書籍目録

『中国大王国誌』合冊『1582年イエズス会日本年報』

ゴンサーレス・デ・メンドーサ / コエリョ

『中国大王国誌』合冊『1582年イエズス会日本年報』

前者はイタリア語版 1588年 / 1585年 ヴェネツィア刊 / ローマ刊

González de Mendoza, Juan / Coelho, Gaspar/

DELL'HISTORIA DELLA CHINA,... / LETTERA ANNALE delle cose del Giappone del M. D. LXXXII.

Venice / Roma, Andrea Muschio / Francesco Zannetti, M D LXXXVIII. / M. D. LXXXV. <AB2018104>

Sold

8vo (10.6 cm x 14.7 cm), CHINA; Title, 35 leaves, pp.[1], 2-462, 1 leaf [bound with] GIAPPONE: pp.[1(Title), 2], 3-99, 110[i.e.100], 101-112, LACKING 1 LEAF (G8, i.e. pp.113,114)115-118, Contemporary parchiment.
装丁に年式相応の傷み、本文にシミ、やけが見られるが概ね状態は良好。『日本年報』G8一葉欠落。

Information

1580年代後半のヨーロッパにおける最新の中国と日本の状況を伝えた合冊本

 本書は、全く異なる二つの著作を合冊したもので、いずれも1580年代末にイタリアで刊行された中国と日本の当時の最新状況を伝えた非常に重要な著作です。すなわち、ゴンサーレス・デ・メンドーサ(Juan González de Mendoza, 1545 - 1618)による『中国大王国誌』とコエリョ(Gaspar Coelho, 1530 - 1590)『1582年イエズス会日本年報』の二著で、前者は1588年にヴェネチアで刊行されたイタリア語版、後者は1585年にローマで刊行された初版です。

『中国大王国誌』タイトルページ。

『中国大王国誌』は、マルコ・ポーロを例外とすると、ヨーロッパで最初に中国についての本格的な書物として高く評価されているもので、初版は1585年にローマでスペイン語で刊行されています。天正遣欧使節の渡欧も契機となって、ヨーロッパの東アジア地域に対する関心が急速に高まりつつあった時期に刊行された書物とあって、熱烈な歓迎をもって読まれたようで、すぐさま異版や翻訳版の刊行が相次ぎました。本書は、1588年にヴェネチアで刊行されたイタリア語版ですが、原著刊行からわずか3年に過ぎない本書刊行時点で、既に10ものイタリア語版が存在していたとされているほどです。この書は、長南実氏と矢沢利彦氏によって日本語にも翻訳された(長南実、矢沢利彦『ゴンサーレス・デ・メンドーサ シナ大王国誌』(大航海時代叢書 VI)1965年、岩波書店)ことから、現在では国内でも広く知られるようになっています。同翻訳書の解説に従って(解説26頁参照)、本書の構成をまとめると下記のようになります。

第1部(中国総論)
第1巻(全10章、主として地理に関する記述)
第2巻(全10章、主として宗教に関する記述)
第3巻(全24章、主として政治、社会、民族に関する記述)

第2部(中国旅行記)
第1巻(全32章、アウグスティノ会士ラーダらによる1575年の福建省への旅行記)
第2巻(全15章、フランシスコ会士トルデリシャスらによる1579,80年の広東省への旅行記)
(第3巻)(全22章、フランシスコ会士ロヨラらによる1582年の広東省への旅行記とインド、喜望峰を経由してヨーロッパに戻るまでの旅行記)

本文冒頭部分。
ヨーロッパにおける初期の漢字印刷として知られる箇所(第1部第3巻第13章)
日本についての概況を述べた第2部(第3巻)第14章

 著者自身は、フェリペ2世による中国への使節派遣団の一員として中国に赴くことを試みますが、メキシコにあって現地やフィリピン総督らの強い反対にあったため、実際に中国を訪ねることはできませんでしたが、その間、中国に関する様々な報告書や、現地に滞在した人物からの情報を精力的に収集、整理し、その成果として本書を著しています。多くの情報源から本書を構成したため、記述内容に矛盾や不明確な点があると言われていますが、「全体としてはかなり正確に当時の中国の姿を描き出したもの」(同訳書解説32頁)と現代でも高く評価されています。

 また、本書は中国を主たる対象としていながらも、近隣諸国の概況についても触れており、第2部(第3巻)第14章(427頁から)は、日本についての報告となっています。そこでは、日本の地理的外観と中国本土からの距離、航路、人口が極めて多いこと、多くの領主が相争う戦争状態にあるため、本来的な土地の豊かさにも関わらず生活物資が常に欠乏していること、ザビエルの尽力によってキリスト教信仰が広まりつつあることなどを述べています。

