書籍目録

『日本は中国の中立を侵犯しているか否か、アメリカ人民への訴え』

河上清(キヨシ・カール・カワカミ)

『日本は中国の中立を侵犯しているか否か、アメリカ人民への訴え』

『日系アメリカ人週報』からの再録、著者名刺貼り付けあり。 1904年 ニューヨーク刊

Kawakami, K(iyoshi). K(arl).

HAS JAPAN VIOLATED CHINA'S NEUTRALITY ? AN APPEAL TO THE AMERICAN PEOPLE.

New York, Japanese-American Weekly, 1904. <AB2018127>

Sold

13.0 cm x 19.0 cm, 8 leaves (unnumbered), Original paper wrappers.
表紙が綴じから外れている状態であったものを和紙にて補修。

Information

アメリカでキリスト教社会主義者として活躍したジャーナリストK.K.カワカミによる日露戦争における日本による中国中立侵犯の非難に対する反論。セントルイス万博での講演録。著者の名刺付属。

 本書は、日露戦争のさなかの1904年にニューヨークで刊行された小冊子、日露戦争中に中立の立場をとった中国に対して、日本が対露作戦においてその中立を侵犯しているとの非難に論駁する内容となっています。著者の河上清は、萬朝報の論説委員を務めた後、1901年単身渡米し、以後はアメリカのジャーナリズム界の中枢で活躍し続けたという異色の明治生まれの言論人です。

 本書の元となったのは1904年に開催されたセントルイス万博会場での河上の講演であったようで、そのことが末尾に記されています。河上は萬朝報の記者代表として、この万博に合わせて開催された万国新聞社会議に出席しており、その後もセントルイスにとどまり記事を送っていたとされていますので、その際に公演を持つ機会があったものと推察されます。また、本書の見返し部分には河上本人が当時用いていた名刺が貼り付けられていることから、本書は著者が親しい関係者に贈呈したものではないかと思われます。河上は、K. K. Kawakami(キヨシ・カール・カワカミ)を名乗ってアメリカで活動していたことが知られていますが、ここに貼り付けられた名刺にも確かにそのように記載されています。河上のアメリカにおける日本擁護のジャーナリストとしての活動は、1930年代以降の活動は比較的知られていますが、本書はそれよりもかなり以前の渡米して3年ほどしか経っていないまだ30過ぎの青年であった河上がこうした言論活動と出版を既に行っていたことを示す貴重な資料と言えます。

 河上清は、米沢藩の下級士族の子として生まれ、会津戦争で没落した生家の生計を支えていた兄や祖母の援助を受けて東京に学びながら執筆活動を開始、瞬く間に頭角を表し萬朝報論説委員に抜擢されます。キリスト教社会主義の強い影響を受けて言論活動を勢力的に展開(彼がアメリカで用いたミドルネームKarlはカール・マルクスに由来)しますが、社会民主党の解散命令を受けて日本での活動を休止して、1901年に単身渡米します。アメリカではアイオワ大学政治学部で学びながら、萬朝報にも寄稿を続け、完成させた修士論文『現代日本の政治思想(The Political Ideas of Modern Japan. 1903)は、極めて高い評価を受け、アイオワ大学出版会から単行本として刊行されています。アイオワ大学修了後は、ウィスコンシン大学へと移って経済学を学び始めますが、ここで体調を崩して、1903年にシアトルへと療養のために移ることを余儀なくされます。
 
 療養を終えた河上はアメリカ各地の新聞、雑誌に英文記事を寄港する活動を勢力的に開始し、本書はこの時期に執筆されています。ワシントンに移住した1923年には、アメリカのジャーナリズム界ではその名を知らぬ者はいないと言われるほど、当時日本からアメリカに渡った人物としては異色の在米ジャーナリストとなっています。国際社会において日本の政策が十分に理解されないままに批判されているのは、日本の言論による対外発信があまりにも貧弱であるからだという強い危機感を抱いていたと言われ、当時の日本においてメディア戦略の重要性にいち早く気づいていた数少ない人物だったと言えます。日本の社会、政治動向を批判的に考察しつつも、基本的には日本の大陸侵攻政策を擁護するスタンスに立って、膨大な英語記事を全米を代表する新聞、雑誌に書き続け、アメリカにおける日本の対外スポークスマンとまで見なされるようになりました。

