒム・フォン・リッベントロップらナチスのリーダーたちの世界観に大きな影響を与えたといわれる。
 今までのハウスホーファー研究は、ともすればナチスの「生存圏」イデオロギーの生成に関わる影響力の究明に集中されてきた。
 しかし、ハウスホーファーが「例外的」ともいえるほど、膨大な日本や東アジアに関する論文・著作を残し、またこの地域の人たちとの幅広い交流をしていた事実からすると、彼と「生存圏」の関係もまた、再検証が必要とされるのではないか。
 ハウスホーファーは、1930〜40年代の日本の地政学に関しても深い関わりを持っているが、これまでの研究において詳しく扱われることは少なかった。その理由の一つは、地政学自体が戦後の日本では、ドイツと同様に一種の「タブー・テーマ」となっていたからである。」
(クリスティアン・シュパング「ドイツ地政学と戦時下の日本大東亜共栄圏理論」なら県立大学ユーラシア研究センター事務局編『EUNARASIA』2016年12月号より)

 日本滞在時の彼の目的は、京都にあった陸軍第16師団のオブザーバーとして赴任し、当時の日本陸軍の軍備情報の収集と分析に当たることであったと言われていますが、本書は、まさに彼が当時滞在していた陸軍第16師団が1910年1月と2月に、京都市南部で行った冬季軍事演習についての考察をテーマとしています。第16師団は、帝国陸軍が1905年に京都にて編成した師団の一つで、現在の京都市伏見区の龍谷大学や聖母女学院がある場所に置かれていました。龍谷大学東を南北に通る街道を「師団街道」と現在も呼んでいるのは当時の名残です。ハウスホーファーが本書で扱っている1910年冬の軍事演習は、師団本部よりもさらに南の現在の宇治市近辺を中心に行ったようで、赤・青両軍に分かれて模擬演習を行なったことが記されています。ハウスホーファーは自身が見聞した演習内容を記述するとともに自身の視点からの考察を随所に加えており、また自身で書き起こしたと思われる地図を交えながら分析しています。

 先述のように、ハウスホーファーは、帰国後の1913年に博士論文を提出し、以降は精力的な出版活動を繰り広げていくことになりますが、それ以前の作品についてはおそらくこれまでほとんど言及、認知がなされていないものと思われます。しかしながら、本書が示すように、博士論文提出以前から彼は著作活動を精力的に開始しており、しかも日本滞在時に見聞したことを独自の視点でまとめていく作業を続けていたことがわかります。

 また、近年では、旧日本軍の戦争遺跡の研究や、各地に配置された各師団の活動実態についての研究の重要性が再認識されるようになってきており、その意味でも本書は、京都の第16師団が設置されてから比較的初期の時期にあたる1910年にどのような演習を行なっていたかを記した貴重な資料ともいえるでしょう。

「厳しい訓練がなされた、私的制裁が後を絶たなかった、「皇軍」意識が鼓吹されたなどの、旧軍に関する常識が、かなりの程度援用できるのは確かだろう。しかし、どの場所でどのような訓練がなされたのか、饗庭野(現滋賀県高島市)や長池(現京都府城陽市)などの師管の演習場とどのように使い分けられたのか、実弾射撃はどこでやったのか、銃剣術の訓練はどのような頻度で行われたのかなどの点は明瞭になっていない。京都師団以外に事例を求めても、このような疑問に答えてくれる、まとまった研究は乏しいのが現状である。」
(武島良成「京都師団の日常−文献史料による「戦争遺跡」の検証−」(『京都教育大学紀要』第108号、2006年より)

記事冒頭箇所。
随所に地図も交えながら、第16師団が行なった冬期演習についてハウスホーファーの考察が加えられている。
巻末には折り込みの地図が収録されており、演習場となった地域全体を俯瞰することができる。
表紙裏面は、ドイツにおける日露戦争を分析した大著の広告が掲載されている。