『1582年イエズス会日本年報』タイトルページ。同書は諸種の異版が存在することが知られているが、本書はイエズス会出版物の本拠地でもあったローマのザネッティ版として、最も信頼できる版と言える。
本文冒頭箇所。

 また、後半に合冊されている『1582年イエズス会日本報告』は、初代日本準管区長コエリョが1582年2月15日に長崎で認めたものです。この直後の2月20日、巡察使ヴァリニャーノは天正遣欧使節を伴って長崎を発っています。本書の冒頭部分では、使節の4人の少年の概要やその企図するところ、出発時の様子などが描かれており、天正遣欧使節に関して記述した最初期のヨーロッパ側の文献とされています。本書が刊行されたのは、まさに使節が訪れていた1585年のローマにおいてですから、あるいは使節が本書を目にする機会があったかもしれません。また、それに続く各地の布教状況に関する記述は、信長を中心とした有力者の庇護のもとに日本のキリスト教界が最大の活気を見せていた時期の様子を克明に描いたもので、本能寺の変によって安土城が焼亡する直前の時期における日本での活気に満ちた布教の状況はもちろん、信長による天下統一が進みつつあった激動する社会、政治状況を詳しく報告しています。

「下(Ximo」布教区の報告冒頭箇所。
平戸(Firando)報告冒頭箇所。
天草(Amacusa)報告冒頭箇所。

 報告は、1580年に巡察使ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano, 1539 - 1606)
が定めた三つの布教区毎になされています。まず最初に「下(Ximo」布教区である、長崎(Nangasache)、大村(Omura)、当時セミナリオ(Seminario、イエズス会による中等教育機関)のあった有馬(Arima)、平戸(Firando)、天草(Amacusa)といった、各地の詳細が述べられています。

「豊後(Bungo)」布教区報告の冒頭箇所。
当時ノヴィシャド(Novitiato、イエズス会による初等教育機関)のあった臼杵(Vsuchi)報告の冒頭箇所。

 続いて、「豊後(Bungo)」布教区である、当時ノヴィシャド(Novitiato、イエズス会による初等教育機関)のあった臼杵(Vsuchi)、コレジョ(Collegio、イエズス会による高等教育機関)のあった府内(Funai)といった、下布教区以外の九州各地の状況が詳細に報告されます。

「都(Meaco)」布教区報告冒頭箇所。
安土(Anzuchyama)報告冒頭箇所。
高槻(Tacasuche)報告冒頭箇所。

 そして「都(Meaco)」布教区内の中心である、京都(Meaco)や、当時セミナリオが置かれていた安土(Anzuchyama)、高槻(Tacasuche)、河内(Cauaci)といった近畿地方各地の状況を詳細に報告しています。上述のようにこの報告書の後に本能寺の変が生じたことによって、近畿地方各地の布教(のみならず社会状況全般)が劇的に変化することになりますので、ここでの記述はその直前の安土をはじめとした近畿各地の状況を伝えたものとして大変重要なものです。

コエリョによる年報末尾、1582年2月13日に長崎発とある。

 コエリョは戦乱の状況にある日本各地での苦労や困難を報告しつつも、着実にキリスト教信者となるものが増えつつあることや、各地で活動するイエズス会士の人数などを細かに伝えており、当時の日本の社会状況を知る上での大変貴重な情報を提供しています。

ヴァリニャーノが1583年12月28日にインドのゴアで認めたとされる、インド管区内における1583年の殉教者報告。

 また、末尾には、ヴァリニャーノが1583年12月28日にインドのゴアで認めたとされる、インド管区内における1583年の殉教者についての短い報告が付け加えられています。ヴァリニャーノは天正遣欧使節とともに1582年に長崎を出発しましたが、インド管区長としてゴアに止まるようにとの指令を受け、1583年12月20日にゴアから出発した使節を同地で見送っています。本書は、直接に日本を対象とした内容ではありませんが、ゴアで使節を見送った直後のヴァリニャーノの手になる文書ということで、大変興味深いものです。ただし、残念なことに折丁記号G8に該当する1葉を欠いているため、補修が必要です。

  • 刊行当時の装丁と思われる。
  • 傷み、ヤケなどが見られるが、概ね状態は良好。

 本書に収録された二著は、いずれの著作も単独で極めて高い資料価値を有するものですが、このように合冊された状態にあることは、当時の読者層の様態を伝える上でも非常に興味深いものです。東アジア情報に強い関心が沸き起こっていた1580年代末のヨーロッパにおいて、この二つの書物がどのように読まれていたのかという点は、それぞれの書物固有の価値に加えて、新たな視座を提供しうるものと言えるでしょう。