 開戦直前まで日独伊の防共協定を批判し、アメリカとの戦争回避を強く主張し続けたにも関わらず、太平洋戦争勃発後、河上は日本のプロパガンティストとの疑いをかけられ厳しい管理下に置かれることになります。アメリカ当局者による取り調べにおいて、「この戦争の意義をどう考えるか」と尋問された際、この戦争は武力衝突というよりも思想革命としての戦争であると答え、その根幹にある思想が「アジア人のアジア」であり、「アジア人を支配し搾取する白色人種の”神権”に対する挑戦」がこの戦争の根底にある、と答えたとされています。
 ただし、「日本の軍閥がこの『アジア人のアジア』という思想を口実にみずからの過度の野心を満たそうとしてることは非難されるべき」とも述べ、「この戦争に日本は勝てないでしょう。だがたとえ日本が滅びても『アジア人のアジア』という思想や主義は厳然と残るでしょう。そして戦後、オランダ領のインドネシアも、イギリスのインドもビルマも、フランス領のインドシナも必ず独立するでしょう。」と熱弁を振るい、最後に尋問官から「日本はこの戦争に勝つべきか否か」と問われると、河上は、「私は『アジア人のアジア』主義を実現するためには日本が負けなければならないと信じます。日本は貧乏国であるため、占領したアジアの国々に対しどうしても搾取政策をとることになり、諸国の真の独立自立を助けることにはならないからです」と言い切ったたとされています(古森義久『嵐に書く:日米の半世紀を生きたジャーナリスト』講談社、1990年(文庫版)270-272頁を引用、参照)。この回答には、西洋によるアジア侵略に象徴される帝国主義政策を強く批判する一方で、それを克服すべき立場であるはずの日本が、同じ轍を踏んでしまったことへの激しい批判も躊躇しないという、河上の一貫する主張があったと思われます。

 しかしながら、こうした戦中の言説は、それまでの日本擁護から転向して開戦後にアメリカに阿った日和見発言であるとも非難され、戦後はアメリカでの言論活動もごく限られたものになってしまいました。他方、日本からの要望に応え、『米ソ戦わば? 祖国日本に訴う』(1949年)を日本語で刊行し、当時のベストセラーとなっています。
 
 河上清に対する評価はこのように極めて毀誉褒貶が激しく、そのことも災いしてか現在ではその名を知る人はほとんどいませんが、明治時代に単身でアメリカに渡り、当地で活躍し続けた異色のジャーナリストとしての先駆性は、注目に値すべきものであると思われます。本書は、河上のアメリカにおけるジャーナリズム活動の最初期にあたる作品で、これまで言及されたことがほとんどないと思われる大変貴重なものです。

「ミシシッピの大河に面したアメリカ第四の都市セントルイスでは1904年4月末から万国博覧会が賑わしく開かれていた。(中略)
 この万博を記念するような形で、バンコク新聞記者会議というのがセントルイスで開かれた。清は萬朝報の代表としてこの会議に加わるよう東京から頼まれたのだった。
 新聞記者会議が終わったあとも清はセントルイスに残り、万博について記事を書き、萬朝報へ送った。
 清はさらに英文書きの能力を代表団事務局長の手島精一らに認められて、事務局嘱託に任ぜられた。日本の出品物の英文目録書をつくったり、報告書を執筆する仕事である。」(古森義久『嵐に書く:日米の半世紀を生きたジャーナリスト』講談社、1990年(文庫版)151頁より)

見返し部分には河上本人の名刺が貼り付けられている。関係者に自らが配布したものか。
本文冒頭箇所。
末尾を見ると本書の内容が、1904年に開催されたセントルイス万博で行われた講演によるものであることがわかる。